ぼくらの恋には込み入った事情が。

 窓際の一番後ろが漆原の席だった。机の上で交差した腕に頭を乗せ、横を向いて眠っている。熟睡しているようで、おれが近づいても気づくことなく、眠りつづけていた。
 休憩時間で教室は騒がしい。前の席は空いていた。椅子に股を広げて座り、漆原の机に肘をついて、寝顔を見つめた。
 小さな寝息を立てて眠る顔はいかにも長閑で、まるで子どものようだった。頭のなかで数々の恋愛模様をつくり出しているとはとても思えない。虚構の風間謙太郎の夢でも見ているのだろうかと考えながら、おれは首を傾げてさらに近距離で観察した。
 ふだんはすぐに顔を背けるため、これほど間近でじっくり顔を見たことはなかった。おれももちろんだが、漆原のほうもとくに美少年というわけではない。奥二重で、鼻先もすこし膨らんでいる。醜くはないが、街を歩けばだれもが振り向くというタイプではなかった。しかし、白い頬に垂れた髪の筋を凝視していると、落ち着かなくなった。薄くひらいた唇は、キスをしたときの一瞬の感触を即座に甦らせた。
 昨日の夜読んだ10作目の物語も同時に甦った。雨のなかのファーストキス。漆原が思い浮かべていたキスはああいったものだっただろう。すくなくとも、渋谷の街でいきなり歯をぶつけられ、吐瀉物の味がする舌を捩じ込まれるようなものではなかったはずだ。
 映画を観た日の夜、鬱々とした気持ちを引き摺りながら自宅に帰った。漆原を抱きしめてキスをして、そのあとどうなると思っていたのか。漆原が頬を染めて感激するとでも思っていたのか。
 吐瀉物で汚れたシャツをこっそり洗ったあと、自室のベッドで仰向けになって天井を睨みながら、これまでのことを考えていた。漆原の言葉や態度をひとつひとつ辿った。
 はじめて話したとき、漆原はおれに対する特別な気持ちはないといった。だれかを好きになった経験もないと。漆原がおれを好きだとはっきりいったことは一度もなかった。むしろ、付き纏われて迷惑そうな態度だった。
 おれが悪かったのだ。勝手に勘違いして調子に乗り、漆原の気持ちも考えずに暴走した。さらにいえば、漆原がおれを拒むことはないとたかをくくっていた。心のどこかで、漆原を下に見ていたのだ。それは琴子がおれにしたこととおなじ醜悪な優越思考だった。自分がされたことを漆原にしてしまった。尊厳を傷つけ、信頼を損ねた。
 無意識に指を伸ばしていた。寝ている漆原の頬に指先が触れる直前、背後で声がした。
「風祭?」
 驚いて飛び上がった。椅子が倒れ、烈しい音を立てる。
「うちのクラスでなにしてんの?」
 元野球部の波多野、美馬、森井が教室に入ってくるところだった。購買に行っていたのか、菓子パンの袋やジュースの紙パックをそれぞれ手にしている。
「べつになんも……」
 さすがに目を覚ました漆原が怠そうに頭を持ち上げる。目の前におれがいることを不審に思ったのか、顔をしかめて瞼を擦る。目が合って、おれは慌てた。
 おれと漆原を見較べて、3人組が詮索の眼差しを向けてくる。
「あれ? 漆原? なに、おまえらやっぱ友達なの?」
「そんなわけないじゃん」
 答えたのは漆原だった。おれの脇をすり抜け、教室を出て行く。おれは一言も発することができず、漆原の席の前で突っ立っていた。
 ふたりで映画を観に行った日のあと、漆原は学校でおれを避けるようになった。バイト先の書店でも、おれの姿を見たとたんにバックヤードに引っ込んでしまう。
 今の態度を見てもあきらかだ。漆原はおれに腹を立てている。避けられて当然のことをしたのだから、しかたない。
 漆原と顔を合わせてなにを話したいのか、自分でもはっきりわかっていなかった。謝りたいのか、弁解したいのか、それとも……
「風祭、おまえ漆原に用だったんじゃねえの?」
 共通点がなさそうに見えるはずのおれたちの関係をさぐろうとしているのか、美馬がミルクコーヒーのパックからストローを抜いて笑う。
「いや……」
 曖昧に誤魔化すとかえって噂のネタにされてしまう。咄嗟に制服のポケットに手を突っ込んだ。
「これ、図書室で拾ったからさ」
 漆原が忘れていった映画館の会員証。入会申込のときに漆原がペンで氏名を書き込んでいた。
「おれが渡しといてやろうか」
 森井が伸ばした手を見て、首を振った。
「いいよ。面倒かけるの悪いし」
「じゃ机に置いとけば」
 さっきまで漆原が寝ていた机を見下ろす。気のない素振りを装って、首を窄めた。
「また今度にするわ」
 挙動不審に見えただろうが、頓着していられなかった。会員証をポケットにしまいなおして、教室を後にした。同級生たちの視線を背中に感じて、自分の教室にもどるまで呼吸を止めていた。