「風祭くん!」
聞き覚えのある声に振り返ると、海水パンツを履いた譲と護が立っていた。漆原のふたりの弟。中学3年生が譲、末弟の護は小学6年生だ。おれを見上げて顔を綻ばせる。
「びっくりした。偶然だね」
夏休み最後の日曜、市内の屋外レジャープールは混雑していた。休みの期間中それぞれ受験勉強に励んだ同級生たちと羽を伸ばしに訪れていた。漆原の弟たちと偶然出くわすとは予想していなかった。
「友達と遊びにきたの?」
「ああ、うん……」
漆原に目元がすこし似ているが、すでに兄の身長を追い越している譲が笑顔を見せたが、おれにはぎこちない笑みしか返せなかった。
浮き輪を抱え、もう片方の手にソーダの紙パックを持ったまま、おれは立ち竦んでいた。完全に油断していた。
それなりの入場料もかかる巨大レジャー施設だ。小学生と中学生がふたりだけでくるはずがない。逃げ出すために後ずさったおれの背後で、おれの名前を呼ぶ声がした。
「風祭?」
振り向くと、漆原が立っていた。水を弾く素材のハーフパンツに白のラッシュガードを着ている。おれを見て、おれとおなじか、それ以上に驚いていた。こんなところで会うとは、向こうも考えていなかっただろう。いつも持っているバッグのほかに大きなスポーツバッグも肩に提げ、呆然と突っ立っている。
「なにしてんの?」
「友達ときてるんだって」
小学生の護がおれの代わりに答え、兄の手をつかむ。
「風祭くんと遊んでいい?」
「だめ」
まだ幼い弟に対してのものとしてはすこし厳しすぎる声で、漆原はいった。
「風祭、友達といっしょなんだから」
「おれはいいよ、べつに」
咄嗟に口をひらいていた。なぜそんなことをいってしまったのか、自分でもわからない。しかし、止められなかった。
「どうせ女の子ナンパしにきてるだけだし、おれがいなくても全然困らないから」
漆原がおれに向ける眼差しは、弟へのものの数百倍厳しかった。思わず狼狽えたが、おれたちがなにかいうよりも、護がおれの手から浮き輪を奪い取るほうが早かった。
「いえーい! 行こ、風祭くん!」
「風祭くん、この浮き輪貸りていい?」
譲も期待に目を輝かせる。浮き輪のレンタル料金は高価だ。財布の紐を固くしている漆原が奮発するとは思えない。
「いいよ、つかえよ」
「やった!」
さっそく浮き輪の奪い合いをはじめる弟たちを見下ろし、漆原がため息を吐く。親代わりを務めている弟たちに、漆原は弱い。
「遠くに行かないで」
兄の指示に、音量が大きいだけで気の入っていない返事を返して、譲と護がプールに向かって駆け出す。
漆原はおれには目もくれず、黙ってプールサイドを離れていった。プール全体を見られる位置のデッキチェアに座り、荷物を整理しはじめる。
「風祭くん、早く!」
譲と護はすでに水に浸かり、浮き輪につかまって流れに乗りはじめていた。漆原に気を引かれながらも、おれは弟たちの面倒を見るためプールに飛び込んだ。派手な水飛沫が上がり、譲たちが歓声を上げた。
「そこ、飛び込まない!」
監視台の上から屈強な監視員がホイッスルを吹いて、おれは慌てて手を挙げて謝ってみせた。漆原が呆れ顔でこちらを見ている。恥ずかしさとともに浮き上がるような気持ちで、おれは冷たい水に頭まで浸かった。
部活を引退したばかりで体力には自信があったが、全力で遊ぶ中学生と小学生の相手は思っていた以上に重労働だった。ウォータースライダーを3度も滑り、流れるプールを2周もするときには疲れ果てていた。
アイスをほしがる弟たちに小銭を握らせ、行列を抜けて漆原のところへもどった。漆原はデッキチェアに仰向けになって眠っていた。パラソルが顔の上に影をつくり、気持ちよさそうだった。ラッシュガードの胸の上にタオルが掛かっており、その上に乗った左腕が、寝息に合わせて上下している。
隣のデッキチェアに座り、両膝に肘を預けて身を乗り出した。おれが近づいているのにも気づかず、漆原は熟睡している。薄くひらいた唇から息が漏れている。
会うのも久しぶりだが、こうしてじっくりと顔を見たのはいつぶりだろうか。夏休みに入り、塾がはじまって、夏期講習やら合宿やらで忙しくなっていたし、漆原も、夏休み期間中はふだんよりもバイトのシフトを増やすつもりだといっていたから、それなりに慌ただしい日々を過ごしていただろう。寝息を立てる顔には疲労の色が差していた。
ちゃんと夜寝られてんのかな……
痩せた首と浮き出た鎖骨を見つめる。ラッシュガードの襟から覗ける胸元を見ているうちに、友人としての純粋な心配から邪な高揚に変化してきた。
こいつもエロい夢見たりすることあんのかな……
あんな小説を書くくらいだから、頭のなかで想像を膨らませることは当然あるだろう。もしかするとおれよりさらに多く、より露骨かもしれない。
受験勉強で忙しいなかでのストレス解消とフラストレーション発散のためと自らにいいわけして、勉強が終わったあと部屋でひとり小説を読む習慣は継続していた。薄着で寝ている漆原の姿は、文字だけの情報に現実味を加えていた。
やべ。変な気持ちになってきた……
ひとまず物理的に距離を取ろうと、立ち上がりかけたとき、漆原の顔の周辺を小さな虫が飛んでいるのが目に入った。ゆっくりと空中に円を描いて、寝ている漆原の鼻の横に不時着する。
虫を追い払おうと手を伸ばしたとたん、漆原が小さく呻いて目をひらいた。距離を取るどころか、至近距離で目が合った。漆原が短く叫んで上半身を起こす。
「なにしてんだよ!」
バスタオルをつかみ、裸足のままデッキチェアの上で身を縮める。
「今さわった?」
警戒心を隠そうともせず、おれをにらむ。
「さわってねえよ。顔に虫が……」
視線を巡らせたが、漆原の顔で休憩していた虫はすでにいなくなっていた。
「本当になにもしてないって。見てただけ……」
「なにを?」
よけいな一言を差し込んでしまったことを後悔し、舌打ちを飲み込む。漆原の座るデッキチェアの脇に置かれたスポーツバッグを指さす。
「荷物だよ。おまえ爆睡してるし、貴重品が盗まれないように見てた」
くるしまぎれのいいわけだったが、意外に説得力を発揮してくれた。完全に信用したわけではなさそうだったが、漆原はとりあえず緊張を解き、デッキチェアに座りなおした。
「譲たちは?」
「アイス買いに行ってる」
「そっか……」
すこし落ち着いたようで、漆原はスポーツバッグをデッキチェアの上に引っ張り上げ、中身をまさぐりはじめた。
「アイス代払う」
「いいよ、そんくらい」
「いい。ちゃんと払う」
差し出された札を苦笑いで受け取る。相変わらず強情で生真面目だ。
「友達は?」
「先帰るっていっといたから平気」
LINEひとつであっさり受け容れられた。おれは女の子に声を掛けるのも上手いとはいえないし、離脱したところで、困る者もいない。今ごろ施設内のどこかでナンパに精を出しているのだろうが、すでにおれの関心の外にあった。
「……女の子は?」
「女の子?」
「ナンパするって……」
「ああ……」
ナンパを目的にプールにきたと弟たちの前で漏らしたことを思い出した。自分の発言だったがとくに気にとめていなかった。
「おれは気分転換についてきただけで、そういうの興味ないから」
「そうなんだ……」
ああ、まただ。
膝の上のスポーツバッグを弄りながら俯く漆原を見下ろし、ゆっくり息を吐く。
なんでそんな顔するんだよ。おれのこと好きじゃないならなんで……
「よくくんの?」
邪念を振り払うように顔を逸らして、いった。
「え?」
「ここのプール」
「あ……ううん。はじめてきた。原稿料が半分先に入ったから、夏休みの思い出にどこか行こうかっていったら、ここがいいって、譲たちが」
ドラマの放送がはじまり、人気のイケメン俳優が主演しているとあって、クラスでも毎週のように女子たちが騒いでいるが、おれはまだまともに視聴できていない。大勢が通りすがるなかで、小説の話をするのも憚られた。ましてや「裏ページ」のことは口に出せない。巧みに隠されたR指定のページの存在におれが気づいていることを、漆原はまだ知らないはずだ。
話題はあっという間に尽き、会話が途切れた。間が持たなくなったのか、漆原がバッグのなかから日焼け止めを取り出した。白い乳液を手足に塗っていく動作を、おれはなんとなく黙って見ていた。
手を伸ばすと、漆原がまた警戒して身を引く。
「な、なに?」
「いや、首の裏、塗ってやろうかと……」
「いいよ、そんなのいいから」
「けどムラできてる」
そういえば、神経質で完璧主義者の漆原が気にすることを知っていた。怯えさせないよう慎重にゆっくり指先を触れさせると、漆原は一瞬体を震わせたが、拒絶はしなかった。
漆原の首は細かった。掌をあてると、日焼け止めの助けもあり、滑らかにすべっていく。
髪の生え際から首の付け根、ラッシュガードから覗ける肩へと掌をゆっくり移動させる。漆原は顔を伏せ、目を閉じていた。脊椎のかたちを確かめるように親指と人差し指でそっと圧迫すると、眉の間に皺が寄った。
「ありがと……」
ひととおり塗り終わったところで、漆原が小さくいった。
「もういいよ」
「うん……」
漆原の首や肩に触れ、おれは渋谷の舗道で漆原にキスしたときのことを思い出していた。あのときはもっとつよく肩をつかんで、首の感触も……
「風祭?」
手を離そうとしないおれを不審に思ったのか、漆原が上半身を捻って体の向きを変える。肩の感触が消え、代わりに漆原の顔がすぐ近くに迫った。
「漆原……」
「兄ちゃん、風祭くん!」
護の声が響いて、おれたちは慌てて体を離した。すこし離れたところから、譲と護がアイスを持って駆けてくるところだった。
ふたりともぼんやりしていて、弟たちがもどってきたことにまったく気づいていなかった。心臓が破裂しそうだったが、なんとか平静を装い、弟たちに向き直った。漆原も笑顔で弟たちを迎える。
「おかえり。アイス買ったの?」
「風祭くんに買ってもらった!」
ワッフルコーンのアイスを舐めながら、弟たちははじめて体験するレジャープールにはしゃいでいる。さっきまで全力で遊んでいたというのに、小中学生の体力には底がない。
「兄ちゃんも泳ごうよ」
きれいに揃った歯でコーンを噛み砕きながら、譲が兄に声を掛ける。
「ぼくはいいよ。泳げないし」
「浮き輪で浮いてるだけでも気持ちいいよ」
譲に食い下がられ、漆原は困ったような笑顔を見せる。
「風祭くんに教えてもらえば?」
護が無邪気な声でいった。
「風祭くん、泳ぐのすごく上手だったよ」
漆原の視線を受け、慌てていった。
「小学生の頃、スイミングスクール通ってたから」
聞かれてもいないのに答える。
「さっきバタフライ見せてもらった!」
「兄ちゃん、見てなかったの?」
「うん。ちょっとお昼寝してて……」
「なんで見てねんだよ。見とけよ、ちゃんと」
つい顔をしかめ、3人を唖然とさせてしまった。またやってしまった。急いで取り繕う。
「行こうぜ、漆原」
努めて素っ気ない声でいう。
「おまえもたまには遊んだほうがいいって。いつもバイトだの家事だので忙しくしてんだから、こういうときくらい高校生らしく思い切り弾けろよ」
「そうだよ、兄ちゃんも遊ぼう」
「でも荷物が……」
「ロッカー入れときゃいいだろ」
「ロッカー代が……」
「もううるさい!」
声を上げたのはおれではなく譲だった。ふだんはおとなしい譲が立ち上がり、真剣な顔で兄を見下ろしている。
「おれたちばっかりじゃなくて、兄ちゃんにも楽しんでほしいんだよ! 兄ちゃんが楽しくないとおれらも楽しくないんだからな!」
呆気に取られている兄の手をつかみ、強引に立たせる。
「風祭くん、頼んだ!」
譲の剣幕におれも唖然としていたが、漆原の体を圧しつけられ、我に返った。譲の目を見て、求められているものを察した。漆原の膝の裏に左腕を差し入れ、踵に力をこめて抱き上げた。漆原の体は軽く、難なく持ち上がった。
「ちょっと……やめてやめて、だめだめだめ!」
漆原が暴れたが、抵抗は想定済みだった。横抱きにしたまま、プールの淵へ向かう。飛び込もうとしたところで、監視員と目が合った。すでにホイッスルを口に咥えている。
「放り投げられるか、自分で入るか、どっちがいい?」
腕のなかの漆原に尋ねる。漆原は泣きそうな顔でおれを見上げた。覚悟を決めたようにいった。
「自分で入ります……」
聞き覚えのある声に振り返ると、海水パンツを履いた譲と護が立っていた。漆原のふたりの弟。中学3年生が譲、末弟の護は小学6年生だ。おれを見上げて顔を綻ばせる。
「びっくりした。偶然だね」
夏休み最後の日曜、市内の屋外レジャープールは混雑していた。休みの期間中それぞれ受験勉強に励んだ同級生たちと羽を伸ばしに訪れていた。漆原の弟たちと偶然出くわすとは予想していなかった。
「友達と遊びにきたの?」
「ああ、うん……」
漆原に目元がすこし似ているが、すでに兄の身長を追い越している譲が笑顔を見せたが、おれにはぎこちない笑みしか返せなかった。
浮き輪を抱え、もう片方の手にソーダの紙パックを持ったまま、おれは立ち竦んでいた。完全に油断していた。
それなりの入場料もかかる巨大レジャー施設だ。小学生と中学生がふたりだけでくるはずがない。逃げ出すために後ずさったおれの背後で、おれの名前を呼ぶ声がした。
「風祭?」
振り向くと、漆原が立っていた。水を弾く素材のハーフパンツに白のラッシュガードを着ている。おれを見て、おれとおなじか、それ以上に驚いていた。こんなところで会うとは、向こうも考えていなかっただろう。いつも持っているバッグのほかに大きなスポーツバッグも肩に提げ、呆然と突っ立っている。
「なにしてんの?」
「友達ときてるんだって」
小学生の護がおれの代わりに答え、兄の手をつかむ。
「風祭くんと遊んでいい?」
「だめ」
まだ幼い弟に対してのものとしてはすこし厳しすぎる声で、漆原はいった。
「風祭、友達といっしょなんだから」
「おれはいいよ、べつに」
咄嗟に口をひらいていた。なぜそんなことをいってしまったのか、自分でもわからない。しかし、止められなかった。
「どうせ女の子ナンパしにきてるだけだし、おれがいなくても全然困らないから」
漆原がおれに向ける眼差しは、弟へのものの数百倍厳しかった。思わず狼狽えたが、おれたちがなにかいうよりも、護がおれの手から浮き輪を奪い取るほうが早かった。
「いえーい! 行こ、風祭くん!」
「風祭くん、この浮き輪貸りていい?」
譲も期待に目を輝かせる。浮き輪のレンタル料金は高価だ。財布の紐を固くしている漆原が奮発するとは思えない。
「いいよ、つかえよ」
「やった!」
さっそく浮き輪の奪い合いをはじめる弟たちを見下ろし、漆原がため息を吐く。親代わりを務めている弟たちに、漆原は弱い。
「遠くに行かないで」
兄の指示に、音量が大きいだけで気の入っていない返事を返して、譲と護がプールに向かって駆け出す。
漆原はおれには目もくれず、黙ってプールサイドを離れていった。プール全体を見られる位置のデッキチェアに座り、荷物を整理しはじめる。
「風祭くん、早く!」
譲と護はすでに水に浸かり、浮き輪につかまって流れに乗りはじめていた。漆原に気を引かれながらも、おれは弟たちの面倒を見るためプールに飛び込んだ。派手な水飛沫が上がり、譲たちが歓声を上げた。
「そこ、飛び込まない!」
監視台の上から屈強な監視員がホイッスルを吹いて、おれは慌てて手を挙げて謝ってみせた。漆原が呆れ顔でこちらを見ている。恥ずかしさとともに浮き上がるような気持ちで、おれは冷たい水に頭まで浸かった。
部活を引退したばかりで体力には自信があったが、全力で遊ぶ中学生と小学生の相手は思っていた以上に重労働だった。ウォータースライダーを3度も滑り、流れるプールを2周もするときには疲れ果てていた。
アイスをほしがる弟たちに小銭を握らせ、行列を抜けて漆原のところへもどった。漆原はデッキチェアに仰向けになって眠っていた。パラソルが顔の上に影をつくり、気持ちよさそうだった。ラッシュガードの胸の上にタオルが掛かっており、その上に乗った左腕が、寝息に合わせて上下している。
隣のデッキチェアに座り、両膝に肘を預けて身を乗り出した。おれが近づいているのにも気づかず、漆原は熟睡している。薄くひらいた唇から息が漏れている。
会うのも久しぶりだが、こうしてじっくりと顔を見たのはいつぶりだろうか。夏休みに入り、塾がはじまって、夏期講習やら合宿やらで忙しくなっていたし、漆原も、夏休み期間中はふだんよりもバイトのシフトを増やすつもりだといっていたから、それなりに慌ただしい日々を過ごしていただろう。寝息を立てる顔には疲労の色が差していた。
ちゃんと夜寝られてんのかな……
痩せた首と浮き出た鎖骨を見つめる。ラッシュガードの襟から覗ける胸元を見ているうちに、友人としての純粋な心配から邪な高揚に変化してきた。
こいつもエロい夢見たりすることあんのかな……
あんな小説を書くくらいだから、頭のなかで想像を膨らませることは当然あるだろう。もしかするとおれよりさらに多く、より露骨かもしれない。
受験勉強で忙しいなかでのストレス解消とフラストレーション発散のためと自らにいいわけして、勉強が終わったあと部屋でひとり小説を読む習慣は継続していた。薄着で寝ている漆原の姿は、文字だけの情報に現実味を加えていた。
やべ。変な気持ちになってきた……
ひとまず物理的に距離を取ろうと、立ち上がりかけたとき、漆原の顔の周辺を小さな虫が飛んでいるのが目に入った。ゆっくりと空中に円を描いて、寝ている漆原の鼻の横に不時着する。
虫を追い払おうと手を伸ばしたとたん、漆原が小さく呻いて目をひらいた。距離を取るどころか、至近距離で目が合った。漆原が短く叫んで上半身を起こす。
「なにしてんだよ!」
バスタオルをつかみ、裸足のままデッキチェアの上で身を縮める。
「今さわった?」
警戒心を隠そうともせず、おれをにらむ。
「さわってねえよ。顔に虫が……」
視線を巡らせたが、漆原の顔で休憩していた虫はすでにいなくなっていた。
「本当になにもしてないって。見てただけ……」
「なにを?」
よけいな一言を差し込んでしまったことを後悔し、舌打ちを飲み込む。漆原の座るデッキチェアの脇に置かれたスポーツバッグを指さす。
「荷物だよ。おまえ爆睡してるし、貴重品が盗まれないように見てた」
くるしまぎれのいいわけだったが、意外に説得力を発揮してくれた。完全に信用したわけではなさそうだったが、漆原はとりあえず緊張を解き、デッキチェアに座りなおした。
「譲たちは?」
「アイス買いに行ってる」
「そっか……」
すこし落ち着いたようで、漆原はスポーツバッグをデッキチェアの上に引っ張り上げ、中身をまさぐりはじめた。
「アイス代払う」
「いいよ、そんくらい」
「いい。ちゃんと払う」
差し出された札を苦笑いで受け取る。相変わらず強情で生真面目だ。
「友達は?」
「先帰るっていっといたから平気」
LINEひとつであっさり受け容れられた。おれは女の子に声を掛けるのも上手いとはいえないし、離脱したところで、困る者もいない。今ごろ施設内のどこかでナンパに精を出しているのだろうが、すでにおれの関心の外にあった。
「……女の子は?」
「女の子?」
「ナンパするって……」
「ああ……」
ナンパを目的にプールにきたと弟たちの前で漏らしたことを思い出した。自分の発言だったがとくに気にとめていなかった。
「おれは気分転換についてきただけで、そういうの興味ないから」
「そうなんだ……」
ああ、まただ。
膝の上のスポーツバッグを弄りながら俯く漆原を見下ろし、ゆっくり息を吐く。
なんでそんな顔するんだよ。おれのこと好きじゃないならなんで……
「よくくんの?」
邪念を振り払うように顔を逸らして、いった。
「え?」
「ここのプール」
「あ……ううん。はじめてきた。原稿料が半分先に入ったから、夏休みの思い出にどこか行こうかっていったら、ここがいいって、譲たちが」
ドラマの放送がはじまり、人気のイケメン俳優が主演しているとあって、クラスでも毎週のように女子たちが騒いでいるが、おれはまだまともに視聴できていない。大勢が通りすがるなかで、小説の話をするのも憚られた。ましてや「裏ページ」のことは口に出せない。巧みに隠されたR指定のページの存在におれが気づいていることを、漆原はまだ知らないはずだ。
話題はあっという間に尽き、会話が途切れた。間が持たなくなったのか、漆原がバッグのなかから日焼け止めを取り出した。白い乳液を手足に塗っていく動作を、おれはなんとなく黙って見ていた。
手を伸ばすと、漆原がまた警戒して身を引く。
「な、なに?」
「いや、首の裏、塗ってやろうかと……」
「いいよ、そんなのいいから」
「けどムラできてる」
そういえば、神経質で完璧主義者の漆原が気にすることを知っていた。怯えさせないよう慎重にゆっくり指先を触れさせると、漆原は一瞬体を震わせたが、拒絶はしなかった。
漆原の首は細かった。掌をあてると、日焼け止めの助けもあり、滑らかにすべっていく。
髪の生え際から首の付け根、ラッシュガードから覗ける肩へと掌をゆっくり移動させる。漆原は顔を伏せ、目を閉じていた。脊椎のかたちを確かめるように親指と人差し指でそっと圧迫すると、眉の間に皺が寄った。
「ありがと……」
ひととおり塗り終わったところで、漆原が小さくいった。
「もういいよ」
「うん……」
漆原の首や肩に触れ、おれは渋谷の舗道で漆原にキスしたときのことを思い出していた。あのときはもっとつよく肩をつかんで、首の感触も……
「風祭?」
手を離そうとしないおれを不審に思ったのか、漆原が上半身を捻って体の向きを変える。肩の感触が消え、代わりに漆原の顔がすぐ近くに迫った。
「漆原……」
「兄ちゃん、風祭くん!」
護の声が響いて、おれたちは慌てて体を離した。すこし離れたところから、譲と護がアイスを持って駆けてくるところだった。
ふたりともぼんやりしていて、弟たちがもどってきたことにまったく気づいていなかった。心臓が破裂しそうだったが、なんとか平静を装い、弟たちに向き直った。漆原も笑顔で弟たちを迎える。
「おかえり。アイス買ったの?」
「風祭くんに買ってもらった!」
ワッフルコーンのアイスを舐めながら、弟たちははじめて体験するレジャープールにはしゃいでいる。さっきまで全力で遊んでいたというのに、小中学生の体力には底がない。
「兄ちゃんも泳ごうよ」
きれいに揃った歯でコーンを噛み砕きながら、譲が兄に声を掛ける。
「ぼくはいいよ。泳げないし」
「浮き輪で浮いてるだけでも気持ちいいよ」
譲に食い下がられ、漆原は困ったような笑顔を見せる。
「風祭くんに教えてもらえば?」
護が無邪気な声でいった。
「風祭くん、泳ぐのすごく上手だったよ」
漆原の視線を受け、慌てていった。
「小学生の頃、スイミングスクール通ってたから」
聞かれてもいないのに答える。
「さっきバタフライ見せてもらった!」
「兄ちゃん、見てなかったの?」
「うん。ちょっとお昼寝してて……」
「なんで見てねんだよ。見とけよ、ちゃんと」
つい顔をしかめ、3人を唖然とさせてしまった。またやってしまった。急いで取り繕う。
「行こうぜ、漆原」
努めて素っ気ない声でいう。
「おまえもたまには遊んだほうがいいって。いつもバイトだの家事だので忙しくしてんだから、こういうときくらい高校生らしく思い切り弾けろよ」
「そうだよ、兄ちゃんも遊ぼう」
「でも荷物が……」
「ロッカー入れときゃいいだろ」
「ロッカー代が……」
「もううるさい!」
声を上げたのはおれではなく譲だった。ふだんはおとなしい譲が立ち上がり、真剣な顔で兄を見下ろしている。
「おれたちばっかりじゃなくて、兄ちゃんにも楽しんでほしいんだよ! 兄ちゃんが楽しくないとおれらも楽しくないんだからな!」
呆気に取られている兄の手をつかみ、強引に立たせる。
「風祭くん、頼んだ!」
譲の剣幕におれも唖然としていたが、漆原の体を圧しつけられ、我に返った。譲の目を見て、求められているものを察した。漆原の膝の裏に左腕を差し入れ、踵に力をこめて抱き上げた。漆原の体は軽く、難なく持ち上がった。
「ちょっと……やめてやめて、だめだめだめ!」
漆原が暴れたが、抵抗は想定済みだった。横抱きにしたまま、プールの淵へ向かう。飛び込もうとしたところで、監視員と目が合った。すでにホイッスルを口に咥えている。
「放り投げられるか、自分で入るか、どっちがいい?」
腕のなかの漆原に尋ねる。漆原は泣きそうな顔でおれを見上げた。覚悟を決めたようにいった。
「自分で入ります……」



