漆原は弁当を持参していた。おれのぶんも用意されていた。公園のベンチに並んで座って、弁当を広げた。使い捨ての容器に小さめに握られた塩むすびとウインナー、卵焼きに、もやしと豚肉の炒めものなどを詰めた質素な弁当だったが、どれもていねいに手間を惜しまずつくられているのがわかる。
準備に手間を取られたため、朝食も取っていなかった。空腹ではあったが、繰り返し嘔吐した影響で胃に違和感が残っており、食欲を感じなかった。
「無理して食べなくていいから」
「いや、旨いよ」
塩むすびを口に入れ、咀嚼するものの、いつまた嘔吐衝動に襲われるかと思うと、落ち着かない。漆原がつくってくれた食事を地面にぶち撒けることは避けたかった。
ぎこちない沈黙。情けなさで消えてしまいたくなっていた。これほど最悪なことがあるだろうか。漆原はなにもいわないが、おれに幻滅しているにちがいなかった。
「漆原」
漆原の顔を直視できなかったが、沈黙に耐え兼ね、首を傾けた。
漆原もおれとおなじように俯いていた。割箸を持つ手を空中で止め、じっと地面を見つめている。
「漆原」
もう一度呼ぶと、我に返ったように顔を上げた。
「ごめん。なにかいった?」
「いや……」
罪悪感を帯びた眼差しに、言葉を切った。卵焼きを口に入れ、いった。
「これ、めちゃくちゃ旨い」
素直な賞賛に、漆原はほっとしたような笑顔を見せた。
「ほんと?」
胸が詰まった。おれのせいで最悪な空気になったのにもかかわらず、やさしい笑顔を向けてくれる。この事態をおれでなく自分の責任と考えて心を痛めているのはあきらかで、いたたまれなくなった。
「甘いほうが好きかなって思ったんだけど、二択で成功したかな」
「成功してる」
高級なものでなくどこにでもあるふつうの卵だろうが、火加減が絶妙で、味付けも好みだった。やわらかすぎず、歯ごたえもほどよくあり、出汁の風味も効いている。もし付き合っている彼女がこの卵焼きをつくってくれたら感激するだろうと思った。アパートに泊まったとき食べた朝食のおにぎりと味噌汁も美味だったし、もし漆原が女だったら良妻になるだろうと思った。
いや、「女だったらいい奥さんに」などは褒め言葉としては最悪だろう。漆原は女ではないし、女になりたいとも、おそらく考えてはいないはずだ。
おれは漆原に甘えている。遅すぎたものの、実感していた。おれに興味を持ち、おれの趣味嗜好や思考回路を知っている漆原なら、おれの傲慢をゆるし、怠慢を窘めてくれるのではないかと、心のどこかで頼っているのだ。
漆原といるときだけ、おれは自尊心を取りもどせた。自分自身の存在価値を無条件に信じられた。そんなことははじめてだった。
「なあ、漆原、あのさ……」
いいかけたとき、視界の隅に知った顔を見つけ、言葉を切った。
おれの視線を追って、漆原が体の向きを変える。漆原の頭ごしに、背の高い女がおれの姿に気づいて眉を上げた。
目が合ってしまった。できれば無視したかったが、そういうわけにもいかない。軽く頭を下げる。それで済ませてほしいところだったが、相手はおれに向かって手を振り、近づいてきた。
「顕ちゃんじゃん。久しぶり。なにしてんの?」
「どうも……」
琴子がベンチに座っているおれを見下ろす。ひとつ年上の彼女が卒業して以来、一度も会っていなかった。まさかゲロまみれの状態で再会するとは。
「琴子、だれ?」
いっしょにいるのは彼氏だろう。琴子同様にスタイルがよく、最新のファッションに身を包んでいる。顔も整っていて、鼻と両耳にピアスをしている。渋谷の雑踏のなかでも目立つカップルだ。
「地元の高校の後輩」
臍の覗ける短いカットソーの裾を閃かせて、琴子が彼氏のほうを向く。琴子の動きに合わせて、つよめの香水の匂いが漂った。
「元気? 顕ちゃん」
「まあ……」
愛想のないおれを気にかけることなく、琴子は無邪気にいった。
「ごはんしてるの? それ手作り? かわいいね」
なにがかわいいのかわからない。なんでもかんでも「かわいい」と形容しておけば済むと思っているのではないか。迷惑がっているのをあからさまな態度にしているのにもかかわらず立ち去ろうとしない琴子に不快感を抱きはじめていた。
「ふたり? 映画観てきたの?」
ベンチに置いていたチラシを見て、琴子が身を屈める。小さな子どもに話しかけるような口調も鼻についた。圧倒的優位に立つ者が見せる余裕。吐き気がこみ上げる。
「もしかして、デートかな?」
「ちがいます」
答えたのはおれではなく漆原だった。食べかけの弁当を手早く包みなおし、立ち上がる。
「男同士でデートなんかするわけないでしょ」
冷たい声でいって、漆原は立ち上がった。琴子にも彼氏にも視線を向けることなく、カップルの間に割り込むようにしてその場を離れる。
「あ、漆原……」
自分の弁当を手に持ったまま、大股に去っていく漆原を慌てて追う。背後で琴子がなにかいった気がしたが、よく聞こえなかった。どうでもいいと思った。
「待てよ、漆原」
公園の敷地を出ても歩く速度を緩めない漆原の背中に呼び掛けた。
「なに怒ってんだよ」
「べつに怒ってない」
振り向かないままの言葉はあきらかにさっきまでと様子がちがう。戸惑っていると、突然漆原が足を止めた。おれを待つために止まったわけではない。目の前に交差点があり、信号が赤に変わったところだった。こんなときでも律儀にルールを守る。
持ったままの弁当の蓋を閉じ、バッグに詰め込んで、漆原の隣に立つ。
「これ、忘れてんぞ」
ベンチに置きっぱなしだった映画のチラシ。入会金無料キャンペーンだとかで、映画館のスタッフに勧められて入会した会員カードといっしょに、クリアファイルに挟んである。
「いらない。棄てていい」
「映画無料チケットの抽選券付きだぞ」
我ながら間抜けな言葉だった。漆原は信号をにらみつけたまま、いった。
「いい。どうせぼくそういうの当たらないし」
「けど……」
「ちょっと離れて歩いてもらえるかな」
「は? なんでだよ」
棘のある声に、おれも思わず眉を寄せた。
「変な誤解されるから」
「誤解って……」
苦笑いを浮かべたつもりだったが、かなりぎこちないものになっていただろう。おれは弁解するようにいった。
「さっきのは琴子先輩の冗談だろ。本気でいったわけじゃ……」
「琴子先輩って呼んでんの」
信号が青になるのを待ちきれないというように爪先で何度も地面を叩きながら、漆原がいう。
「付き合ってたのに」
「……そんなことまで知ってんのか」
「インスタライブではしゃいでたじゃん」
「べつにはしゃいでねえよ」
琴子は野球部のマネージャーだった。美人でスタイルがよく、おれたち野球部員にとって高嶺の花だった。玉砕覚悟で告白し、付き合えることになった日、舞い上がって、インスタライブで彼女ができたと宣言した。
「3か月しか付き合ってないし、向こうも忘れてるよ」
実際に、琴子はおれを高校の後輩と紹介した。元彼だと知られるのは彼女にとってマイナスになるのだろう。彼氏の嫉妬を心配するというよりは、自分のイメージを傷つけられることを嫌がったのだ。はっきりいわれなくても、顔を見ればわかる。
告白から3か月した頃、まだ浮かれた状態のおれに、琴子は半分笑いながら別れを切り出した。おれにとっては青天の霹靂だったが、相手のほうは前から決めていたのだろう。付き合っている間、彼女の瞳はいつもつまらなさそうになにもない空間を眺めていた。
別れるとき、彼女はおれにいった。「一澄先輩の弟だから付き合ってみたけど、全然つまんなかった」。
「つまんなかったよね」
信号が変わり、漆原が足を踏み出したことに気づくのが遅れた。慌てて追いかける。
「なに?」
「ぼくといても退屈でしょ」
漆原の声は小さく、信号機が響かせる誘導音にかき消されそうだった。
「そんなことねえわ」
「嘘だよ。ずっとつまんなそうだった」
「体調が悪かっただけだろ。退屈なんて……」
思わず声を高めてしまい、周囲の視線を感じて口を噤む。
「退屈なんて全然思ってない。楽しかった。弁当も旨かったし……」
「嘘。引いてたじゃん」
「引いてねえよ」
漆原は脇目もふらずに歩いていく。どこに向かっているのか、本人もわかっていないだろう。おれもいっしょに見覚えのない路地に入っていく。通行人の姿が減っていく。帰り道も考えずに、おれたちは路地を奥へ奥へとすすんだ。
「なんでそんな自己肯定感低いの、おまえ」
半ば呆れながらいう。まるで自分にいっているようだった。
「引いてねえし楽しかったっつってんじゃん」
疲れてきたのか、漆原の歩幅が狭くなる。おれは体力を温存していた。隙をついて背後から駆け寄り、サマーニットの腕をつかんだ。漆原はおれの手を振り解こうと身を捩ったが、離さなかった。
「おまえは?」
もう片方の腕もつかんで、完全に動きを止めると、下を向いている漆原に尋ねた。
「え?」
「おまえは楽しかったの、今日?」
「ぼくは……」
俯いたまま、漆原は細い声で答えた。
「……ぼくはすごく楽しかった」
伏せた睫毛がわずかに震える。
まずい、と思った。ほんの一瞬だったが、漆原のことをかわいいと思ってしまった。
心臓の音が跳ね上がり、体温が急上昇する。はじめての感覚だった。憧れていた先輩と付き合っていたときにも、こんな気持ちになったことはなかった。
かなりの距離を歩いたせいか、漆原の皮膚はわずかに汗ばんで熱を孕んでいた。薄くひらいた唇から息が漏れている。
琴子とはじめてキスしたときのことを思い出した。あのときははじめての体験で頭が真っ白になっていた。しかし今のほうが圧倒的に昂っている。比較にならない。
「風祭?」
唇が振動し、おれの名前を呼ぶ。考えるより先に体が動いた。気がつくと、おれは漆原を思い切り抱きしめていた。映画のチラシが入ったクリアファイルと弁当の袋が地面に落下する。
腕のなかで漆原の体が硬直する。緊張と戸惑いを全身に漲らせていた。かすかな汗の匂い。琴子の香水よりもはるかに鋭くおれの感覚を刺激した。
左手で顎をつかみ、右手を腰に回してきつく密着させた。
至近距離で見つめる漆原の瞳は困惑で揺れていた。
「かざ……」
なにかいおうとひらいた唇を唇で塞いだ。焦りのせいでうまくいかなかった。互いの前歯が衝突し、不快な音を立てた。もう一度しっかり唇を捕らえようと顔を傾けたが、漆原の手に胸を衝かれ、よろめいた。不意を衝かれて体を離してしまった。
「なにすんだよ……」
掠れた声。漆原は顔を真っ赤にして、右手で口元を押さえていた。足を縺れさせながら後ずさり、掌のなかでなにごとか呟いているが、まともな言葉になっていない。混乱してパニックを起こしているようだった。
「漆原、ごめん」
咄嗟に謝ったが、その一言が引き金になったかのように漆原がおれを見た。というより、睨んだ。強烈な眼差しにおれは思わず狼狽えた。
「ごめんじゃない……」
漆原の声は震えていた。怒りのせいか、困惑のせいかは判別できなかった。
「はじめてだったのに……」
「ごめん。つい……」
舌打ちを堪える。おれのときは経験者の琴子が巧みにリードしてくれたが、おれは琴子ほど冷静にはなれなかった。
「痛かったよな。おれ……」
「そういうんじゃない!」
漆原が声を張り上げ、おれは口を閉ざした。漆原の顎は震え、目が潤んでいた。考えていた以上に烈しい反応におれは戸惑った。
「こういうのは、好きなひととするものだよ……」
漆原の言葉に、おれはますます当惑した。
「好きなひとって……」
立ち竦むおれに背を向け、漆原は走り去った。後を追うことはできなかった。漆原の言葉が頭のなかをぐるぐると巡っていた。
好きなひと。漆原はいった。つまり、漆原はおれを好きじゃないということだ。
体の熱が音を立てて引いていくようだった。漆原の背中が小さくなり、角を曲がって見えなくなるのを目で追いながら、呆然と立ち尽くしていた。
おれはとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
足元で映画のチラシがクリアファイルからはずれ、風に煽られて舞い上がっていった。
準備に手間を取られたため、朝食も取っていなかった。空腹ではあったが、繰り返し嘔吐した影響で胃に違和感が残っており、食欲を感じなかった。
「無理して食べなくていいから」
「いや、旨いよ」
塩むすびを口に入れ、咀嚼するものの、いつまた嘔吐衝動に襲われるかと思うと、落ち着かない。漆原がつくってくれた食事を地面にぶち撒けることは避けたかった。
ぎこちない沈黙。情けなさで消えてしまいたくなっていた。これほど最悪なことがあるだろうか。漆原はなにもいわないが、おれに幻滅しているにちがいなかった。
「漆原」
漆原の顔を直視できなかったが、沈黙に耐え兼ね、首を傾けた。
漆原もおれとおなじように俯いていた。割箸を持つ手を空中で止め、じっと地面を見つめている。
「漆原」
もう一度呼ぶと、我に返ったように顔を上げた。
「ごめん。なにかいった?」
「いや……」
罪悪感を帯びた眼差しに、言葉を切った。卵焼きを口に入れ、いった。
「これ、めちゃくちゃ旨い」
素直な賞賛に、漆原はほっとしたような笑顔を見せた。
「ほんと?」
胸が詰まった。おれのせいで最悪な空気になったのにもかかわらず、やさしい笑顔を向けてくれる。この事態をおれでなく自分の責任と考えて心を痛めているのはあきらかで、いたたまれなくなった。
「甘いほうが好きかなって思ったんだけど、二択で成功したかな」
「成功してる」
高級なものでなくどこにでもあるふつうの卵だろうが、火加減が絶妙で、味付けも好みだった。やわらかすぎず、歯ごたえもほどよくあり、出汁の風味も効いている。もし付き合っている彼女がこの卵焼きをつくってくれたら感激するだろうと思った。アパートに泊まったとき食べた朝食のおにぎりと味噌汁も美味だったし、もし漆原が女だったら良妻になるだろうと思った。
いや、「女だったらいい奥さんに」などは褒め言葉としては最悪だろう。漆原は女ではないし、女になりたいとも、おそらく考えてはいないはずだ。
おれは漆原に甘えている。遅すぎたものの、実感していた。おれに興味を持ち、おれの趣味嗜好や思考回路を知っている漆原なら、おれの傲慢をゆるし、怠慢を窘めてくれるのではないかと、心のどこかで頼っているのだ。
漆原といるときだけ、おれは自尊心を取りもどせた。自分自身の存在価値を無条件に信じられた。そんなことははじめてだった。
「なあ、漆原、あのさ……」
いいかけたとき、視界の隅に知った顔を見つけ、言葉を切った。
おれの視線を追って、漆原が体の向きを変える。漆原の頭ごしに、背の高い女がおれの姿に気づいて眉を上げた。
目が合ってしまった。できれば無視したかったが、そういうわけにもいかない。軽く頭を下げる。それで済ませてほしいところだったが、相手はおれに向かって手を振り、近づいてきた。
「顕ちゃんじゃん。久しぶり。なにしてんの?」
「どうも……」
琴子がベンチに座っているおれを見下ろす。ひとつ年上の彼女が卒業して以来、一度も会っていなかった。まさかゲロまみれの状態で再会するとは。
「琴子、だれ?」
いっしょにいるのは彼氏だろう。琴子同様にスタイルがよく、最新のファッションに身を包んでいる。顔も整っていて、鼻と両耳にピアスをしている。渋谷の雑踏のなかでも目立つカップルだ。
「地元の高校の後輩」
臍の覗ける短いカットソーの裾を閃かせて、琴子が彼氏のほうを向く。琴子の動きに合わせて、つよめの香水の匂いが漂った。
「元気? 顕ちゃん」
「まあ……」
愛想のないおれを気にかけることなく、琴子は無邪気にいった。
「ごはんしてるの? それ手作り? かわいいね」
なにがかわいいのかわからない。なんでもかんでも「かわいい」と形容しておけば済むと思っているのではないか。迷惑がっているのをあからさまな態度にしているのにもかかわらず立ち去ろうとしない琴子に不快感を抱きはじめていた。
「ふたり? 映画観てきたの?」
ベンチに置いていたチラシを見て、琴子が身を屈める。小さな子どもに話しかけるような口調も鼻についた。圧倒的優位に立つ者が見せる余裕。吐き気がこみ上げる。
「もしかして、デートかな?」
「ちがいます」
答えたのはおれではなく漆原だった。食べかけの弁当を手早く包みなおし、立ち上がる。
「男同士でデートなんかするわけないでしょ」
冷たい声でいって、漆原は立ち上がった。琴子にも彼氏にも視線を向けることなく、カップルの間に割り込むようにしてその場を離れる。
「あ、漆原……」
自分の弁当を手に持ったまま、大股に去っていく漆原を慌てて追う。背後で琴子がなにかいった気がしたが、よく聞こえなかった。どうでもいいと思った。
「待てよ、漆原」
公園の敷地を出ても歩く速度を緩めない漆原の背中に呼び掛けた。
「なに怒ってんだよ」
「べつに怒ってない」
振り向かないままの言葉はあきらかにさっきまでと様子がちがう。戸惑っていると、突然漆原が足を止めた。おれを待つために止まったわけではない。目の前に交差点があり、信号が赤に変わったところだった。こんなときでも律儀にルールを守る。
持ったままの弁当の蓋を閉じ、バッグに詰め込んで、漆原の隣に立つ。
「これ、忘れてんぞ」
ベンチに置きっぱなしだった映画のチラシ。入会金無料キャンペーンだとかで、映画館のスタッフに勧められて入会した会員カードといっしょに、クリアファイルに挟んである。
「いらない。棄てていい」
「映画無料チケットの抽選券付きだぞ」
我ながら間抜けな言葉だった。漆原は信号をにらみつけたまま、いった。
「いい。どうせぼくそういうの当たらないし」
「けど……」
「ちょっと離れて歩いてもらえるかな」
「は? なんでだよ」
棘のある声に、おれも思わず眉を寄せた。
「変な誤解されるから」
「誤解って……」
苦笑いを浮かべたつもりだったが、かなりぎこちないものになっていただろう。おれは弁解するようにいった。
「さっきのは琴子先輩の冗談だろ。本気でいったわけじゃ……」
「琴子先輩って呼んでんの」
信号が青になるのを待ちきれないというように爪先で何度も地面を叩きながら、漆原がいう。
「付き合ってたのに」
「……そんなことまで知ってんのか」
「インスタライブではしゃいでたじゃん」
「べつにはしゃいでねえよ」
琴子は野球部のマネージャーだった。美人でスタイルがよく、おれたち野球部員にとって高嶺の花だった。玉砕覚悟で告白し、付き合えることになった日、舞い上がって、インスタライブで彼女ができたと宣言した。
「3か月しか付き合ってないし、向こうも忘れてるよ」
実際に、琴子はおれを高校の後輩と紹介した。元彼だと知られるのは彼女にとってマイナスになるのだろう。彼氏の嫉妬を心配するというよりは、自分のイメージを傷つけられることを嫌がったのだ。はっきりいわれなくても、顔を見ればわかる。
告白から3か月した頃、まだ浮かれた状態のおれに、琴子は半分笑いながら別れを切り出した。おれにとっては青天の霹靂だったが、相手のほうは前から決めていたのだろう。付き合っている間、彼女の瞳はいつもつまらなさそうになにもない空間を眺めていた。
別れるとき、彼女はおれにいった。「一澄先輩の弟だから付き合ってみたけど、全然つまんなかった」。
「つまんなかったよね」
信号が変わり、漆原が足を踏み出したことに気づくのが遅れた。慌てて追いかける。
「なに?」
「ぼくといても退屈でしょ」
漆原の声は小さく、信号機が響かせる誘導音にかき消されそうだった。
「そんなことねえわ」
「嘘だよ。ずっとつまんなそうだった」
「体調が悪かっただけだろ。退屈なんて……」
思わず声を高めてしまい、周囲の視線を感じて口を噤む。
「退屈なんて全然思ってない。楽しかった。弁当も旨かったし……」
「嘘。引いてたじゃん」
「引いてねえよ」
漆原は脇目もふらずに歩いていく。どこに向かっているのか、本人もわかっていないだろう。おれもいっしょに見覚えのない路地に入っていく。通行人の姿が減っていく。帰り道も考えずに、おれたちは路地を奥へ奥へとすすんだ。
「なんでそんな自己肯定感低いの、おまえ」
半ば呆れながらいう。まるで自分にいっているようだった。
「引いてねえし楽しかったっつってんじゃん」
疲れてきたのか、漆原の歩幅が狭くなる。おれは体力を温存していた。隙をついて背後から駆け寄り、サマーニットの腕をつかんだ。漆原はおれの手を振り解こうと身を捩ったが、離さなかった。
「おまえは?」
もう片方の腕もつかんで、完全に動きを止めると、下を向いている漆原に尋ねた。
「え?」
「おまえは楽しかったの、今日?」
「ぼくは……」
俯いたまま、漆原は細い声で答えた。
「……ぼくはすごく楽しかった」
伏せた睫毛がわずかに震える。
まずい、と思った。ほんの一瞬だったが、漆原のことをかわいいと思ってしまった。
心臓の音が跳ね上がり、体温が急上昇する。はじめての感覚だった。憧れていた先輩と付き合っていたときにも、こんな気持ちになったことはなかった。
かなりの距離を歩いたせいか、漆原の皮膚はわずかに汗ばんで熱を孕んでいた。薄くひらいた唇から息が漏れている。
琴子とはじめてキスしたときのことを思い出した。あのときははじめての体験で頭が真っ白になっていた。しかし今のほうが圧倒的に昂っている。比較にならない。
「風祭?」
唇が振動し、おれの名前を呼ぶ。考えるより先に体が動いた。気がつくと、おれは漆原を思い切り抱きしめていた。映画のチラシが入ったクリアファイルと弁当の袋が地面に落下する。
腕のなかで漆原の体が硬直する。緊張と戸惑いを全身に漲らせていた。かすかな汗の匂い。琴子の香水よりもはるかに鋭くおれの感覚を刺激した。
左手で顎をつかみ、右手を腰に回してきつく密着させた。
至近距離で見つめる漆原の瞳は困惑で揺れていた。
「かざ……」
なにかいおうとひらいた唇を唇で塞いだ。焦りのせいでうまくいかなかった。互いの前歯が衝突し、不快な音を立てた。もう一度しっかり唇を捕らえようと顔を傾けたが、漆原の手に胸を衝かれ、よろめいた。不意を衝かれて体を離してしまった。
「なにすんだよ……」
掠れた声。漆原は顔を真っ赤にして、右手で口元を押さえていた。足を縺れさせながら後ずさり、掌のなかでなにごとか呟いているが、まともな言葉になっていない。混乱してパニックを起こしているようだった。
「漆原、ごめん」
咄嗟に謝ったが、その一言が引き金になったかのように漆原がおれを見た。というより、睨んだ。強烈な眼差しにおれは思わず狼狽えた。
「ごめんじゃない……」
漆原の声は震えていた。怒りのせいか、困惑のせいかは判別できなかった。
「はじめてだったのに……」
「ごめん。つい……」
舌打ちを堪える。おれのときは経験者の琴子が巧みにリードしてくれたが、おれは琴子ほど冷静にはなれなかった。
「痛かったよな。おれ……」
「そういうんじゃない!」
漆原が声を張り上げ、おれは口を閉ざした。漆原の顎は震え、目が潤んでいた。考えていた以上に烈しい反応におれは戸惑った。
「こういうのは、好きなひととするものだよ……」
漆原の言葉に、おれはますます当惑した。
「好きなひとって……」
立ち竦むおれに背を向け、漆原は走り去った。後を追うことはできなかった。漆原の言葉が頭のなかをぐるぐると巡っていた。
好きなひと。漆原はいった。つまり、漆原はおれを好きじゃないということだ。
体の熱が音を立てて引いていくようだった。漆原の背中が小さくなり、角を曲がって見えなくなるのを目で追いながら、呆然と立ち尽くしていた。
おれはとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
足元で映画のチラシがクリアファイルからはずれ、風に煽られて舞い上がっていった。


