「風間先輩?」
二度ほど名を呼んで、ようやく相手が振り向いた。手にしていたアイスクリームが溶けて、持ち手の棒にアイスが垂れはじめていた。
「ごめん、呼んだ?」
「2回も」
夕暮れの公園。奥まった場所にある東屋はいつも待ち合わせる定番の場所だ。まだ高校生でアルバイトもしていないふたりに、映画や食事といったデートはそう頻繁にできるものではなく、週に3,4度ほどこの東屋で会っていた。1,2時間しゃべって帰宅するだけだったが、ふたりにとってはなにより心が和み、また弾むひとときだった。
「なに考えてたんですか?」
揶揄うように指で膝を突いたが、風間は笑わなかった。
「あのさ、深見」
しばらくの間黙って考えていた風間が、意を決したように恋人を見る。
「おれ深見にキスしたい」
「え……」
思いがけない申し出に、深見は言葉を失った。風間の膝に手を置いたまま、硬直する。
「だめか?」
「だめじゃないけど……」
付き合って2か月になる。手を握ったり腕を組んだりしたことはあるが、それ以上には進んでいなかった。たしかに、遅すぎるくらいだ。ここ数日風間が心ここにあらずというように見えていたのはそのせいかもしれない。
告白してきたのは風間のほうだ。もともと男が好きというわけではなかった深見を怖がらせないように気を遣っていたのかもしれない。風間の思いやりに、深見は胸を衝かれていた。
「ぼくも……」
風間の膝の上で緩く指を握った。拳がかすかに震えているのが自分でもわかった。
「ぼくもしたい……」
「深見……」
アイスクリームの棒が地面に落ちた。風間が立ち上がるのに呼応して、深見も膝を伸ばした。小さな屋根の下で見つめ合う。小雨が降り出し、雨粒が屋根を叩く音が聞こえた。
「……雨降りそうですね」
こういうときになにをいえばいいのかわからず、つい間の抜けたことを口にしてしまう。
「帰ったほうがいいかな……」
「ちょっと待って」
風間は慌てたように深見の手を握った。熱い手だった。もう片方の手が深見の首に触れた。温度や感触を確かめながら皮膚の上を滑り、耳朶を掠める。微妙な刺激に、深見は思わず目を瞑った。
「眞琴……」
耳元で風間が囁く。はじめて下の名で呼ばれ、深見は全身の体温が上がるのを意識した。制服の下で心臓が大きく跳ね、鼓動の音が相手に聞かれてしまうのではないかと思った。いや、もうすでにどちらの心音か聞き分けられなくなっていたし、どちらでもよくなっていた。
「眞琴、好きだ……」
「風間先輩……」
「謙太郎って呼べよ」
「謙太郎……」
顔が近づき、唇が触れあう。ストロベリーアイスの甘い味がした。吐息が絡み、唾液が溢れた。風間の手が背中や腰を行き来する。
互いにはじめてのキスだ。はじめのうち緊張して体を強張らせていたふたりだったが、すぐに夢中になった。顔を傾け、何度も向きを変えてくちづけを深めていった。風間の指が深見の髪に絡み、深見も必死で風間の肩にしがみついた。
熱い舌が口中に差し入れられると、深見の背骨を未知の感覚が駆け抜けた。一瞬怯えて顎を震わせたものの、首の裏を撫でられると力が脱け、深見は風間の舌を受け容れた。
舌を絡め、唾液を啜った。いつの間にか、雨音が烈しくなっていた。唇を離したときには強烈なスコールが屋根を叩き、鼓動が跳ねる音をかき消していた。
「……だいじょうぶか」
息を弾ませ俯いている深見のこめかみで、風間が囁く。頷くだけで精一杯だった。深見はふらつく体を風間に預け、肩を上下させて酸素を吸いこんだ。
「ごめん。無理させたか」
「ううん……」
はじめての経験にまだ鼓動が収まらない。大きく息を吐いて、深見は顎を持ち上げ、恋人を見つめた。
「謙太郎とキスできてうれしい……」
「眞琴……」
二度目のキスはさらに深くなった。雨音と濡れた空気を感じながら、唇を貪り合った。どのくらいそうしていただろうか。再び離れたときには息が荒くなっていた。
「もう帰らないと……」
辺りは暗くなりはじめていた。深見の言葉に頷きながらも、風間の唇は深見の舌を挟み、指は首の皮膚を擦っていた。
「謙太郎。もうだめだって……」
「ん。わかった……」
ようやくあきらめて、唇を開放する。互いの額を擦り合わせ、名残惜しさを共有する。
「濡れちゃうね」
雨はさらに勢いを増していた。しかし、これ以上雨宿りをする時間はない。帰宅が遅れると家族が心配する。ふたりの関係を怪しまれるかもしれない。
「しかたない。行こう」
風間が深見の手を握った。目で合図をして、ふたりは豪雨のなかに飛び込んだ。すこしいったところで、風間が突然足を止め、深見はバランスを崩してよろけた。つないでいた手がつよく引かれ、反動で深見の体は風間の胸に衝突した。
驚いて声を上げかけた深見の唇が、再び風間に奪われた。痛みを感じるほどつよい雨のなか、ずぶ濡れになりながら、ふたりは喉を鳴らして雨の混じった唾液を飲み込んだ。遠くで雷の音がした。
窓際の一番後ろが漆原の席だった。机の上で交差した腕に頭を乗せ、横を向いて眠っている。熟睡しているようで、おれが近づいても気づくことなく、眠りつづけていた。
休憩時間で教室は騒がしい。前の席は空いていた。椅子に股を広げて座り、漆原の机に肘をついて、寝顔を見つめた。
小さな寝息を立てて眠る顔はいかにも長閑で、まるで子どものようだった。頭のなかで数々の恋愛模様をつくり出しているとはとても思えない。虚構の風間謙太郎の夢でも見ているのだろうかと考えながら、おれは首を傾げてさらに近距離で観察した。
ふだんはすぐに顔を背けるため、これほど間近でじっくり顔を見たことはなかった。おれももちろんだが、漆原のほうもとくに美少年というわけではない。奥二重で、鼻先もすこし膨らんでいる。醜くはないが、街を歩けばだれもが振り向くというタイプではなかった。しかし、白い頬に垂れた髪の筋を凝視していると、落ち着かなくなった。薄くひらいた唇は、キスをしたときの一瞬の感触を即座に甦らせた。
昨日の夜読んだ10作目の物語も同時に甦った。雨のなかのファーストキス。漆原が思い浮かべていたキスはああいったものだっただろう。すくなくとも、渋谷の街でいきなり歯をぶつけられ、吐瀉物の味がする舌を捩じ込まれるようなものではなかったはずだ。
映画を観た日の夜、鬱々とした気持ちを引き摺りながら自宅に帰った。漆原を抱きしめてキスをして、そのあとどうなると思っていたのか。漆原が頬を染めて感激するとでも思っていたのか。
吐瀉物で汚れたシャツをこっそり洗ったあと、自室のベッドで仰向けになって天井を睨みながら、これまでのことを考えていた。漆原の言葉や態度をひとつひとつ辿った。
はじめて話したとき、漆原はおれに対する特別な気持ちはないといった。だれかを好きになった経験もないと。漆原がおれを好きだとはっきりいったことは一度もなかった。むしろ、付き纏われて迷惑そうな態度だった。
おれが悪かったのだ。勝手に勘違いして調子に乗り、漆原の気持ちも考えずに暴走した。さらにいえば、漆原がおれを拒むことはないとたかをくくっていた。心のどこかで、漆原を下に見ていたのだ。それは琴子がおれにしたこととおなじ醜悪な優越思考だった。自分がされたことを漆原にしてしまった。尊厳を傷つけ、信頼を損ねた。
無意識に指を伸ばしていた。寝ている漆原の頬に指先が触れる直前、背後で声がした。
「風祭?」
驚いて飛び上がった。椅子が倒れ、烈しい音を立てる。
「うちのクラスでなにしてんの?」
元野球部の波多野、美馬、森井が教室に入ってくるところだった。購買に行っていたのか、菓子パンの袋やジュースの紙パックをそれぞれ手にしている。
「べつになんも……」
さすがに目を覚ました漆原が怠そうに頭を持ち上げる。目の前におれがいることを不審に思ったのか、顔をしかめて瞼を擦る。目が合って、おれは慌てた。
おれと漆原を見較べて、3人組が詮索の眼差しを向けてくる。
「あれ? 漆原? なに、おまえらやっぱ友達なの?」
「そんなわけないじゃん」
答えたのは漆原だった。おれの脇をすり抜け、教室を出て行く。おれは一言も発することができず、漆原の席の前で突っ立っていた。
ふたりで映画を観に行った日のあと、漆原は学校でおれを避けるようになった。バイト先の書店でも、おれの姿を見たとたんにバックヤードに引っ込んでしまう。
今の態度を見てもあきらかだ。漆原はおれに腹を立てている。避けられて当然のことをしたのだから、しかたない。
漆原と顔を合わせてなにを話したいのか、自分でもはっきりわかっていなかった。謝りたいのか、弁解したいのか、それとも……
「風祭、おまえ漆原に用だったんじゃねえの?」
共通点がなさそうに見えるはずのおれたちの関係をさぐろうとしているのか、美馬がミルクコーヒーのパックからストローを抜いて笑う。
「いや……」
曖昧に誤魔化すとかえって噂のネタにされてしまう。咄嗟に制服のポケットに手を突っ込んだ。
「これ、図書室で拾ったからさ」
漆原が忘れていった映画館の会員証。入会申込のときに漆原がペンで氏名を書き込んでいた。
「おれが渡しといてやろうか」
森井が伸ばした手を見て、首を振った。
「いいよ。面倒かけるの悪いし」
「じゃ机に置いとけば」
さっきまで漆原が寝ていた机を見下ろす。気のない素振りを装って、首を窄めた。
「また今度にするわ」
挙動不審に見えただろうが、頓着していられなかった。会員証をポケットにしまいなおして、教室を後にした。同級生たちの視線を背中に感じて、自分の教室にもどるまで呼吸を止めていた。
二度ほど名を呼んで、ようやく相手が振り向いた。手にしていたアイスクリームが溶けて、持ち手の棒にアイスが垂れはじめていた。
「ごめん、呼んだ?」
「2回も」
夕暮れの公園。奥まった場所にある東屋はいつも待ち合わせる定番の場所だ。まだ高校生でアルバイトもしていないふたりに、映画や食事といったデートはそう頻繁にできるものではなく、週に3,4度ほどこの東屋で会っていた。1,2時間しゃべって帰宅するだけだったが、ふたりにとってはなにより心が和み、また弾むひとときだった。
「なに考えてたんですか?」
揶揄うように指で膝を突いたが、風間は笑わなかった。
「あのさ、深見」
しばらくの間黙って考えていた風間が、意を決したように恋人を見る。
「おれ深見にキスしたい」
「え……」
思いがけない申し出に、深見は言葉を失った。風間の膝に手を置いたまま、硬直する。
「だめか?」
「だめじゃないけど……」
付き合って2か月になる。手を握ったり腕を組んだりしたことはあるが、それ以上には進んでいなかった。たしかに、遅すぎるくらいだ。ここ数日風間が心ここにあらずというように見えていたのはそのせいかもしれない。
告白してきたのは風間のほうだ。もともと男が好きというわけではなかった深見を怖がらせないように気を遣っていたのかもしれない。風間の思いやりに、深見は胸を衝かれていた。
「ぼくも……」
風間の膝の上で緩く指を握った。拳がかすかに震えているのが自分でもわかった。
「ぼくもしたい……」
「深見……」
アイスクリームの棒が地面に落ちた。風間が立ち上がるのに呼応して、深見も膝を伸ばした。小さな屋根の下で見つめ合う。小雨が降り出し、雨粒が屋根を叩く音が聞こえた。
「……雨降りそうですね」
こういうときになにをいえばいいのかわからず、つい間の抜けたことを口にしてしまう。
「帰ったほうがいいかな……」
「ちょっと待って」
風間は慌てたように深見の手を握った。熱い手だった。もう片方の手が深見の首に触れた。温度や感触を確かめながら皮膚の上を滑り、耳朶を掠める。微妙な刺激に、深見は思わず目を瞑った。
「眞琴……」
耳元で風間が囁く。はじめて下の名で呼ばれ、深見は全身の体温が上がるのを意識した。制服の下で心臓が大きく跳ね、鼓動の音が相手に聞かれてしまうのではないかと思った。いや、もうすでにどちらの心音か聞き分けられなくなっていたし、どちらでもよくなっていた。
「眞琴、好きだ……」
「風間先輩……」
「謙太郎って呼べよ」
「謙太郎……」
顔が近づき、唇が触れあう。ストロベリーアイスの甘い味がした。吐息が絡み、唾液が溢れた。風間の手が背中や腰を行き来する。
互いにはじめてのキスだ。はじめのうち緊張して体を強張らせていたふたりだったが、すぐに夢中になった。顔を傾け、何度も向きを変えてくちづけを深めていった。風間の指が深見の髪に絡み、深見も必死で風間の肩にしがみついた。
熱い舌が口中に差し入れられると、深見の背骨を未知の感覚が駆け抜けた。一瞬怯えて顎を震わせたものの、首の裏を撫でられると力が脱け、深見は風間の舌を受け容れた。
舌を絡め、唾液を啜った。いつの間にか、雨音が烈しくなっていた。唇を離したときには強烈なスコールが屋根を叩き、鼓動が跳ねる音をかき消していた。
「……だいじょうぶか」
息を弾ませ俯いている深見のこめかみで、風間が囁く。頷くだけで精一杯だった。深見はふらつく体を風間に預け、肩を上下させて酸素を吸いこんだ。
「ごめん。無理させたか」
「ううん……」
はじめての経験にまだ鼓動が収まらない。大きく息を吐いて、深見は顎を持ち上げ、恋人を見つめた。
「謙太郎とキスできてうれしい……」
「眞琴……」
二度目のキスはさらに深くなった。雨音と濡れた空気を感じながら、唇を貪り合った。どのくらいそうしていただろうか。再び離れたときには息が荒くなっていた。
「もう帰らないと……」
辺りは暗くなりはじめていた。深見の言葉に頷きながらも、風間の唇は深見の舌を挟み、指は首の皮膚を擦っていた。
「謙太郎。もうだめだって……」
「ん。わかった……」
ようやくあきらめて、唇を開放する。互いの額を擦り合わせ、名残惜しさを共有する。
「濡れちゃうね」
雨はさらに勢いを増していた。しかし、これ以上雨宿りをする時間はない。帰宅が遅れると家族が心配する。ふたりの関係を怪しまれるかもしれない。
「しかたない。行こう」
風間が深見の手を握った。目で合図をして、ふたりは豪雨のなかに飛び込んだ。すこしいったところで、風間が突然足を止め、深見はバランスを崩してよろけた。つないでいた手がつよく引かれ、反動で深見の体は風間の胸に衝突した。
驚いて声を上げかけた深見の唇が、再び風間に奪われた。痛みを感じるほどつよい雨のなか、ずぶ濡れになりながら、ふたりは喉を鳴らして雨の混じった唾液を飲み込んだ。遠くで雷の音がした。
窓際の一番後ろが漆原の席だった。机の上で交差した腕に頭を乗せ、横を向いて眠っている。熟睡しているようで、おれが近づいても気づくことなく、眠りつづけていた。
休憩時間で教室は騒がしい。前の席は空いていた。椅子に股を広げて座り、漆原の机に肘をついて、寝顔を見つめた。
小さな寝息を立てて眠る顔はいかにも長閑で、まるで子どものようだった。頭のなかで数々の恋愛模様をつくり出しているとはとても思えない。虚構の風間謙太郎の夢でも見ているのだろうかと考えながら、おれは首を傾げてさらに近距離で観察した。
ふだんはすぐに顔を背けるため、これほど間近でじっくり顔を見たことはなかった。おれももちろんだが、漆原のほうもとくに美少年というわけではない。奥二重で、鼻先もすこし膨らんでいる。醜くはないが、街を歩けばだれもが振り向くというタイプではなかった。しかし、白い頬に垂れた髪の筋を凝視していると、落ち着かなくなった。薄くひらいた唇は、キスをしたときの一瞬の感触を即座に甦らせた。
昨日の夜読んだ10作目の物語も同時に甦った。雨のなかのファーストキス。漆原が思い浮かべていたキスはああいったものだっただろう。すくなくとも、渋谷の街でいきなり歯をぶつけられ、吐瀉物の味がする舌を捩じ込まれるようなものではなかったはずだ。
映画を観た日の夜、鬱々とした気持ちを引き摺りながら自宅に帰った。漆原を抱きしめてキスをして、そのあとどうなると思っていたのか。漆原が頬を染めて感激するとでも思っていたのか。
吐瀉物で汚れたシャツをこっそり洗ったあと、自室のベッドで仰向けになって天井を睨みながら、これまでのことを考えていた。漆原の言葉や態度をひとつひとつ辿った。
はじめて話したとき、漆原はおれに対する特別な気持ちはないといった。だれかを好きになった経験もないと。漆原がおれを好きだとはっきりいったことは一度もなかった。むしろ、付き纏われて迷惑そうな態度だった。
おれが悪かったのだ。勝手に勘違いして調子に乗り、漆原の気持ちも考えずに暴走した。さらにいえば、漆原がおれを拒むことはないとたかをくくっていた。心のどこかで、漆原を下に見ていたのだ。それは琴子がおれにしたこととおなじ醜悪な優越思考だった。自分がされたことを漆原にしてしまった。尊厳を傷つけ、信頼を損ねた。
無意識に指を伸ばしていた。寝ている漆原の頬に指先が触れる直前、背後で声がした。
「風祭?」
驚いて飛び上がった。椅子が倒れ、烈しい音を立てる。
「うちのクラスでなにしてんの?」
元野球部の波多野、美馬、森井が教室に入ってくるところだった。購買に行っていたのか、菓子パンの袋やジュースの紙パックをそれぞれ手にしている。
「べつになんも……」
さすがに目を覚ました漆原が怠そうに頭を持ち上げる。目の前におれがいることを不審に思ったのか、顔をしかめて瞼を擦る。目が合って、おれは慌てた。
おれと漆原を見較べて、3人組が詮索の眼差しを向けてくる。
「あれ? 漆原? なに、おまえらやっぱ友達なの?」
「そんなわけないじゃん」
答えたのは漆原だった。おれの脇をすり抜け、教室を出て行く。おれは一言も発することができず、漆原の席の前で突っ立っていた。
ふたりで映画を観に行った日のあと、漆原は学校でおれを避けるようになった。バイト先の書店でも、おれの姿を見たとたんにバックヤードに引っ込んでしまう。
今の態度を見てもあきらかだ。漆原はおれに腹を立てている。避けられて当然のことをしたのだから、しかたない。
漆原と顔を合わせてなにを話したいのか、自分でもはっきりわかっていなかった。謝りたいのか、弁解したいのか、それとも……
「風祭、おまえ漆原に用だったんじゃねえの?」
共通点がなさそうに見えるはずのおれたちの関係をさぐろうとしているのか、美馬がミルクコーヒーのパックからストローを抜いて笑う。
「いや……」
曖昧に誤魔化すとかえって噂のネタにされてしまう。咄嗟に制服のポケットに手を突っ込んだ。
「これ、図書室で拾ったからさ」
漆原が忘れていった映画館の会員証。入会申込のときに漆原がペンで氏名を書き込んでいた。
「おれが渡しといてやろうか」
森井が伸ばした手を見て、首を振った。
「いいよ。面倒かけるの悪いし」
「じゃ机に置いとけば」
さっきまで漆原が寝ていた机を見下ろす。気のない素振りを装って、首を窄めた。
「また今度にするわ」
挙動不審に見えただろうが、頓着していられなかった。会員証をポケットにしまいなおして、教室を後にした。同級生たちの視線を背中に感じて、自分の教室にもどるまで呼吸を止めていた。



