ぼくらの恋には込み入った事情が。

「ほんと馬鹿だね」
 漆原の表情は呆れるのを通り越して絶望しているかのようだった。反駁したかったが、なにもいえなかった。漆原は今日一日で数十回目のため息を吐いて、アパートの階段を上がった。主に傅く下男になったつもりでおとなしく後に続く。
 漆原の住むアパートは工場から徒歩15分ほどの場所にあったが、おれの家は電車で5駅は離れている。バスも電車もすでになくなっている時間で、おれは途方に暮れた。
 電話を受けた母は漆原以上に呆れ、激怒していた。息子が学校から帰らないことを心配し、何度も電話をよこしていた。弁当を詰めるのに夢中で気づいていなかったのだ。あと数分でも連絡が遅れたら警察に通報されるところだった。
 タクシーで帰ってこいという親を説得するのには骨が折れた。漆原が1日中働いてようやく手にする給料を超える額をタクシー代につかってしまうのには、たとえ親の金だとしても抵抗があった。友達の家に泊まると話し、漆原に電話を替わってもらった。学生でありながら社会経験が豊富な漆原が如才なく受け答えをし、おれの安全を請け合ってくれた。翌日が土曜日で学校が休みだったこともあり、どうにか納得させられた。
「家遠いこと忘れるかな、ふつう?」
 口うるさい姑のようにくどくどといいながら、漆原は重い足取りで一段ずつ階段を上がっていく。部屋は3階のようだが、古いアパートにエレベータはついていなかった。周辺に民家はすくなく、数すくない窓からもすでに明かりは消え、辺りは真っ暗だったが、かなり老朽化した建物だ。訪問した学級委員が驚くのもわかる。
「どうやって帰るかくらい考えてから行動しなよ」
「もうわかったよ。悪かったって」
 たまらず声を上げると、前を行く漆原が足を止めパッと振り返った。また顔がぶつかりそうになって思わず呼吸を止めた。
「声大きい。何時だと思ってんだよ」
 照明がほとんどない廊下をおそるおそる踏みしめて前進する。
 廊下側に窓はついていなかった。古いドアを開けると、室内は明かりがついていた。
 6畳ほどの部屋の隅に布団が敷いてあり、子どもがふたり眠っていた。漆原の弟たちだろう。
 テレビもクローゼットもなく、布団の横に小さなテーブルがあるだけの部屋だった。狭苦しく、質素ではあるが、清掃が行き届いていて、すくなくとも不潔ではない。
 漆原がコットンバッグから弁当をていねいに取り出して冷蔵庫にしまう。テーブルの上には弟たちの食事が入っていたであろう空の皿が2枚並んでいる。
「親は?」
 弟たちを起こさないよう抑えた声で聞く。
「まだ帰ってないのか?」
「父親は出稼ぎで漁船に乗ってる。母親はぼくが中学のときに病気で亡くなった」
 思いがけない言葉に狼狽えた。
「ごめん。知らなかった」
「いいよ」
「じゃあ……漆原と弟ふたりで住んでんのか」
「そう」
「たいへんだな」
 なにが「たいへんだな」だ。ステレオタイプな表現しかできない自分の語彙力に絶望した。
 コットンバッグには書店の制服と弁当工場の作業服が入っていた。中身を洗濯機に放り込むと、漆原はリュックからパソコンを取り出した。テーブルに置き、電源を入れる。
「今から小説書くのか?」
「すこしだけ」
 電源が立ち上がるまでの間に空の皿を片付け、台所で水につけてから、弁当を持ってくる。
「電子レンジとかないからそのままだけど」
 おれの手に押しつけ、パソコンの前にもどる。
「おまえは食わねえの」
「ぼくはおなか空いてないから」
 夕方に書店のバイトをはじめてからこの時間まで水分しか口にしていないのはそばで見て知っていた。細身とはいえ食べ盛りの高校3年だ。空腹でないはずがない。
 弁当は3つしかない。残りのふたつは弟たちのために残しておきたいのではないかと思ったが、しつこく尋ねるのは憚られた。パソコンに映る漆原の眼がすでに集中しはじめていたからだ。
 おれは黙って床に座り、弁当を食べはじめた。漆原はおれの存在を忘れてしまったかのように一言も話さず、背筋を伸ばして黙々と小説を書いている。静かな部屋に指先がキーボードを叩く音だけが響いている。
 食事もせずに長時間働き続けた後にもかかわらず、漆原は驚くべき集中力で言葉を紡いでいる。狂気的にさえ見えた。いつも読んでいる小説が生まれていく瞬間を直接目にするのは不思議な高揚があった。
 壁に背中を預け、両脚を投げ出しただらしない姿勢で、パソコンに向かう漆原を眺めながら弁当を頬張る。表面が乾いて硬くなった焼き鮭を口に入れる。これまで食べたすべての料理のなかで一番旨かった。