ぼくらの恋には込み入った事情が。

 物音が聞こえ、目を覚ました。ドアが開いて、大きな買い物袋と箱を抱えた暖が入ってきた。
「うー、寒っ」
 コートを脱ぎ、椅子の背にかける。監禁部屋は常にエアコンが稼働していて、室内の気温が一定に保たれているため、一年中寒さや暑さを感じることはなかったが、おそらく外は雪か雨が降っているのだろう。暖のベージュのコートの肩が濡れて色が濃くなっていた。
「遅くなって悪かったな。道が混んでて」
 大学に通いはじめてから暖は東京での生活をはじめ、車で3時間かけてこの監禁部屋に通っていた。
「腹減ったろ。メシ食お」
 そういって暖は紙袋を漁った。袋から取り出したのは食事ではなく小さなクリスマスツリーだった。
「なんだそれ」
「え? クリスマスツリー」
「見たらわかる。なんでそんなもん持ってくんだよ」
「クリスマスイブだから」
 噛みあっているようでいてすれちがう会話。暖はスマホを操作してクリスマスソングを流した。楽しげにツリーをテーブルに置き、食事の用意をする。はじめのうちは1脚だけだった椅子はすこし前に2脚になっていた。テーブルの両側にセッティングされている。
 暖が買ってきた料理をテーブルに並べていく。チキンの丸焼きにケーキ、サラダやハムの前菜。ビールにワインもある。テイクアウトとはいえ、どれも高級品であることは一目でわかる。紙やプラスチックの容器でなく皿やグラスだったら、さながら高級レストランのようだった。
「すこし冷めたけど、作りたてを用意してもらったからおいしいと思う」
 小型のナイフでチキンをカットしながら、暖がいう。おれの視線はナイフに釘づけになった。暖につかみかかり、ナイフを奪い取って暖の喉元にあてる。脅して鍵を奪い取り、逃げる。妄想は一瞬で終わった。実行するには距離がありすぎる。
「なにしてる。食べよう」
 暖の言葉で我に返った。暖はナイフをケースにもどし、バッグのなかにしまい込んだ。
「座って。ビールでいい?」
 おれは無言でいわれたとおりにした。チキンの香ばしい匂いが鼻腔を擽る。戸惑いはあったが、空腹でもあった。
 暖が缶ビールのプルトップを開け、アウトドア用のプラスチック製のグラスに中身を注ぐ。白い泡が盛り上がって、おれは喉が鳴るのを感じた。ビールなどいつ以来だろう。
「乾杯」
 暖も自分のグラスにビールを入れて掲げた。一気に半分ほど煽る。おれは暖の喉が動くのをじっと見つめてから自分のグラスに視線を落とした。目の前で缶を開けた。薬を入れられている可能性は低い。
「飲まないの?」
 誘惑に勝てなかった。思い切って口をつけた。冷たい泡が喉を落ちていく。麦の甘みと苦みが口のなかに拡がる。警戒していた苦痛はない。ただのビールだった。
 おれを殺す気がないという暖の言葉を信用しているわけではない。しかし、食べ物や飲み物に毒が仕込まれているのを警戒していてはとても生きていけない。監禁されている状態では与えられるものを口に入れるしかないからだ。おれは居直って料理を口に運んだ。どれも絶品で、こんな状況でなければがっついていただろうと思うほどだ。
 気づくとビールを半分ほど飲んでしまっていた。暖が手を伸ばして注ぎ足し、自分のグラスにも注ぐ。
「ふつうに飲んでるけど、帰り、運転だいじょうぶなのかよ」
 暖が飲酒運転で逮捕されればここの場所が発覚するかもしれない。運転代行を呼ぶにしても、助けを求めるチャンスが生まれるだろう。わずかな期待を押しころして聞いたが、暖は当然のように首を振った。
「明日は講義ないから、今日はここで寝て明日の朝帰る」
「はあ? 泊まるのかよ」
「俊介の許可はいらないだろ。おれの持ちものなんだから」
 反論する気にはならない。暖は一度決めたら絶対に変更しないタイプだともうわかっていた。
「クリスマスイブにこんなとこきていいのかよ」
 おれはため息交じりにいった。
「どういう意味?」
「彼女とか友達とか家族とかと過ごせばいいだろ」
「俊介といるほうが楽しいから。……これ、うまいな」
 チキンを頬張りながら、暖がいう。おれはますますわからなくなった。暖はまるで親しい友人のように接してくるが、おれは犯罪の被害者であり、暖は加害者だ。殺すつもりがないのは理解したが、こうして食事をともにする意味がどこにあるのか。
「ワイン、飲むか?」
 赤ワインも上等なものだった。飲みながら、これは罠ではないかと考えた。おれの警戒心を解いて油断させようとしているのかもしれない。それでも、黙って食事を続けた。
 この部屋に刃物が持ち込まれたのははじめてだった。もちろん、ナイフやスマホが入ったバッグはおれが届かない部屋の端に置かれているが、室内に持ち込んでおれの目の前でつかうということは、暖のほうも警戒が緩んでいる証拠ではないか。油断させて機を待ちたいのはおれのほうもおなじだ。ここは暖に合わせておくのが得策かもしれない。
 しばらくして、頭に重みを感じた。視界がぼやけて、鼓動も烈しくなっている。薬を盛られたわけではない。経験したことのある感覚。アルコールがもたらす酔いだった。数か月ぶりに酒を飲んだせいで以前よりも回りやすくなっているのかもしれない。
「平気か? 顔かなり赤いけど」
「ああ……ちょっとトイレ」
 おれはふらつきながら席を立った。部屋の隅に設置された便器に向かう。背中に視線を感じて振り返った。
「見んなよ、変態」
「はいはい」
 暖が笑って体の向きを変える。壁に据え付けられた便器に向かって用を足しながら、おれはふとこの部屋にシャワーとトイレが設置されている理由について考えた。
 物置としてつかうための部屋ならそもそも不要だし、災害時に避難するための地下シェルターとしてつくられたなら、シャワーやトイレが個室になっていないのは不自然だ。シャワーカーテンすらない。まるで“監禁を前提につくられた部屋”のようだ。
 なにか引っかかるものを感じたが、酔いが回っていてそれ以上思考が続かなかった。おれはズボンのファスナーを上げて席に戻ろうとしたが、うまくいかなかった。足が縺れて、マットレスの上に倒れこんだ。
「危ないな、本当に平気かよ」
 暖が即座に飛んできておれの体を支える。
「うるせえ。さわんじゃねえよ……」
「暴れんなって。ほら、横になれよ」
 おれは呻きながらマットレスの上に突っ伏した。息がくるしい。頭蓋骨が揺さぶられているようだった。
 ほんの一瞬か、数分だったか、意識を失っていた。体を圧迫する重みで目が覚めた。体を起こそうとすると、頭をマットレスに圧しつけられた。暖がおれの上に折り重なるように体を密着させている。
「なにしてんだよ。どけって。重い……」
 抗おうとして、硬直した。暖の手がおれのシャツの裾を割って滑り込んできた。冷たい指先が腹筋を這う。
「おい……」
「黙ってろよ」
 おれの耳の裏に唇を圧しつけて、暖がささやく。ぞっとした。数か月前に精液をかけられたことを思い出した。不快感が甦り、吐きそうになった。
「なに考えてんだ、おまえ。離せよ」
 暖は答えずに右手を伸ばし、おれの胸元をまさぐった。乳首を圧し潰され、おれは顔をしかめた。
「おい、マジでやめろよ!」
 上半身を捻る。両手をつかまれた。強い力で手首を押さえられ、痛みがはしる。
 仰向けになったおれの上に跨り、暖は息を荒らげている。固いものが下腹に擦りつけられた。布ごしにも熱く脈打っているのがわかる。背筋が寒くなった。
 あのときは暴力の熱気で興奮したのだと思っていた。天性のサディストならそういうこともあるだろう。しかし、今はちがう。なんのきっかけもなく突然盛り出した暖を前に、怒りや恐怖よりも戸惑いのほうが大きかった。
 おれを見下ろす暖の眼にはやはり感情らしきものは見つけられない。ただ、その奥にある欲望ははっきり感じられた。おれを見る目はあきらかに獲物をとらえようとする肉食動物のそれだった。
「なあ、ちょっと……」
「しゃべるな。じっとしてたらすぐ終わるから」
 また自慰行為に付き合わされるのだろうか。下着を下ろされる感覚を不快に感じながら、おれは内心ため息をついた。どうせ力では適わない。こうなったら目的を遂げるまで暖が絶対に退かないことを知っている。血まみれになるほど殴られるよりは、精液をかけられるくらいのこと、我慢したほうがいいかもしれない。そう思いかけていたとき、暖の掌がおれの臀部の肉をつかんだ。
「いて……なんだよ」
 混乱した。暖の指がおれの尻の肉をかき分け、奥に進もうとしていた。
「おい!」
 思わず叫んだ。蹴り上げようと足を振ったが、あっけなくつかまれた。暖が手に力をこめ、乳児のおしめを替えるようにおれの左足を大きく持ち上げた。
 暖はもうおれを見ていなかった。焦ったような手つきで自分のベルトを外し、ファスナーを下した。熱く滾ったものをおれの腿に圧しつけた。
 解剖実験の蛙のような無様な体勢で、おれは唖然としていた。こいつ、なにをする気だ?
 暖の指が滑りこんできて、おれは声を上げた。
「嫌だ、馬鹿か、おまえ、変態、この……」
 完全に混乱して言葉にならない。おれは滅茶苦茶に暴れたが、暖の力のほうが強かった。全体重をかけられ、呼吸ができず、酸素を求めて口を開いた。
「ちょ……なあ、おい、本気じゃないだろ? こんなの……」
「どう思う?」
 暖が烈しく指を出し入れする。内部が引き攣れ、切り裂くような痛みがはしる。
「くそ、冗談だろ。マジで……いてぇ……」
「我慢しろ。すぐ気持ちよくするから」
 余裕を欠いた声だった。おれの奥を犯していた指が出て行った。ほっとする間もなく、べつのものが入り口を掠めた。熱くぬめったそれがなにかはすぐにわかった。
「やめろ!」
 おれはパニックになっていた。酔いは完全に醒めきっていた。必死に逃げようと暖の体の下でもがいた。これが冗談でもなんでもないことはもうわかっていた。
 暖が体を進めようとする。おれは咄嗟にのけ反ったが、暖の左手に頭を押さえつけられて上下左右どこにも逃げられなくなった。
 唯一動く眼球を必死に動かして逃げ場を探した。逃げる場所などどこにもなかった。両手を伸ばし、十本の指で床やマットレスを叩きながらとにかくなにかを探した。なにを探しているのかはわからなかったが、とにかく指を動かした。冷たい床と湿った布の感触しかなかった。
 暖がおれの首に顔を寄せた。顎の付け根から鎖骨の端まで舌を這わせる。全身が粟立った。
 暖の頭越しにテーブルが見えた。食べかけのチキン。クリスマスケーキとワインのボトル。
 チキンを切り分けたナイフはバッグのなかだ。とても届かない。
 おれの体を固定して、暖は狙いを定めた。腿の内側を移動していたおぞましいものは体積を増していた。先端をぴたりと圧しつけられ、おれは叫んだ。
「やめろやめろやめろ、マジで無理、ほんと無理、勘弁しろって、それだけは……」
 自分でもなにをいっているのかわからなかった。とにかく叫びまくった。恐怖が限度を超え、涙が滲んでいた。
「ごめん、俊介」
 泣き喚くおれに、暖はそれだけいった。その一言で、絶対に逃げられないと悟った。なにかがぷつりと切れた。
 おれの足がテーブルにぶつかり、ワインのボトルが落下した。ボトルはプラスチックではなかった。ガラスが割れる音。気づくとおれは割れたワインのボトルネックをつかんでいた。
 なにが起きたのか。
 暖がゆっくりと体を起こした。呼吸が楽になり、おれは胸を上下させて酸素を吸った。
 暖が立ち上がる。おれを見下ろしている。呆然とした表情。
 おれは暖の呆けた顔を見て、それから自分の体を見下ろした。腹に濡れた感触。あのとき、暖が目の前で果てたときのことを思い出した。だが、このときはちがった。おれの腹を濡らしていたのは精液じゃなかった。
「俊介……」
 暖の視線の先。おれの右手にはワインのボトル。割れて尖った先端が血で染まり、重力に負けた血液の玉が床にぽたぽた垂れている。狂いそうになる赤色を見て、おれはようやくなにが起きたか、なにをしたか理解した。
「……おまえが悪いんだろ」
 かろうじていった。声が震えて言葉になるかならないかぎりぎりだった。
「おれは悪くない。おまえがあんな……」
 暖が顔をしかめる。脇腹から血が噴き出し、シャツが真っ赤に染まっている。白紙に炭をぶちまけたかのようにじわじわと侵食していく。
「馬鹿野郎。なにしたかわかってんのか!」
 暖が叫ぶ。怒鳴られる筋合いはなかった。怒りで顔が熱くなった。おれも叫んだ。
「ふざけんな! 自業自得だろ!」
「なんにもわかってないな、おまえ。死んでもいいのかよ」
「ああ、いいよ。死ね、おまえなんか!」
 おれは立ち上がり、暖と距離を取って後ずさった。激昂した暖が襲ってくるのを警戒したからだ。しかし、暖はおれを見つめているだけだった。その目に怒りはなかった。
「くそ……」
 独白のように小さく舌打ちして、暖はコートとバッグをつかんだ。傷口を押さえながら、ドアを開ける。
「おい、どこ行くんだよ!」
 暖は答えなかった。ふらつく体を引きずるようにして出て行った。
 ドアが閉まる音を聞きながら、おれは下半身を剥き出しにしたままぼんやり立ち尽くしていた。