蛇婿入り(仮題)


 木地雅哉が蛇入に足を踏み入れたのは、彼のそう長くない───三十余年の人生で2度目だった。
 雅哉は、入洲本家の重厚でどこか奇妙な意匠の施された長屋門を見上げた。冠のようなトサカのついた蛇なのだが、どこか西洋風で日本家屋には不釣り合いだ。おまけに今はどぎつい黄色のバリケードテープが貼られている。
 雨がしとしとと降り続く。雅哉が蛇入に到着した頃から降り出した鬱陶しい雨は、雅哉を訳も無く憂鬱な気分にさせた。
 雅哉は、蛇入村のある山の麓の街で生まれ育った。栄えているでもなく、かといって賑わっている訳でもない。良い街だ。
「蛇入には魔性のモノが棲む」
 祖父は、雅哉に決して蛇入村には行かないよう言い聞かせた。皺くちゃの手で、何度も何度も雅也の手を握りしめて言い聞かせた。線香の臭いの染みついた部屋には、埃を被って薄汚れた祖母の遺影が飾られていた。
 子供というのは、禁止されたらそれをせずにはいられないものである。
 雅哉は幼馴染みの直美と哲と共に、誰にも告げずに蛇入行のバスに乗った。小学5年生の夏のことだった。
 あの日は酷く暑かったのを覚えている。
 そこで見たものが本当にそうだったのかは今となってはわからない───しかし、それが当時の自分の理解を超えるものだったことだけは確かだった。
 雅哉は、直美と共に街へ戻った。汗ばんだ手を固く握りあわせ、帰りのバスでは一言も言葉を交わさなかった。
 直美とはそれきり会っていない。彼女は転校していった。
 哲は、いっしょには帰らなかった。
 それから二十余年。雅哉は刑事になった。刑事ドラマのヒーローに憧れていたからだ。刑事になれば、勇敢になれると信じていた。
 今も信じている。
 着込んだスーツの下をぬるい汗が伝った。
 当時のことはよく覚えていない。
「木地、お前、この辺りの出身だったよな」無精髭の男───高島が、億劫そうにテープを潜りながら雅也に言った。
「ええ。麓の街に」
「来たことあるのか?」高島は胡散臭そうに長屋門の装飾を眺めた。
「一度だけ。ガキの頃ですよ」
「辛気くせぇところだな」
 雅哉は無言で頷いた。
「……身元は割れたんですか」
「第一発見者によると、稲荷とか言う───この入洲家の執事らしいな。首が無いからなんとも言えないが。今鑑定している」
「稲荷……名前は?」
「それがわからねぇって言うんだよ」高島は顔を顰めた。「分家筋でこの家に出入りしてる、フタバとかいう男もいるんだが、そいつも名前は知らねぇときた。おまけに、そのフタバとかいう若造が当主には会わせられないとか抜かすんだ。身体が弱ってるだの、なんだのってよ───おい、聞いてんのか」
「聞いてますよ」
 瘡蓋をはがすように、記憶の一端が血を流し出す。
 哲は帰らなかった。
 雅哉は煙草をくわえた。親指にある限りの力を込めて震えを抑えてライターで火をつけた。
 湿った土の匂いがした。

 蛇入駐在所は、かつてないほどに物々しい雰囲気に包まれていた。駐在所、といっても普段は暇を持て余した老人たちが一人、また一人と集まり集会所の様相を呈している。仕事といえば、ほとんど便利屋のようなものである。
 詰め所の奥。エアコンの効いたキッチンスペースの脂ぎったテーブルで、木地雅哉は入洲双刃と対面していた。
 花柄のタイルが貼られた台所の脇で聴取なんて取れるかよ。雅哉はげんなりしながら双刃を観察した。
 入洲双刃は美しい男だった。美少年、というには薹がたっているが中性的な顔立ちで立ち振る舞いには品の良さがあった。都市部の大学に通っているらしい。
 スカウトされてもおかしくないような風貌だが、芸能活動のようなことは一切なし。アルバイトもサークルにも参加していないようだ。
「先ほども申し上げましたが───稲荷のことは、よく知りません。私が生まれる前からこの家にいて、大義様のお世話をしていました。私たちとはあまり関わりたがりませんでしたから」双刃は静かに言った。
「大義さん以外に、稲荷さんと関わりのある人物はいましたか?」
「あまり誰かと親しくしているところは見たことがないです。強いて言えば、大義様の主治医の櫻庭先生でしょうか」
「……であれば、やはり大義さんにお話を伺いたいですね」雅哉は身を乗り出した。
「大義様は今、体調を崩されているんです。とてもお会いできる状況では」双刃はにべもない。
「意識はあるんでしょう?」
「意識が混濁していることが多いんです。最近はほとんど意識もなくて」
 主治医にも話を聞く必要がありそうだ。本家に来る途中、ステンドグラスの嵌め込まれた古ぼけた診療所があったのを思い出した。
「───では、大義さんと稲荷さんの間に何か変わったことなどはありませんでしたか」
「わかりません。ただ、大義様は気まぐれな方でもありますから」
 気まぐれで自分の世話をしてくれている執事の首をもぎとるのか?
 双刃は、憂いを帯びた表情で、雨の降りしきる窓の外を眺めた。
 稲荷の首は、刃物で切断されていた訳ではない。何か、恐ろしく強い力で引き裂かれたのだ。
 現場は向こう3年は夢に見るような有様だった。被害者は血の池の中で正座しており、首の断面からは引きちぎれてボロボロになった組織やへし折られて鋭く尖った骨が覗いていた。
「佐藤誠さんも、ここに来て以来体調が優れないそうですね。ところで、佐藤さんが───入洲本家の直系というのは本当ですか」
 佐藤誠には、まだ接触することができていない。彼は、ここに来てからひどい夏風邪を起こしたらしくほとんど寝たきりらしい。聴取も難しいので、後回しにされている。
「……それはどこでお聞きになったんですか」
「それにはお答えできませんね」雅哉が答えると、双刃は眉をぴくりと動かした。
「何か不都合でも?」
 雅哉が言うと、双刃は苦笑した。
「いいえ。誠くんのご両親は───大義様とちょっとした行き違いがありまして。村を出ていたのですが、そのご両親がお亡くなりになったのでこちらで支援を申し出たんです」
「ちょっとした行き違い?」
「……大したことはありませんよ。それくらい、どんな家にもあるでしょう?」双刃は見透かすような目で言った。
 直美と共に蛇入から戻った後。両親は何時間も深夜のダイニングルームで話し合っていた。雅哉はドアの影に隠れてそれを聞いていた。話は堂々巡りだった。
 こんな街たくさんだ。父は街を出ていくことを決めた。たった一人で、だ。
「はぐらかさないで」雅哉は苛立ちを滲ませる声で言った。
「こんな村たくさんだ、って」双刃は言った。双刃の声には、ぞっとするような響きがあった。
「そう言って出て行ってしまったそうですよ。大義様は、それは厳しい方だったそうですから。嫌気がさしたのかもしれませんね」
 雨脚はいよいよ強まってきた。