蛇婿入り(仮題)


 酷い頭痛がする。
 口の中はカラカラで、舌が嫌な粘り気を持っていた。
 誠は、ぐっしょりと汗を吸った浴衣を脱ぎ捨てた。朝の空気がひやりとした。
「なんだこれ……」
 足の指の間が汚れている。足の裏を見ると、何か液体でも染み付いたように汚れていた。焦げ茶色で、指でこすっても取れない。
 部屋を見回すと部屋の中を点々と、床の間の障子から布団に向けて足跡がついていた。
 昨日見た夢がフラッシュバックする。思わず頭を押さえた。
 やけに外が騒がしい。
「誠くん……!もう起きていたんですね」双刃が、息を切らして離れに駆け込んできた。
「何かあったんですか」
 誠はなるべく双刃の顔を見ないよう下を向いたまま問いかけた。
 昨晩のことは夢だったのか?
 異様に生々しい夢と、現実の境目が曖昧になる。線香花火をしたことも、その後の双刃の行動も。ほんのりと煙草の香りがしたことも。
「稲荷───大義様の執事の稲荷が、何者かの手によって……殺されていたんです」双刃が言った。
「殺されていた!?」
「ええ。今日は屋敷のことで手伝いを頼んでいた者がいたのですが、その者が最初に見つけたのです」
「それは、どこで」
 嫌な予感がした。
「本家の正面玄関です」双刃は憔悴した顔で言った。
 正面玄関。首の無い男。
 頭がずきりと痛んだ。
「……誠くん、足をどうしたんですか」
「え!?あ、あぁ……なんでもないですよ。少し、庭に出て」
 下手な言い訳だ。
 この小さな中庭に、足が赤黒くなるような泥まみれになるような土は存在しない。
「しばらくしたら、警察の方が来ますから。部屋のは汚れは私が掃除しておきます。誠くんは足を」双刃が言った。
 離れの浴室には、淡い水色のタイルが全面に貼られている。西洋風の蛇の装飾のついた全身鏡が掛けられ、バスタブは陶器だろう。
 浴衣の裾をたくし上げ、生ぬるい水で足を洗う。足の下を緩やかに広がっていくぬるい液体の感覚は、あの夢を思い起こさせた。
 寒気がする。
 ふいに、水色のタイルを伝わる水が、赤に変じた。誠は息を呑んだ。シャワーから流れる水も、錆でも混ざったように色が変わっていく。
 足がもつれてうまく歩けない。誠は倒れ込み、強かに膝を打った。
 浴衣はどんどん染まっていく。白地に紺のしま模様の入った浴衣は、シャワーの色を吸ってどんどん赤くなっていく。
「大丈夫ですか?大きな音が聞こえましたけど」目線を上げると、双刃が浴室をのぞき込んでいた。
 道路で轢かれた動物のように惨めに這いつくばっているのを見て、双刃はどう思うだろう。
 誠は取り繕うような笑みを浮かべた。
「やっぱり、本調子じゃなかったんですね」双刃は、誠のそばに膝をつき抱き起こそうとした。
 頭痛がする。
「血が……!血がつきますよ」
 誠は手で突っぱねた。腕がうまく動かない。しかし、双刃は全く躊躇うことなくうつ伏せに倒れた誠を抱き起こした。
「血?何のことですか」
 浴衣に目をやると、ただじっとりと濡れていて色も何もない。双刃の薄緑色のシャツも、濡れているだけで色はついていなかった。
 双刃はバスタブの縁に誠を座らせると、その足元に跪いた。
「洗ってあげますから、楽にしていてくださいね」
「そんなのやめてください!自分でできますから」誠は膝までたくし上げられた浴衣を下ろそうと足をバタつかせたが、意外にも双刃の力は強かった。
 双刃は暴れる足を軽くつかまえ、器用に湯を張った桶と石鹸を準備した。
「ダメですよ。大人しくしていないと。貴方は病人なんですから」
 双刃は、泡立てたタオルで誠の足を包み込んだ。柔らかで靭やかな指が、足を撫でていく。こそばゆさと居たたまれなさで誠は双刃から視線を外した。
「私が昔、田圃に落ちてしまった時、久美子さんが足を洗ってくれたんです」双刃が、誰ともなく呟いた。
 他人から聞く母の名前は空虚だった。母ではない、別の女の話でもしているようだった。頭の奥がずきりと痛んだ。
「よく遊んでくれたんです。妹とも年は離れていましたから──私はほとんど一人っ子のようなもので」
 双刃は言葉を切った。
 浴室には、ぬるい空気と湯気が満ち始めていた。
「誠くん。どこで足を汚したんですか?」
「庭に出て……」
「嘘つき」
 双刃は、誠の濡れた足を抱きしめるようにして、誠の膝に形の良い顎を載せた。
 甘えるような仕草とは裏腹に、ぞっとする程冷たく鋭い目つきで誠を見た。
「離してください」
 誠は急激な恐怖に襲われた。
 双刃の目は、尋常な人間のものではないように思われた。
 しかしそれと同じくらい、彼の体温は扇情的だった。
「いいえ。誠くんが本当のことを話してくれるまでは離しませんよ」
「本当にわからないんです」
「なぜ?」双刃が問いかけた。
 話すべきなのか?誠は、冷えた汗が浴衣の中に伝わるのを感じた。
 妙な夢。現実との認めたくないような符号の一致。
「殺人の現場を……見たかもしれないんです」
 双刃は瞬きもせず誠を見つめていた。つややかな瞳だ。
「殺人の現場にいたと?」
「いえ、ぼんやりと。夢でも見ていたみたいで」
「警察の方が到着しても余計なことは言わないように。田舎の警察は疑り深いですよ」
 双刃は固い声で言った。「迷信じみたことが、ここでは真実として信じられているんですから」
 双刃は、熱い湯で誠の足の泡を洗い流した。彼の薄緑色のシャツは濡れて変色していたが、全く気になっていないようだった。
 双刃が浴室から出て行くまで、誠はその場から動くことができなかった。