蛇婿入り(仮題)

 暑い日だった。夏休みはもうすぐ終わりそうだったが、宿題は終わっていなかった。
 蛇入に行くことを提案したのは、俺だったはずだ。
 哲は近所の集合住宅に住んでいた。
 哲はいつも集合住宅の錆びついた階段の踊り場で宿題をしていた。連れ出そうとしても、哲は終わるまで絶対に動かなかった。階段までは来ても良いが、家の前には行かない。それが哲と交わした最初の約束だった。
 いっしょに遊んでいることを知ると親は良い顔をしなかったが、そんなこと関係なかった。
「へびいり?」
「そう。気になるだろ?」
「そこ遠いんだろ」
「大丈夫だって。すぐ帰れば」
「そうかなぁ」
「直美は?」
「木曜は習い事だっけ」
「習い事は休みっていったでしょ。覚えてないの?」軽い靴音を響かせて、直美が階段を登ってきた。長い髪が、汗で頬や額に張り付いていた。
「蛇入って知ってるわ。ママがいっちゃいけないって」
「じゃあお前は行かなきゃいいだろ」
「哲だって反対でしょ?」
「ううん……まぁ」
 直美はにまりと笑った。哲は大体直美の味方をする。決まりきったことだ。
「いいよ。怖がり。俺だけで行くから」
「誰が怖がりよ」直美は眉を吊り上げた。
 茹だるような暑さ。駅前にはまばらな人しかいなかった。
 日除けも何もないバス停で蛇入までのバスを待っていると、薄ぼけた藍色のバスがよたよたやってきて、軋んだ音を立てて停車した。
「君たち、何しにいくんだい」
 バスの運転手の初老の男は怪訝な顔で言った。まばらに生えた髭をしきりに撫で回しながら、男は三人の子供たちをじろじろ見た。
「親戚に会いに行くんです」淀みなく答えたのは哲だ。
「親戚ねぇ」運転手は見透かすように鼻で笑った。「村から出るバスは3時でおしまいだよ」
 鬱蒼とした木々がバスに覆い被さり、まだ日が高い時間だったはずなのに夕方のようだった。バスの生ぬるいエアコンの、悲鳴を上げるような音が耳に残っている。
「3時だよ」運転手は、運賃を箱に入れようとした雅哉の腕を掴んだ。
「わかってるよ」雅哉は運転手の手を振り払った。黄ばんだ白い手袋の感触に鳥肌がたった。
 バスを降りると、先に降りていた哲と直美はバス停の中を覗き込んでいた。屋根つきの、掘っ立て小屋のようなバス停。中は薄暗く、湿った泥の匂いがした。
 その隅に、少年がうずくまるように座っていた。
「君たち、どこから来たの?」少年は、雅哉たちを見上げて言った。
 歳は同じくらいだっただろうか。肌が生白く、痩せていてひどく病的な印象を受けた。
「麓の街から」
「ふぅん」少年は言った。「僕、村の外の人にあったこと、ほとんどないんだ」年の割には、やけにあどけない口調だった。
「何しに来たの?」
「別に」雅哉は答えた。
 実際、特に理由なんてなかった。祖父の言いつけに背くこと、禁忌を破ることにこそ価値があったのだから。
「じゃあ、僕が案内してあげる」
 立ち上がった少年は、浴衣を着ていた。夏祭りに着るような華やかなものではなかった。地味な薄墨色で、しかしその生地は一目見ただけで上等なものと分るような代物だった。
「その代わりにさ、僕を街まで連れてってくれないかな」
「いいよ!」そう応じたのは、哲だった。
 頼んでない、と言いかけたが、哲は乗り気なようだった。直美は明らかに不満そうな顔をしていたが、哲が楽しそうなので何も言わないのだろう。
 山の斜面にある古びた神社、既に廃校になった小さな木造の学校。物珍しいのはそれくらいで、後は街の風景となんら変わりなかった。住居はそれなりに現代的で、創造していたような茅葺きの家なんて一つも無かった。
 少年と哲はずっと楽しそうになにやら話し込んでいたが、直美は明らかに飽き始めていた。自分だってそうだ。
 あの嫌な感じのするバスの運転手は、3時のバスが最終だと言っていた。
 あと10分ほどで3時になろうかという頃だった。
「なぁ、もう帰ろう」
 雅哉は、少年と並んで先を歩く哲に声をかけた。右手には田圃が広がり、鋭い日差しを跳ね返してキラキラ輝いていた。
 けして広くはない村だ。ここからバス停はそう遠くないはずだ。
「もう帰るの?」振り返った少年は、眉尻を下げた。
「……僕も街に行くよ。行きたいんだ」少年は言った。
「お金もってるの?」直美が言った。
 少年は身軽だった。鞄一つ手に持っていない。
「もってない。必要、ないし」少年は、所在なさげに浴衣の帯を指でいじった。
 蝉の声が煩い。
「バスに乗るんだから、お金が必要なのよ」
「必要ないよ」少年はさも当たり前というように首を傾げた。
「俺が出すよ」哲が言った。
 子供たちは、無言のままバス停まで歩いた。まだ早い時間帯だというのに、日がほんのりと陰っていた。
「なぁ、あいつほんとに連れてくの?」
「うん」哲は、もともとそこまで口数が多い方ではなかったが、やけに言葉少なだった。
 薄墨の浴衣の少年は、一人でどんどんバス停の方まで進んで行った。
 少年の長い影が、村唯一のバス停のある十字路にさしかかったとき、それは現れた。
 背の高い、短髪の男だった。
 赤に近い退色した髪で、安っちいロゴの印刷されたシャツに、ダメージジーンズ。そしてカラフルなビニールサンダルを履いていた。
 男は、脇道から現われたのではない。唐突にそこに居た、のだ。
「どこに行くんだい、坊ちゃん」
 少年は立ちすくんだ。後ろ姿からは、なぜだかはっきりと怯えが見てとれた。
「坊ちゃん。後ろのかわいい子たちは誰だい?お友達?」
 男はにこやかに笑いかけた。薄い唇からぞっとするような乱杭歯がのぞいた。
「なぁ、どこに行くんだよ」
 男は、にたにた笑いながら子供たちに歩み寄った。
「坊ちゃん、爺さんが探してたぜ。今日はお稽古がまだなんだってな。ほら、早く帰ろう」
 男は、少年の肩を抱いた。そして、少年の薄い肩に手を滑らせながら続けた。
「君たちも、茶でも飲んでいけよ」
「バスの時間が」雅哉は口を開きかけたが、男はかき消すように言った。
「だぁい丈夫だよ。車で街まで送ってってやるから。おやつもあるよ。おいしいおやつ」
 直美の横顔は引き攣っていた。
「……君はどうだい。坊ちゃんと、まだ遊びたいんじゃないのか?」
 男は少年の脇をすり抜けて、哲の肩に手をかけた。
 男の肩越しに、バスがこちらへやってくるのが見えた。藍色の車体の、埃っぽい古ボケたバス。それはスローモーションのようにバス停に近づいてくる。
「坊ちゃんも、この子に家に来てほしいよな」
 男は、哲の肩に手を置いたまま少年を振り返った。
 バスは、何も見ていないかのように方向転換しようとしている。このままでは街に帰ってしまう。しかし、バスの方へ行くには男の脇を通り抜けなければならない。
「俺、もっと、遊びたい。家に行くよ」哲が言った。哲の肩に手を置く男は、笑みを深くした。
「哲……!?」直美は哲の方を見た。
「二人は帰れよ」
「でも」
 気が付くと、十字路から伸びる道全てに、人間が立っていた。
 彼らは皆一様に押し黙っていて、まるで元からそこにあった立像のようだった。
「さぁ、どうするね」
 男は、少年の髪に指を滑らせながら言った。男はこの上なく優しく、しかし耳障りな笑い声を立てた。
「か、帰る。帰ります」
「帰らせてください」
 

「おい」
 雅哉は、唐突に頭上から降ってきた声に我に帰った。 白昼夢でも見ていたようだった。
 雅哉が顔を上げると、傍に男が立っていた。
 男は大層な偉丈夫だった。この暑い中、男は黒のロングコートを羽織り、つばの広い帽子を目深にかぶり、離れの縁側に土足で立っていた。
 嵐の夜に、「さがら」に来た男だ。雅哉は目を見張った。
 いつからここに居たんだ?
「アンタ……ハンターとかいう」
「名前はどうでも良い。女を見なかったか」
 男は、ぶっきらぼうに言った。
「は?」
「女だ。顔が……ない。白いワンピースの」
「顔がないって何だよ」
「……見てないんだな」
 男は、ため息をつくと、雅哉には目もくれず土足のまま畳の上に足を踏み入れた。ブーツにはもちろん泥がたっぷりとついており、青々とした畳に転々と足跡がつく。
「おい、本当に何してんだアンタ」
「こんな穢いところで靴を脱ぐ気にはならない」
「不法侵入の上に潔癖症かよ。というか、俺は警察だ。もしその女の子が本当に失踪したっていうなら───」
「失踪じゃない。脱走だ」
「……脱走?」
「余計なことに首をつっこむな」男は、再び迷惑そうにため息をついた。
「脱走はいつものことだ」