「何の騒ぎだ」
双刃は、足早に母屋の仏間へと踏み入った。襖がめちゃくちゃに切り裂かれ、いくつかはまとめて外れ、倒れている。その倒れた襖の上に、見覚えのある赤茶けた短髪を見つけた。
「千歳?」
千歳は出血していた。仰向けに襖の上に横たわり、翼を広げたように血だまりが広がっていた。
「何があった」
「わからねぇ。透明なバケモンが襲ってきた。坊ちゃんが近づいてきたら、急に離れていきやがった」千歳は、口端から血の混じった泡を吐き出しながら言った。
転化した人間は、多少頑丈になる。めったなことではここまで重傷を負うことはない。
「鶴寿翁か?」
「さぁな。何か聞いてないかい?透明人間を造った、とかよ」
千歳の唇がにやりと笑みをつくった。自らの血に染まった、杭のような歯が覗く。
「っ……!」双刃は、反射的に首を左に傾けた。
右頬に鋭い痛みが走る。
そこに、なにかが居る。
透明だが見えない訳ではない。微かな空間の揺らぎがある。
双刃は慎重に距離を取った。この手の相手に視覚は役に立たない。
第六感をはじめとした感覚の拡張。入洲家の人間は、その感覚が生まれながらに開かれているらしい。
千歳を初めとした、村の外部から集められた実験材料たちとは素養が異なる。
「何者だ」双刃は言った。
耳障りな哄笑が頭に響く。
視覚情報ではないイメージ。それは網膜を通してではなく、脳内に直接出力される。
それは、人の形をしていた。薄手の白いワンピースを纏った体つきは女のようだ。しかし、そのつるりとした能面のような顔面は、ぱっくりと縦に割れている。
ハエトリグサのように組み合わさっているのは歯だろうか。
ぱくりと口が開く。秘部のように生々しい肉が露出した。イソギンチャクのような触手が蠢いている。
「───鶴寿翁を呼んでこい」
「俺に言うかね」千歳は襖の上に寝転がったまま言った。
「貴様以外の誰に頼む」
「人使いの荒い坊ちゃんだな」
双刃は化け物に向けて、ゆっくりと手を伸ばした。
指先の空気がぬめり、重くなるような感覚。
入洲家の感覚の拡張は、既存の五感にも及ぶ。その中でも双刃は、「触れる」ことに特化していた。
双刃が触れることが出来るのは、物質だけではない。
化け物は不愉快そうに、その華奢な肩を震わせた。
『無作法ね』化け物は囁くように言った。
テープを再生するような、無機質な声だった。
「……話せるのか」
『人のココロに断りもせずに触れようとするなんて』
化け物は、身体を包み込むように、恥じらう乙女のように触手を自らの肩に巻きつかせた。
「貴様、どこから来た。何者だ」
『お前達の想像も及ばないような宙の奥深くからさ』
クスクス化け物は笑った。
『お前をどうしてくれようか』
『お前を、喰ろうてやろうか』
『美しいものは嫌いではない』
化け物は、鋭く触手を突きだした。双刃の生白い首に絡みつき、締め上げる。
───ように思われた。
『おや』
触手に掴み上げられていた身体が、とろけるように消える。室内だというのに霧がゆらめきながら立ち現れた。手を伸ばした指先すら見えないような深い霧だ。
化け物は腕を広げ、踊るように一回転した。触手がドレスのように広がり、壁に、畳に、窓に張り付いた。
双刃はもういない。
『時間稼ぎかえ。みっともない奴じゃ』
化け物の哄笑が響き渡る。
双刃は離れへと駆け出していた。
あれは人間の領域の埒外の存在だ。あの幸運な刑事だけではどうにもなるまい。
───何か起きているのかわからない。
鶴寿があんなものの侵入を許すとは思えない。想定外の事態が起こっているに違いない。
頭が内側から蝕まれるように痛んだ。力を使いすぎた。
あれは人間の領域の埒外の存在だ。あの幸運な刑事だけではどうにもなるまい。
とにかく、誠だけは。
彼だけは守る。
そして、この村で。
この村で、私の手によって生き続けるんだ。
