蛇婿入り(仮題)


 入洲千歳は、首筋にちりとした視線を感じて振り返った。
 入洲本家の母屋。特に大義の居室の周囲には、入洲の人間以外は寄り付くことすら叶わない。
「誰だ」
 誰もいない。いるはずがない。
 しかし、明確に何かがいる。
 千歳は両目を閉じ、祈りを捧げる聖者のように両手を組み合わせた。
「鼠が入りこんだか?」
 第六感。
 視覚、聴覚、味覚、触覚を越えた感覚。かつて人が持ち、失われつつある感覚。
 千歳は、転化しよってそれを会得した。
 感覚の拡張は大きな苦痛を伴う。身体がとおの昔に忘れ去った古代の記憶を、「蛇」の血でもって呼び起こす。村に来る前の日々を懐かしく思い出す程に地獄のような日々をくぐり抜け、得たものはこれだけ。
 割に合わないと思ったものだ。
 全ての生物は痕跡を持つ。
 しかし、ここに痕跡は無い。ただ無機質な空間だけが広がっている。
 つまり、それは生物ではない。
「覗き見とは趣味が悪いぜ。どこの奴だ?」
 不意に空気が揺らめいた。細い糸のように何かの輪郭がきらめいている。
 綺麗だ。
 そう思った瞬間、悪寒がした。
 クスクス。
 耳元で密やかな笑い声。少女のようであり、老爺の含み笑いのようである。
 嫌な声だ。笑い声は嫌いだ。嘲笑われているようだから。
 異様に生臭い風が鼻先を通り抜けたとき、千歳は駆け出した。本能的な恐怖だった。
 「それ」は追ってきた。音もなく、影もなく、熱もなく。
 迷路のように入り組んだ母屋を駆け抜ける。花の活けられた焼き物や蛇の形の置物が割れたような音がしたが、構ってなどいられなかった。
 これは何だ?
 鶴寿の気まぐれか?
 鶴寿翁が何を考えているのかなんてよくわからない。彼はただ使える人間を求めていた。この村に居場所を作る他なくて、どこにも行くことはできない。そういうどうしようもない人間を村に集めた。
 夢中で走る。
 あれは7回目の作業の後だった。
 小動物、近所の家のペット、のろまな野良猫。それだけじゃ我慢できなくなった。都市部には人が溢れている。一人二人いなくなったところでわからない。なるべく不幸な子供が良い。
 仕事場だった市民プールのシャワー室で体の汚れを落としていたとき、鶴寿は現れた。施錠はしていたが、彼にはそんなもの意味を成さなかった。
 このバケモノは鶴寿が連れてきた新入りだろうか。
 耳障りな笑い声が耳に張り付く。子どもの声は嫌いだ。父親が庭に埋めた弟を思い出す。
 背に熱い衝撃が走った。
 空気が口から全て吐き出されて胸が詰まった。白い漆喰の壁に強く叩きつけられた。

「どうかしましたか?刑事さん」
「何か、変な音がしなかったか?」
 雅哉は辺りを見回した。入洲本家の離れの縁側は中庭に面しており、そこからは母屋の北側が見える。何かが落ちるような重い音は、母屋の方から聞こえた。
「……私が見てきます」
 双刃は、眠っている誠を一瞥した後立ち上がった。
 誠はさがらの2階で意識を取り戻してから混乱した様子だったが、先程茶を飲んでからは再び眠ってしまった。時折身じろぎするものの、深く眠っているようだ。
「俺も行く」
「来なくていいですよ」双刃はにべもない。
「どうせ屋敷を見るつもりだったんだ」
「誠さんについていなくていいんですか?」
「母屋を見せたくないんだろう」
「いいえ……後からならお好きにどうぞ」双刃は面倒臭そうに言った。「ただ、誠さんについていて欲しいんです」
 双刃は、先程無理矢理にでも屋敷に連れて帰ろうとしていたとは思えない心配そうな顔で言った。
「貴方が見ていてくださったら、安心出来るんですけど」
「───わかりましたよ」雅哉はため息をついた。
 双刃が一人で行きたがっていることは目に見えているが、誠を一人にすべきではないことは確かだ。
 刑事として正しい判断は後者だ。なにしろこの村には、人間の頭部を引きちぎるような怪人物が闊歩しているのだから。
 双刃は、それが誰かを知っている節がある。しかもそれを恐れていない。
 昨晩から訳の分らないことばかり起きている。雅哉は、頭を掻き回しながら縁側に寝転んだ。床板がひやりとする。
 「蛇入には魔性のモノが棲む」
 双刃は「蛇」と言っていた。
 土砂崩れが起きた夜。村人も「蛇」の話をしていた。しかし、誰もはっきりと「蛇」が何かを答えることはできなかった。麓の街で洋食屋を営んでいるという初老の男は、こう答えた。
「蛇ってのは……なんだ、神様みたいなものなんだ。こんなのおかしいと思うかもしれないが、私たちは子供のときからそう教え込まれてる。村で死人が出たときに現われるのさ」
 男は、自分でも半信半疑といった様子で答えた。
 魔性のモノ。蛇。
 蛇入行のバスに乗った、小学5年生の夏。
 同い年か、少し上か。蛇入のバス停で少年に出会った。少年の顔は朧気で上手く思い出せないが、この世のものとは思えない程肌が白かった。
 少年は、バスから降りてきた雅哉たちに驚いているような様子だった。
 あの少年は、今どうしているのだろう。