蛇婿入り(仮題)


 男は、この暑い季節だというのに真っ黒なレザーのコートを着込んでいた。なかなかの偉丈夫で、目線はサングラス、顔の下半分は黒いマスクで覆っていた。そして不自然なほどに大きなバッグを持っていた。
 この季節に街をあるけば、十人中十人が振り返っただろう。
 男は雨に溶け込むように村に入ってきた。
 身体は雨に打たれるに任せていたらしい。服や髪の先から水がぽたぽた垂れていた。
「1週間ほど宿泊したい」男は機械的な、しかしよく通る声で言った。
 入蛇村唯一の宿泊施設。
 宿泊施設、といっても一階が定食屋になっている民宿のようなものだ。薄汚れて、定食の味はそこそこ。客足は少ない。
 しかし、「定食さがら」は、来る者を拒まない。
 店主は、その奇妙な偉丈夫を前にやや驚いたような表情を浮かべたが、すぐに宿泊者名簿を引っ張り出した。
「1週間?ええと、ここに名前を、住所も。あとは緊急連絡先。宿の決まり───は大してないけど、一応部屋の注意書きは見てよ。食事がいるときは朝のうちに言って」
 定食屋の店主は、クリップボードを指し示しながら間延びした調子で言うと、ペンと部屋の鍵を渡し、厨房に戻った。
 黒ずくめの男だけが、ぽつんと取り残された。
 男は、ボードの記入欄に「ハンター」とだけ記し、部屋のある二階へ上がっていった。
 男の歩いた後には、水滴が点々と垂れていた。


 頭の奥から響くような轟音で、木地雅哉は目を覚ました。
 いつの間にかうたた寝してしまっていたらしい。捜査資料を整理しながら腕時計を見ると、深夜12時を回っていた。
 小規模ながらも、これは凶悪殺人事件だ。蛇入村で唯一の宿泊施設「定食さがら」に部屋を借り、交代で村に残ることとなった。雅哉は、自ら志願した。
 もう少しで、何か思い出せそうなのだ。記憶の瘡蓋は既に血を流し、剥がれはじめている。
 この村で起きたこと。その全てを思い出せば───この事件にも身が入るはずだ。
 民宿の黴臭い布団を部屋の隅に追いやって、事件資料の中の、村の写真を眺め始めたのが10時の頃だ。それ程時間は経っていない。
 それにしても何の音だったのだろう。雅哉は、脱いでそのままにしていたシャツを引っ掛け、厨房へ向かった。
 厨房のある階下へ続く階段には、男がいた。
 男は夜だというのにサングラスを着けていた。じっとりと濡れた着衣からは、ぽたぽたと水が垂れていた。赤茶けたような髪だけが、若者らしい。
「なぁ、アンタ。さっきの音、何か知らないか?」
 男は返事すらしなかった。押し黙ったまま、階段の上に立つ雅哉の脇を通り過ぎ、自室へと向かったようだった。
 愛想の悪い野郎だ。それにしても───こんな時間に村へ来たのか?この雨の中?
 雅哉は、男が入った部屋を見ていた。
 ふいに、階下が騒がしくなった。
「刑事さん……!」定食屋の店主が、階段の下から顔を出した。普段は間の抜けたような話し方をする男だが、はっきりと切羽詰まったような響きが感じられた。
「どうかしましたか?」
「地滑りです!トンネルが塞がっちまって、パトカーが」
「何だって?パトカーがどうしたって?」
「そのまま、たぶんトンネルの中に」
 雅哉は雨の中へ飛び出した。
 村人が幾人も、懐中電灯を持って集まっているのが見える。
「トンネルはどうなっているんです!?」
 雅哉が大声で呼びかけると、村人の一人が大きく頭を振った。
「埋まってるよ、刑事さん。完全に」
 雨が轟々と降り続く。
「近くの家の奴が見てたんだ。パトカーがトンネルに入ってった直後にトンネルが崩れたってよ」
「危ねぇから今夜は近づかない方がいい」
 村人は、トンネルへ向かおうとする雅哉を押し留めた。
「離してくれ!」
「だめだだめだ。危ねぇし、今日は───」
 蛇が出るかもしれないからなぁ。