蛇婿入り(仮題)


蛇入村は、山麓の街から車で約3時間のところにある。それだけ聞くと秘境じみてはいるが、数を減らしているものの子供の姿もあり、住宅は案外現代的である。人口は200人程で安定している。ただ、歴史的建造物や、これといった名産品も無ければもちろんわざわざ訪れる人などいるはずもない。
 ほとんど真っ白に近いバスの時刻表を見て、佐藤湊は深々とため息をついた。街外れのバス停に屋根はなく、頭頂がじりじりと焦げた。日は傾きかけているがまだ充分に暑く、蝉の声すら聞こえない。
 入洲家の人間は、麓の街まで迎えを寄越すと言ってきたが、断っていた。よく知りもしない人間と2時間車で乗り合わせるなんてまっぴらご免だ。今晩は、この街に宿泊するしかないのかもしれない。
 湊は、地に置いていた鞄の土を払って背負い直した。
 そもそも、この帰郷───帰郷と言っていいのかもよく分らないが、これは不本意なものなのだから。
 つい一ヶ月程前のことだ。湊は母を亡くした。
 物心ついた頃から、母は身体が弱かった。出産の後遺症によるものだそうで、記憶の限りを遡っても、母は青ざめていて、この世の不幸を一心に背負った顔をしていた。それでも母は懸命に働き続け、湊を高校まで進学させた。
 たった一人でだ。
 母の口癖はこうだ。「一人で生きられるようにならなくちゃだめなんだから」
 父のことはよく知らない。
 母が父のことを話したがらなかったからだ。自分たちを捨てた父親のことだ。敢えて聞こうとも思わなかった。数少ない、母と親交のある大人も父のことは全く知らないと口を揃えて言っていた。
 母の最期は安らかだった。
 母は病人特有の潤んだ目で湊を見つめると、湊の手を幼児ほどの力で握り返した。
 身体にはじっとりと汗が纏わり付いているが、母の手の冷たい感触は、未だ手の中に残っているようだった。
「……佐藤、湊くん、ですよね」
 ふいに、静かな声が掛かった。
「私は入洲の者です。入洲双刃と申します」
 痩身の、目の覚めるような美しい青年だった。
 形の良い、薄い唇には微笑みが浮かべられていた。いくつか年上だろうか。ポロシャツにジーンズというラフな服装だったが、立ち姿には家柄の良さを感じさせるような気品があった。
 湊が軽く頷くと、双刃は顔をほころばせた。
 彼が、入洲家の迎えなのだろう。
 入洲家は、母の葬式の後すぐに代理人を通して連絡を取ってきた。父方の親族を名乗り、もし身を寄せるところがないのであれば是非力になりたいと言っていた。
 父については、顔も、名前すら知らない。母は父のことなど一度も口にしたことはなかった。そんな父の親族を信頼してよいものか───しかし、身を寄せるところがないこともまた事実だった。
 結局、この高校生活最後の夏休みを利用して、一度入洲の邸宅のある地へと赴く運びとなった。
「街から村へのバスは3時で終わりなんですよ」双刃は言った。
「車を待たせてありますから、参りましょう。さ、荷物を」双刃は、優しく、しかし拒否する余地も無く荷物を湊の手から取り上げた。
 じりじりとした日差しは、赤い夕焼けにかわり始めた。
 先導していた双刃が、急に湊を振り返った。
 鼻先がぶつかりそうになって、湊はあわてて身を引いた。
 しかし、双刃は更に踏み込んできた。
 互いの息が掛かりそうな程間近で、二刃は湊の顔を覗き込んだ。
 双刃の黒ぐろとした瞳に、睫毛がくっきり影を落としているのが見えた。
「あの、なんですか」
 じわじわ汗が滲んだ。
「いいえ──すみません」双刃は言った。「お母様のこと、お悔やみ申し上げます」
「……ありがとうございます」
 俄に蝉が鳴き出した。

「入蛇村、なんて変な名前でしょう?」双刃が言った。
 やや黴臭いエアコンの効いた車内からは、青々とした常緑樹が光を閉ざすように山道に覆いかぶさっているのが見える。蛇のように曲がり、うねった道を、かれこれ一時間ほど走っていた。
 運転手は、湊に簡単に挨拶した後は、むっつりと押し黙って運転していた。
「入蛇村には、蛇婿入りの伝承が残されているんですよ」
「蛇?」
 湊は双刃を横目で観察した。双刃は、窓枠に腕を載せ、シートに深くもたれていた。
 遠くの景色でも眺めているように虚ろで、脱力していた。彼は大学生らしい。役にも立たない学問をしている、と自嘲気味に語っていた。
「まだ入蛇村なんて名前すら無かった頃の話です───」双刃は話し続けた。
 まだ、「入蛇村」が「入蛇村」ではなかった頃。その村には、非常に美しい娘がいた。
 娘には、ありとあらゆる男が結婚を申し込んだが、娘はけして受け入れようとはしなかった。
 不審に思った娘の親が、娘の部屋の近くで寝ずの番をしていると、娘のもとに通ってくる男がいることがわかった。男はたいそう美しかったという。
 魔性のものに違いない。
 親が男のあとをつけたところ、男は案の定、蛇に変化した。親は、その魔性のものを、すぐさま打ち殺した。
 そして親は、あの手この手で娘の子を堕ろそうとしたが、娘はけして譲らず蛇との間の子を生んだ。
「それが───私たち入洲の祖と言い伝えられているんです」
「蛇の、子孫?」
「そう」双刃はうっそりと笑った。
 伝承のなかの蛇の男も、きっとこんな男だったのだろう。湊は思った。
「双刃様」運転手が嗄れ声で口を挟んだ。「そんなことおっしゃっては、湊様が怖がるのでは」運転手は、厳かな口調で双刃を諌めた。
「いずれ村の誰かから聞くことですから」双刃は至極真面目な調子で言った。

 入洲大義の邸宅───即ち入洲本家は、入蛇村の最奥に存在する。
 山々を背に、質実な純和風の日本家屋は,どっしりと構えている。現代家屋も少なくない入蛇村において、入洲本家はその空間だけが旧時代に取り残されたかのようだった。
「滞在の間は、本家の離れを使ってください」双葉は、勝手知ったる様子で本家を案内した。母屋は薄暗く、湿った木の匂いがした。
「私は大義様のお世話を仰せつかっておりますから、毎朝本家に参ります。御用の際には、なんなりと」
「はい、ありがとうございます」
「……そんなに畏まらないでください」双刃はくすりと笑った。
「それを言ったら、その、双刃さんだってそんなに畏まらないでくださいよ。俺より年上でしょう?」
「そうですが……湊くんは御本家の御子息ですから。いずれは、この入洲のご当主となる方ですし」
 随分と時代錯誤だが、田舎はこんなものなんだろうか。
 離れは、こじんまりとしていて、居心地がよさそうだった。中庭には樹形の整えられた松の木と石灯籠、白い砂利が敷き詰められ、草一本なく整えられていた。
「そのことなんですが、俺はここにずっと居るつもりはありませんよ、申し訳ないですけど」
「ここは辺鄙だけれど、良いところですよ」
「でも───」
 双刃は、湊の口元にそっと手を押し当てて言葉を遮った。
「大義様のお屋敷で、そのようなお話はやめてください」ぞっとするような口調だった。双刃は周囲を軽く見回すと、声を潜めて続けた。「明日、大義様のお加減がよろしければお会いできるでしょう」
「……その大義様っていうのは、俺の」
「そう。湊くん。あなたのお祖父様に当たります。きっと、お喜びになられますよ」
「そうですかね」
「私も、嬉しいんですよ湊くん。湊くんが村に帰ってきてくれて」双刃は微笑んだ。
「ずっと会ってみたかった」
「俺のことを知っていたんですか?」
「いいえ。でも、あなたのお父様とお母様のことは知っていました。特にお母様は、まだ幼かった私とよく遊んでくださったので」
「母が?」
「……私のこと、お話になったりしませんでしたか?」
「いえ、別に」
 双刃は僅かに落胆したような表情を浮かべたが、すぐにいつもの柔らかな笑みに戻った。
「今日の所はお部屋でゆっくりお休みください。夕食は部屋まで運ばせますから」
 双刃がいなくなると、離れはしんと静まりかえった。
 解放された縁側の窓からは、山の香りを含んだ、ほんのりと冷ややかな風が吹き込んでくる。とっぷりと日が暮れたにも関わらず、縁側から中庭を挟んだ母屋は暗く、まるで誰も住んでいないかのようだった。
 そのまま母屋をぼんやりと眺めていると、ふいに、縁側から見える母屋の廊下に白い明かりが灯った。
 湊は目を凝らした。
 ぼう、と光は浮かんでいた。
 その明かりは、ちょうど人が歩くくらいのスピードでゆったりと廊下を横切った。その明かりの中に、ほのかに横顔の輪郭が照らし出された。
 双刃ではない。
 双刃も髪は長かったが、髪を結ってはいなかった。
 その明かりは、湊の姿をみとめたように止まった後、もときたように廊下を戻っていった。
「湊くん?どうかしましたか?」
「双刃さん!?どこから……」突然背後からかけられた声に、湊は驚いた。
 双刃は、料理の載った大きな盆を手に、離れと母屋をつなぐ扉から入ってきた。
「厨房から離れまでは、母屋の中を通るより外を回った方が近いんですよ」双刃はいたずらっぽく笑った。
「お口に合うといいんですけど」双刃は、タマネギのサラダと、しょうが焼きとキャベツの千切り、米と味噌汁を手際よく座敷のちゃぶ台に並べた。
 二人分の用意がされていた。

「……あの、さっき誰か母屋の廊下を通りませんでしたか?双刃さんがここに夕飯を運んできた頃」
 湊はしょうが焼きを頬張った。
 やや甘めの味付けだが、生姜がぴりりと香る。湊は、ほんのり懐かしさを感じた。母が作ってくれたしょうが焼きも、入れすぎなくらい生姜の匂いがした。
「……誰でしょうね」双刃は顎に手をあてて小首を傾げた。
「稲荷かもしれませんね……本家にお仕えしている執事のような者です。少し偏屈な人なので、直接会うことはないと思いますけど」
「この家には、僕のお祖父さんとその執事さんだけが暮らしているんですか?」
「ええ。でも、力仕事や掃除のために私もよく来ますから。そう不安がらなくても大丈夫ですよ」
 双刃は華奢で生白い腕で力こぶを作るような身振りをした。そんな細い腕で何の力仕事をするというのか。
 湊がぼんやりと双刃を眺めていると、双刃は微笑んだ。
 まさしく「花の咲くような」笑みだ。
「あ、お、お料理、上手ですね」湊は、見蕩れていたことが悟られぬよう慌てて取り繕った。
「ありがとうございます」双刃は、再び花のような笑顔を浮かべた。「たくさん食べてくださいね、成長期なんですから」
 また、あの笑顔だ。
 ───結局、いつもより余計に食べてしまった。
 湊は、風呂上がりの髪をタオルで乱雑に拭いながら縁側に出た。離れにも小さな風呂がついている。今まで暮らしてきた安普請に比べれば、天国のようだ。
 昼間の暑さが嘘のように冷え込んでいて、浴衣では肌寒いくらいだった。
 浴衣を着るなんて、母の友人家族と旅行にいったとき以来だろう。あの頃は、母もまだ元気だった。
 相変わらず顔は青ざめていたように覚えているが、母の最期の日々を思うと、あの頃の母は幸せそうに見える。
 双刃は、夕食が済むと、「また明日」と言い残して去って行った。
 湊は目を瞬かせた。
 長旅の疲れもあってか、強烈に眠たい。立っていられないほどだ。
 布団が敷かれている床の間がやけに遠く感じる。
 もうすぐそこだというのに。
 倒れ込むと、頬に柔らかな布団が触れた。