視える系男子・古屋和弥は解かれたい

 そうしてひとりの世界に籠っていたというのに、予鈴が鳴った後に再び声をかけられた。
「和弥くん、大丈夫?」
 おずおずと顔を上げると、次は見知った人だった。
「豊橋」
 隣の席に座るその人物の名前を呼ぶと、彼は「陸人でいいよ」とくしゃりと笑った。
 彼は俺のような人間にも気さくに声をかけてくれる良い人だ。
 彼が笑うと、髪がさらりと揺れる。

 彼はちょっとだけ真面目な顔を作ると、俺の方に身を寄せて声を落とした。
「万理くんってちょっと変わっているよね? なにか変なこと言われなかった?」

 ――変わっている。
 その言葉が自分に向けられているわけではないとわかっていても、どきりとしてしまう。

 俺は平静を装って尋ねる。
「変わってるって?」
「知らない? 去年、うちの学校にジェンダーレス制服として女子用のズボンの制服が導入されたよね? そのときに『男子用にスカートも導入しないと平等じゃない』って大騒ぎして職員室にスカートを履いて抗議しに行った人。それが万理くんだよ」
「へ、へぇ」
 チラと安城を盗み見る。離れたところの席に彼は背筋を伸ばして座り、次の英語の授業の予習をはじめている。
「女の子っぽくないけど、そうなんだ?」
「万理くんがそういうわけじゃなくて、ただ平等じゃないから嫌なんだって」
 ジェンダーレス制服なるものが導入されたことも、そんな抗議をした人物がいたことも初耳であるが、ここは「それはかなりの変人だな」と相槌を打つ場面だろうかと思案する。

 しかし答えが出る前に、陸人の髪がまたさらりと揺れた。
「でも、万理くんは今年生徒会役員にもなっていてね、カーディガンの色指定を撤廃する活動しているから、頼りになる人だと思うよ。実現したら、今年の冬はベージュのカーディガンを買うんだ」
「へぇ……」
 俺たちの高校の制服は女子はセーラー服で男子は学ランだ。カーディガンと靴下は黒のみ許可されている。
 陸人くんはいま大きめの黒のカーディガンを着ているが、これがベージュになったら、きっと彼のふんわりとした雰囲気によくあうだろう。

 陸人は首を傾げた。
「それで? 万理くんとなんの話をしていたの?」
 彼はよほど俺と万理くんの会話の内容を知りたいらしい。
 隠し立てをするようなこともないので、俺は正直に言う。
 明日のロングホームルームで体育祭の種目を決めること、明日俺が休んだ時のために希望を聞きに来てくれたこと、もし他の生徒と希望が被ったら彼が代わりにじゃんけんをしてくれること。
 こうして話してみるとふつうのことのようにも思えた。
 彼はおそらく熱心な学級委員長で、俺は休みがちな生徒なのだから。
 ひと通り話を聞いた後、陸人は顎に手を当ててじっと考え込んでいる。なにか俺の説明に妙なところがあっただろうか。

 たっぷり数十秒後、彼はやっと口を開いた。
「ねえ、さっき万理くんにセミちゃんって呼ばれてなかった?」
「そういえば、そうだったな。気にしてなかったけど」
「なんで?」
「さぁ。さっきはじめて喋ったんだよ。もしかしたら、俺の名前を知らないのかも」
「……やっぱり、万理くんって変な人だね」
 ――変な人。
口ではそう言いつつも、その声音がなんだか妙に柔らかい気がして、俺は首を傾げた。



 そんなやりとりがあった翌日、6月7日土曜日。俺たちの学校では土曜日は半日授業になっている。
 俺はいつも通り、始発に乗って学校にやってきた。帰宅部の生徒としてはかなり早い時間であるが、俺にとってはいつもの時間だった。俺は登校する姿を誰にも見られないようにしているのだ。
 時刻は6時30分だ。6月の早朝の風はひんやりとしている。
 米屋の角を右に曲がると、西門が見える。
 でも、俺の足はもう西門には向かわなかった。
 体が硬直して、その場から動けなかったのだ。
 校門の鉄格子越し、まっすぐに伸びた道の先に黒い靄が見えた。
 ――そこでは、5人の生徒が死んでいる。

 その場所から立ち上る、黒い靄。
 俺はじり、と一歩後退する。
 靄は薄暗い夜明けの中、少しずつ形になっていく。
 ぼんやりとした灰色が重なり、重なり、そしてそれはついに静謐な黒になって輪郭が現れる。
 ――今日は、左手だ。
 地面から生えた、巨大な左手。5本の指の先には鋭く尖った爪を持っている。そして手のひらにあたる部分には、切れ目がふたつある。
 ひとつは瞼、ひとつは唇だ。
 瞼がゆっくりと開く。こぼれ落ちそうなほど大きな目玉が露出する。
 その水晶体がぐるりと回ってこちらに向けられ――。

 俺は弾かれたようにその場に背を向けて走り出した。