視える系男子・古屋和弥は解かれたい

「はぁっ……はぁ……っ……はぁっ!」
 8月15日。
 その日、俺は走っていた。

 というか、12日から毎日走っている。今日で4日目だ。ひとまず、三日坊主は免れたわけだ。
 こうして走っている理由は、体育祭でリレーのアンカーを任されたから、というわけでは、もちろんない。
 母の助言に、陸人の行動。
 これらを踏まえて、なにも思わないほど俺は鈍感ではない。

 家の周りを3周走ったところで、ストップウォッチを止める。
「よしっ」
 ガッツポーズを決める。
 昨日よりタイムが縮んでいる。いい感じだ。
 俺は体を鍛えるために走っているのだ。
 俺は決意を固めていた。
 ――安城を助ける、と。
 それも、理論や法則など関係ないもっとも原始的な方法で。
 俺は頬を叩いた。
 8月の太陽は、容赦なく照り付けているが、そんなもの、いまの俺には熱くもかゆくもない。
 俺はまた走り出した。

*

 お盆休みが明けた17日。
 カウントダウン通りなら、安城に危機が訪れる2日前だ。
 俺が補習の続きを受けに学校に行くと、相変わらず安城も学校にやってきていた。
 彼はどうせろくでもないことをしているに決まっているが、ひとまず昼休みに様子だけ確認しに行く。

 俺が数学準備室に顔を出すと、安城は眉を跳ね上げた。
「古屋、か?」
「そうだけど?」
「なんだ、そんなに焼けて」
 俺は何事もなさそうに言う。
「ちょっと、ランニングはじめてさ」
「ほどほどにしておいたほうがいいぞ。日焼けは厳密に言うなら火傷だ」
「そうなんだ」
「日焼け止めくらい塗ったらどうだ」
「今度からそうするよ」
 適当に返事をしながら、ちらと安城の後ろをうかがう。

 悪霊は、相変わらず安城を一心に見つめている。
 そしてその手は“2”を示している。
 まるでちょうどピースサインをしているかのようだ。
 俺は唾をごくりと飲み込んだ。

 安城はそんな俺を見て、頬杖をつく。
「何を視ているんだ?」
「え」
「何をこそこそと視ているのか、と聞いているんだ」
「こ、こそこそ、視て、ないけど……?」
「なら堂々としたらどうだ?」
「う、うん」
 安城は俺をじっと見ている。

 俺は背中に冷たいものが流れるのを感じながら、ぐっと背筋を伸ばした。
「安城はさ、ええと、その……」
「なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」
 何かを言おうとして、ぐるぐる回って、結局出てきたのは変な質問だった。
「利き腕、どっち?」
 安城は顔をしかめながらも、答えてくれる。
「……右だが」
「なら、左側は多少はしょうがないって思ってくれるか?」
「……なんの話だ?」
 俺は拳を握る。
「だから、もしその、なにか落ちてきたり車が突っ込んできたら……俺が突き飛ばしてやるよ。そのとき、利き手側を助けるようにする」
 安城は目を眇める。
「できれば無傷で頼みたいところだ」
「それは無理だと思う」

 俺は安城の隣の席に座る。
 彼は今日もまだ反省文という名の抗議文を書いているようだ。
 その抗議文はぱっと見ただけでも相当な厚さになっている。
 いよいよ、先生たちは大変そうだ。

「そういえば、安城って19日空いてる?」
「なんだ」
「俺といっしょに出掛けようよ。18日からうちに泊まってもいいよ」
 19日はなるべくいっしょにいた方がいいだろう。
 しかし、安城は首を横に振る。
「断る。同好会活動で忙しい」
「なら、その日、同好会活動見学させてよ」
 安城は目を眇める。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「ちょっと、そういう気分になったんだよ」
「なにを企んでいる」
「なにも」
「嘘を言え。なんなら、いまから本気で調べて推理してやろうか。めんどうだか、こうしてそわそわされるのも不快だ」
「うっ……」
 不快、とまで言われてしまって、俺は白旗をあげた。
 そもそも、もう俺の腹は決まっているわけだから、安城にも知っておいてもらったほうがいい。

 俺は弱弱しく言う。
「悪霊が、いるんだよね……」
「どこに」
「安城の、後ろに……」
 安城は動揺しなかった。
「それで?」
「……それでって……」
「それで、それがなんだというんだ?」
「その、なんていうか……俺、この悪霊昔も視たことあって……カウントダウンをする悪霊なんだよ。最初は両手を広げてて、次は9、そして8って感じで……カウントダウンが0になったら……憑いてる人物を怪我させるんだ」
 つかえながら説明する。
 安城は腕を組んで、まるで他人事のように言う。
「それで、カウントダウンが0になるのが19日、ということか?」
「……うん」
 安城は目を閉じる。

 何かを考えているようだ。
 8月。
 教室は蒸し暑い。
 汗が瞳に入る。
 俺はそれを乱暴に拭った。

「黙ってて、ごめん」
 俺が言うと、安城はやっと目を開いた。
「まったくだ。そんな重大なこと、なぜすぐに言わない」
「だって……言われて気持ちのいいことではないだろうし」
「言われないのも気分が悪い」
「そ……そうだよね……ごめん」
「そもそも、それを聞いて、この僕が怯えるとでも思ったのか?」
「……ごめん。その、俺とお前の間にも、秘密のひとつやふたつ、あってもいいかなって」
 安城はため息をつく。
「なんだ、それは」
「うちの家訓。知ってるだろ」
「改めて、ろくでもない家訓だな」
 遠慮のない言葉に、俺は苦笑した。

 安城は顎を撫でながら「うんうん」と何度か頷いている。
 俺はおずおずと尋ねる。
「その……なにか、その、この悪霊のカウントダウンと止める方法は、ある?」
 安城は即答する。
「ない」
「え」
 彼は右手を開いたり閉じたりする。
「幸いなのは、殺すような悪霊ではないことと、テストが終わったところという点だな。利き腕が折れても、まぁ、次のテストまでには治るだろう」
 安城は、もう覚悟を決めているようだった。

 俺は言う。
「安城」
「なんだ」
「俺、最近、体を鍛えてるんだ」
「だからなんだ」
「お前のことは、俺が守ってやるからな」
「……気味が悪いことを言うな」
「う、でも、それしかないだろ、この場合」

 俺が言うと、安城はぶつぶつと何か独り言をいいはじめる。
 短い付き合いだが、こういうときの彼は放っておいた方がいい。
 俺はじっと彼が結論を出すのを待った。
 彼は教室の中をうろうろしたあと、ぱっと顔を上げた。

「それで?」
「え?」
「どうやって鍛えているんだ? 僕もいっしょにやろう」
「へ」
 安城はため息をつく。
「それしかない。悔しいが。この僕も直々にトレーニングとやらをしてやろうじゃないか」
「……直々じゃないトレーニングなんてないだろ」
「君に揚げ足を取られるのはこの上なく不快だ」
 安城は俺の隣に座る。
「それで、なにをするんだ」
「ええと、とりあえず筋トレしてそれから走ってる……」
「君は馬鹿か」
「有酸素運動は無酸素運動のあとにやらないと効果が最大化しないぞ」
「うわ、厄介なやつとトレーニングすることになったな」
 俺は口ではそう言いつつ、頬が緩んでいくのを感じた。