俺は安城に引かれた右手がやけに気になった。
握り返していいものか、それともこのままがいいものか。
そんなことをぼんやりと考えていると、国道の信号を渡ったところで、安城が俺の頬をひっぱたいた。
「痛!? ちょ、なんで叩くんだよ!」
俺は抗議するが、安城は表情を変えない。
彼は彼自身につけた耳栓と俺の耳栓をひったくるように外すと、珍しく語気を荒らげた。
「感謝の言葉があってもいいくらいだ!」
俺は目を瞬かせたあと、じんじんと痛む頬を抑えた。
ええと、俺はさっき確か……そうだ、あの悪霊が出す音を聞いて……。
たっぷり考えたあと、俺は感謝の言葉を述べた。
「ありがとう。正気に戻ったよ……そっか、やっぱり、そうやって人間を呼ぶんだ」
「まったく……馬鹿な検証だ」
「でも、おかげで俺の仮説が当たってたってことがわかった」
「……ふん」
俺が立てた仮説はこうだ。
あの悪霊は顔の中央に開いた穴に風が通り抜けることで“音”を生み出す。
その“音”は人間を誘引する。
しかし、“音”自体はとても不安定で、風向きや強さによって途絶えることが多い。
音が途絶えずに続いた場合にのみ、人間は屋上へ到着し、そして転落する――まるで、人魚に魅入られたように。
安城は手の中で耳栓を転がす。
「まさか……こんなもので悪霊が生み出す“音”を遮断できるとは……」
「まぁ、そこは俺も賭けだったんだけどね。犠牲者が客ばかりなのが変だと思ってさ。音に反応するなら、ずっといるはずの店員が一番反応しないとおかしいのにって思って……それで」
ショッピングモールの店員はみなインカムをつけていた。
それで、耳栓などをつけていたら音に対抗できるのではないかと思ったのだ。
「予想通りだったね」
あのとき、安城に耳栓をつけられた途端、世界は正常に戻った。
安城は眉根を寄せる。
「こっちは、ひやひやしたが」
「はは。今日は珍しい安城をいっぱい見られたね」
朝早くから吹いていた北風はもう止んでいた。
天気予報を信じるのならば、今日はもうあの“音”は鳴らないはずだ。
「ところで、この勝負、俺が悪霊の殺し方に気が付いたわけだし、俺の勝ちでいいよね?」
俺がそう言うと、安城は肩をすくめた。
「不正をしてまで勝利がほしいのか?」
「不正なんてしてないよ」
「いいか、僕が君から得た情報はここに書かれた3点だけだ」
安城はずいっとルーズリーフを俺の鼻先に差し出す。
そこには安城の几帳面な字でこう書かれている。
・スーツを着た男の姿。
・屋上駐車場の北側の角、フェンスの外側で北を向いて立っている。
・少なくとも1時間にわたって動く姿は観察できない。
「ここには悪霊の頭の形状について書かれていない。つまり、僕は情報が足りていなかった。君に情報を操作されていた。これを不正と言わずなんと言う?」
俺は憤慨した。
「なっ……! それを言うなら、安城だって、隠し事してただろ!」
「隠し事?」
「おじいさんのことだよ!」
「犠牲者が僕の祖父であるという情報が、この怪異の解決とどう関係しているんだ?」
俺は目を眇める。
「うっ……ほんとうに嫌な奴……!」
「なんとでも言え。とにかく、これはまたしても君の不正であって、僕の負けではない」
「安城はもう解く気なかったくせにさ」
「黙りたまえ」
安城は芝居がかった動作で手をぽんと叩く。
「僕はこの怪異の解決方法を知っているぞ」
「へ?」
「このショッピングモールは、3か月後には取り壊し予定だ」
俺は目を丸くした。
「な、なんで?」
「あちこちに閉店セールと書いてあっただろうが」
「そんなの、年中やってる店もあるだろ……!」
「どんな店で普段買い物をしているんだ、君は」
安城に呆れられて、俺は黙る。
安城はさらに続ける。
「取り壊したあとは大規模駐車場か、メガソーラーか、とにかくショッピングモールにはならない。――もうあの悪霊はここで人を誘って転落死させることはできない」
安城は鼻を鳴らす。
「これは、僕の勝ちかもしれないな?」
俺は食い下がる。
「なに言ってんだよ。俺のおかげだろ」
「僕が君の耳に耳栓をしてやらなければ、いまごろ君は死んでいた」
「俺、お前のおじいさんの死因を明らかにしたんだよ」
俺たちはにらみ合った後、同時に噴き出した。
「引き分けだ」
安城がそう言うので、俺も頷く。
「仕方ないから、そういうことにしておいてやるよ」
俺が言うと、安城は大きく息を吐いた。
「祖父のときもそうだった」
「なに?」
「こういう、くだらない言いあいの果てに……」
安城は言葉を切る。
彼は少しため息をついたあと、胸を張った。
「こういうときは、そうだな。――ありがとう。これでいいんだろう」
俺はまた目を丸くした。今度は、目玉が落ちるのではないかと思うくらいに。
「安城が、人に感謝した」
「君は人をなんだと思っているんだ。感謝するべきところには感謝する。当たり前のことだろう」
「そ、そっか……じゃあ、どういたしまして、で、いいのかな。たぶん」
「なぜ、だぶんなんだ」
「俺、ほら、友達少ないからさ」
「ああ、それは納得の理由だ」
「うるさいなぁ」
そんなくだらない言い合いをしながら、俺たちは帰りのバスを待った。
安城が、少しだけ近くなった気がした。
それが、たまらなくうれしい。
握り返していいものか、それともこのままがいいものか。
そんなことをぼんやりと考えていると、国道の信号を渡ったところで、安城が俺の頬をひっぱたいた。
「痛!? ちょ、なんで叩くんだよ!」
俺は抗議するが、安城は表情を変えない。
彼は彼自身につけた耳栓と俺の耳栓をひったくるように外すと、珍しく語気を荒らげた。
「感謝の言葉があってもいいくらいだ!」
俺は目を瞬かせたあと、じんじんと痛む頬を抑えた。
ええと、俺はさっき確か……そうだ、あの悪霊が出す音を聞いて……。
たっぷり考えたあと、俺は感謝の言葉を述べた。
「ありがとう。正気に戻ったよ……そっか、やっぱり、そうやって人間を呼ぶんだ」
「まったく……馬鹿な検証だ」
「でも、おかげで俺の仮説が当たってたってことがわかった」
「……ふん」
俺が立てた仮説はこうだ。
あの悪霊は顔の中央に開いた穴に風が通り抜けることで“音”を生み出す。
その“音”は人間を誘引する。
しかし、“音”自体はとても不安定で、風向きや強さによって途絶えることが多い。
音が途絶えずに続いた場合にのみ、人間は屋上へ到着し、そして転落する――まるで、人魚に魅入られたように。
安城は手の中で耳栓を転がす。
「まさか……こんなもので悪霊が生み出す“音”を遮断できるとは……」
「まぁ、そこは俺も賭けだったんだけどね。犠牲者が客ばかりなのが変だと思ってさ。音に反応するなら、ずっといるはずの店員が一番反応しないとおかしいのにって思って……それで」
ショッピングモールの店員はみなインカムをつけていた。
それで、耳栓などをつけていたら音に対抗できるのではないかと思ったのだ。
「予想通りだったね」
あのとき、安城に耳栓をつけられた途端、世界は正常に戻った。
安城は眉根を寄せる。
「こっちは、ひやひやしたが」
「はは。今日は珍しい安城をいっぱい見られたね」
朝早くから吹いていた北風はもう止んでいた。
天気予報を信じるのならば、今日はもうあの“音”は鳴らないはずだ。
「ところで、この勝負、俺が悪霊の殺し方に気が付いたわけだし、俺の勝ちでいいよね?」
俺がそう言うと、安城は肩をすくめた。
「不正をしてまで勝利がほしいのか?」
「不正なんてしてないよ」
「いいか、僕が君から得た情報はここに書かれた3点だけだ」
安城はずいっとルーズリーフを俺の鼻先に差し出す。
そこには安城の几帳面な字でこう書かれている。
・スーツを着た男の姿。
・屋上駐車場の北側の角、フェンスの外側で北を向いて立っている。
・少なくとも1時間にわたって動く姿は観察できない。
「ここには悪霊の頭の形状について書かれていない。つまり、僕は情報が足りていなかった。君に情報を操作されていた。これを不正と言わずなんと言う?」
俺は憤慨した。
「なっ……! それを言うなら、安城だって、隠し事してただろ!」
「隠し事?」
「おじいさんのことだよ!」
「犠牲者が僕の祖父であるという情報が、この怪異の解決とどう関係しているんだ?」
俺は目を眇める。
「うっ……ほんとうに嫌な奴……!」
「なんとでも言え。とにかく、これはまたしても君の不正であって、僕の負けではない」
「安城はもう解く気なかったくせにさ」
「黙りたまえ」
安城は芝居がかった動作で手をぽんと叩く。
「僕はこの怪異の解決方法を知っているぞ」
「へ?」
「このショッピングモールは、3か月後には取り壊し予定だ」
俺は目を丸くした。
「な、なんで?」
「あちこちに閉店セールと書いてあっただろうが」
「そんなの、年中やってる店もあるだろ……!」
「どんな店で普段買い物をしているんだ、君は」
安城に呆れられて、俺は黙る。
安城はさらに続ける。
「取り壊したあとは大規模駐車場か、メガソーラーか、とにかくショッピングモールにはならない。――もうあの悪霊はここで人を誘って転落死させることはできない」
安城は鼻を鳴らす。
「これは、僕の勝ちかもしれないな?」
俺は食い下がる。
「なに言ってんだよ。俺のおかげだろ」
「僕が君の耳に耳栓をしてやらなければ、いまごろ君は死んでいた」
「俺、お前のおじいさんの死因を明らかにしたんだよ」
俺たちはにらみ合った後、同時に噴き出した。
「引き分けだ」
安城がそう言うので、俺も頷く。
「仕方ないから、そういうことにしておいてやるよ」
俺が言うと、安城は大きく息を吐いた。
「祖父のときもそうだった」
「なに?」
「こういう、くだらない言いあいの果てに……」
安城は言葉を切る。
彼は少しため息をついたあと、胸を張った。
「こういうときは、そうだな。――ありがとう。これでいいんだろう」
俺はまた目を丸くした。今度は、目玉が落ちるのではないかと思うくらいに。
「安城が、人に感謝した」
「君は人をなんだと思っているんだ。感謝するべきところには感謝する。当たり前のことだろう」
「そ、そっか……じゃあ、どういたしまして、で、いいのかな。たぶん」
「なぜ、だぶんなんだ」
「俺、ほら、友達少ないからさ」
「ああ、それは納得の理由だ」
「うるさいなぁ」
そんなくだらない言い合いをしながら、俺たちは帰りのバスを待った。
安城が、少しだけ近くなった気がした。
それが、たまらなくうれしい。
