夜11時を過ぎたころ、俺はひそかにマンションの部屋を出た。
それと同時にポケットの中のスマートフォンから着信音が鳴り響いた。
液晶には安城万理の表示。
「え、あ、安城?」
電話に出ると、安城は挨拶もなしに言う。
『いま下にいる』
「は?」
『いま、君のマンションの下にいる』
慌ててエントランスの外に出ると、大きなリュックを背負った安城が腕を組んで立っていた。
「なんで俺の家の場所を知ってるんだよ……」
俺は呆然と言うが、彼は平然としている。
「職員室の個人情報が挟まっているファイルを少々」
「……やってんなぁ」
安城は悪びれもせずに肩をすくめる。
「それで、なにをしている? ホテルに行かないのか?」
「母さんが帰ってきてるんだよ」
「だからなんだ?」
「母さんに悪霊の話はできないよ」
安城は目をすがめる。
彼の言いたいことはわかる。
しかし――。
「でも、これが俺の家族なんだよ。秘密をひとつふたつ抱えてる。おあいこってやつ」
夜空には星が見えた。
夜風は涼しく、心地いい。
母が俺のことを気にかけてくれていたことを知った。
そして、俺自身が意外とこの家を気に入っていることにも気が付けた。
――いい夜だ。
俺は覚悟を決めていた。
安城はふっと笑った。
「そうなると予想していた」
「は」
「君は意気地なしだからな」
「だ、誰が意気地なしだ」
安城は俺の抗議を無視してリュックから赤いものを取り出した。
「それで、これを持って来てやったぞ」
それは消火器だった。
「……どこから持って来たんだよ」
「体育館だ」
「盗んで……?」
「借りて来た。防犯カメラの死角に置く方が悪い。もし君の家が火事になったら、多少の時間は稼げる」
なんというか。
盗んでくるな、とか。
なにを考えているんだ、とか。
いろいろ言いたいことはあるが。
「……なんで、俺のために、そんな……」
結局、彼を責める言葉は出てこなかった。
彼は腰に手を当てて胸を張る。
「君はもう我が同好会のメンバーだ。そしてメンバーを守るのは僕の仕事だ」
「……そうですか」
呆れて、もう何も言えなかった。
俺と安城はエレベーターに乗って5階の通路に立った。
「ここで待機するのか?」
「うん……うまくいけば、その、なんとかなるはず」
悪霊はエレベーター横の階段から登ってくるはずだ。
それからしばらく、沈黙したまま過ごした。
俺は何度も時計を見た。
時計が11時57分を指したとき、俺は小さく息を吐いた。
「安城……」
「来たのか?」
「うん……」
俺は階段を凝視する。
異形のそれが階段の下に見えた。それは一歩ずつ階段を上り、近づいてくる。
「安城」
「なんだ」
「俺の予想を聞いてくれる?」
黙っているのが難しかった。何かを話していたかった。
「いいだろう」
何も見えない安城は冷静なままだ。
俺は顔を伏せて胸を押さえる。
心臓が痛い。
呼吸を整えながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「マンションの入り口をスタートにして、次が1つ隣で101号室、次が2つ隣で102号室って怪異が起きているんだけど、フィボナッチ数列として見るにはひとつ足りない」
俺はゆっくりと深呼吸をする。
「初項が足りていない。フィボナッチ数列は、1、1、2、3と続くんだろ。1が1回足りてない」
「……それは僕も気が付いていた。言ったはずだ。この推理には破綻箇所がひとつある、と」
「エレベーターだよ」
「なんだって?」
「マンションの入り口をスタートにして、1つ隣でエレベーター、1つ隣で101号室って続いていたんだ。――エレベーターが壊れたのは、最初の怪異だったんだよ」
安城は眉をひそめた。
「エレベーターを一部屋として悪霊が反応しているということか?」
「うん」
「それはありえない。それなら、他の階でもエレベーターの前で立ち止まるはずだ」
「それは……その、たぶん……故障していたから。扉の中に、ちゃんと人が入れる空間がないと部屋として認識しないんだよ」
顔を上げて、拳を握りしめる。
エレベーターは、さっき俺たちが使ったときのまま、5階に停止している。
階段を使って上がってきた悪霊を見据える。
汗が伝う。
それが5階に足を踏み入れる。
祈るような気持ちでその移動を見守る。
それがエレベーターの前に立つ。
俺は息を飲む。
時間が止まった気がした。
安城が俺になにかを反論しようと息を吸う気配。
しかし、それが声になるより前に、悪霊がエレベーターの扉に手を伸ばした。
その瞬間、ぎ、と鈍い音が鳴った。
エレベーターの箱が、ありえない方向に歪む。
足の力が抜けた。
(これで、俺の家は――)
圧縮されたそれが、目の前で轟音とともに落ちていった。
時刻はちょうど0時だった。
それと同時にポケットの中のスマートフォンから着信音が鳴り響いた。
液晶には安城万理の表示。
「え、あ、安城?」
電話に出ると、安城は挨拶もなしに言う。
『いま下にいる』
「は?」
『いま、君のマンションの下にいる』
慌ててエントランスの外に出ると、大きなリュックを背負った安城が腕を組んで立っていた。
「なんで俺の家の場所を知ってるんだよ……」
俺は呆然と言うが、彼は平然としている。
「職員室の個人情報が挟まっているファイルを少々」
「……やってんなぁ」
安城は悪びれもせずに肩をすくめる。
「それで、なにをしている? ホテルに行かないのか?」
「母さんが帰ってきてるんだよ」
「だからなんだ?」
「母さんに悪霊の話はできないよ」
安城は目をすがめる。
彼の言いたいことはわかる。
しかし――。
「でも、これが俺の家族なんだよ。秘密をひとつふたつ抱えてる。おあいこってやつ」
夜空には星が見えた。
夜風は涼しく、心地いい。
母が俺のことを気にかけてくれていたことを知った。
そして、俺自身が意外とこの家を気に入っていることにも気が付けた。
――いい夜だ。
俺は覚悟を決めていた。
安城はふっと笑った。
「そうなると予想していた」
「は」
「君は意気地なしだからな」
「だ、誰が意気地なしだ」
安城は俺の抗議を無視してリュックから赤いものを取り出した。
「それで、これを持って来てやったぞ」
それは消火器だった。
「……どこから持って来たんだよ」
「体育館だ」
「盗んで……?」
「借りて来た。防犯カメラの死角に置く方が悪い。もし君の家が火事になったら、多少の時間は稼げる」
なんというか。
盗んでくるな、とか。
なにを考えているんだ、とか。
いろいろ言いたいことはあるが。
「……なんで、俺のために、そんな……」
結局、彼を責める言葉は出てこなかった。
彼は腰に手を当てて胸を張る。
「君はもう我が同好会のメンバーだ。そしてメンバーを守るのは僕の仕事だ」
「……そうですか」
呆れて、もう何も言えなかった。
俺と安城はエレベーターに乗って5階の通路に立った。
「ここで待機するのか?」
「うん……うまくいけば、その、なんとかなるはず」
悪霊はエレベーター横の階段から登ってくるはずだ。
それからしばらく、沈黙したまま過ごした。
俺は何度も時計を見た。
時計が11時57分を指したとき、俺は小さく息を吐いた。
「安城……」
「来たのか?」
「うん……」
俺は階段を凝視する。
異形のそれが階段の下に見えた。それは一歩ずつ階段を上り、近づいてくる。
「安城」
「なんだ」
「俺の予想を聞いてくれる?」
黙っているのが難しかった。何かを話していたかった。
「いいだろう」
何も見えない安城は冷静なままだ。
俺は顔を伏せて胸を押さえる。
心臓が痛い。
呼吸を整えながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「マンションの入り口をスタートにして、次が1つ隣で101号室、次が2つ隣で102号室って怪異が起きているんだけど、フィボナッチ数列として見るにはひとつ足りない」
俺はゆっくりと深呼吸をする。
「初項が足りていない。フィボナッチ数列は、1、1、2、3と続くんだろ。1が1回足りてない」
「……それは僕も気が付いていた。言ったはずだ。この推理には破綻箇所がひとつある、と」
「エレベーターだよ」
「なんだって?」
「マンションの入り口をスタートにして、1つ隣でエレベーター、1つ隣で101号室って続いていたんだ。――エレベーターが壊れたのは、最初の怪異だったんだよ」
安城は眉をひそめた。
「エレベーターを一部屋として悪霊が反応しているということか?」
「うん」
「それはありえない。それなら、他の階でもエレベーターの前で立ち止まるはずだ」
「それは……その、たぶん……故障していたから。扉の中に、ちゃんと人が入れる空間がないと部屋として認識しないんだよ」
顔を上げて、拳を握りしめる。
エレベーターは、さっき俺たちが使ったときのまま、5階に停止している。
階段を使って上がってきた悪霊を見据える。
汗が伝う。
それが5階に足を踏み入れる。
祈るような気持ちでその移動を見守る。
それがエレベーターの前に立つ。
俺は息を飲む。
時間が止まった気がした。
安城が俺になにかを反論しようと息を吸う気配。
しかし、それが声になるより前に、悪霊がエレベーターの扉に手を伸ばした。
その瞬間、ぎ、と鈍い音が鳴った。
エレベーターの箱が、ありえない方向に歪む。
足の力が抜けた。
(これで、俺の家は――)
圧縮されたそれが、目の前で轟音とともに落ちていった。
時刻はちょうど0時だった。
