視える系男子・古屋和弥は解かれたい

 ――家がなくなるかもしれない。
 それでも仕方がない。ほんとうにそうだろうか。いや、でも仕方ない。
 振り子のように揺れる心を抱えたまま、俺は日々を過ごした。
 悪霊はどうしようもない、天災、災害、事故の類だ。ただじっと息をひそめて彼らが通り過ぎるのを待つしかない。
 しかし、家で過ごした記憶が次から次に頭の中に浮かんでは消えた。
 誕生日パーティをした日、みんなでババ抜きをした日、犬が飼いたくて泣いてねだった日……。
 しかしやさしい日々はすぐに冷たいものに変わる。
 父がいなくなって、いまでは母もほとんど帰ってこなくて。
 いまとなってはそこに住んでいるといえるのは俺ひとりだ。
 だから、家を失うのかもしれない。
 ――もう家族ではないのだから。

 そうしてついに迎えた7月10日金曜日。
 あれから、俺が予想していた406号室では怪異は起きなかった。
 やはり、安城の予想が正しいのだろう。
 ならば、日付が変わる0時ごろに俺の家に怪異が起きる。

 俺はお小遣いを集めてホテルを取った。母が渡してくれているクレジットカードを使えば、未成年でも簡単にホテルをとることができた。
 今日の授業はまったく頭に入ってこなかった。
 ぼんやりとしているとあっという間に授業が終わる。いよいよだ。

 帰る準備をしていると、安城が俺のところにやってきた。
「君、今日ホテルはとったのか」
「まぁ……」
「そうか。なら手持無沙汰だろうから、これを持っていくといい」
 差し出されたのは、『数学入門』と書かれた本だった。
「なんだ、これ」
「フィボナッチ数列の記述があるところに付箋を貼っておいた」
「はぁ……」
 謎の几帳面さだ。

 隣の席から陸人が覗き込んでくる。
「なんの話してるの?」
 俺は誤魔化すように笑う。
「ええと、その、ちょっと……教えてもらってて」
「なにを?」
「ええと、数学……?」
 安城に渡された本の表紙を見せる。
「へぇ~。難しそうだね」
 陸人がそう言った瞬間、安城が前のめりになって語りだす。
「難しくない。なぜならそもそも万物は数学によって説明できる。つまり我々は数学の中に生きていると言っても過言では……」
「はいはいはい!」
 思わず安城の言葉を制する。
 陸人に変な奴と関わっている変な奴と思われたくなかった。
 しかし陸人は引くどころかむしろ前のめりになった。
「数学学年1位だったもんね? あのさ……僕にも数学、教えてほしい」
 そう言って彼が取り出したのは、先ほど授業で返却されたばかりの数列の小テストだった。
 見ると、そこにはすがすがしいほどにバツが並んでいる。
 陸人は肩をすくめる。
「数列でさ、いっつも初項を間違えて、それから大問全滅」
 安城は目を瞬かせると、呆れたように言う。
「それは基本的なミスだな。僕が教えるレベルではない」
「ええ!?」
 俺と陸人の声が重なる。
「ではな。それぞれ勉学に励めよ。学生の本分だ」
 そう言って、安城はすたすたと歩いていってしまった。
 なんとも、自由な奴だ。
 残された俺と陸人は口をぽかんと開けることしかできなかった。

 マンションに戻る。
 なんとなくすぐ部屋に入るのが億劫で、エントランスの掲示板を見る。
 掲示板には『エレベーター稼働再開のお知らせ』『エレベーター故障のお知らせ』が張られている。それによると、エレベーターが壊れたのはやはり5月18日のようだ。
「あれ」
 なにか違和感があった。
(ええと、はじめに101号室で怪異があったのが5月19日で……じゃあ俺がマンションの出入り口で悪霊を視たのは5月18日?)
 記憶をたどるが、さすがに日付までは思い出せない。そのあたりであることは間違いないのだが――。
 カレンダーアプリを開く。
(あれ、5月18日は……日曜日だ)
 基本的にインドア派の俺は、学校がない日に家からは出ない。
(なら、はじめて悪霊を視たのは……17日、土曜授業の日か)
 17日にマンションの出入り口、19日に101号室……。
「あれ? なら18日は?」
 俺は目を瞬かせた。

(ええと、フィボナッチ数列通りに怪異が起きているなら……あれ、というかフィボナッチ数列って……)
 考えながら玄関を開けると、そこに黒い靴があった。
「え」
 慌ててリビングに駆け込む。するとそこでは母がソファに座っていた。
 母は言葉を失っている俺を見て首を傾げた。
「なによ?」
「……母さん、なんでいるの」
 今日は出張のはずだ。
 母は眉をひそめる。
「なによ、その言い方」
「いや……」
 口をつぐむ。
 キッチンのケトルが電子音を鳴らす。お湯が沸いたようだ。
 母は立ち上がると、てきぱきとコーヒーを入れはじめる。
 苦い匂いが立ち込める。
 俺はどうしたらいいかわからなくて立ったまま母がコーヒーをひとくち飲むのを見つめていた。

 母はちらと俺に目を向けた。
「体育祭、リレーでアンカー走ったんだって?」
 予想外の言葉に、思わず唾を飲み込む。
「……なんで知ってんの」
「アプリで写真が見れるのよ。いまってほんとうに便利ねぇ」
「見てるんだ」
 母は片眉を跳ね上げる。
「あんた、私のこと鬼母かなんかだと思ってない?」
「……」
「ま、いいけど。明日からほんとうに出張に行くから、追加で現金を置いていくわね」
 母は財布を開く。
 俺は息を吐く。いま聞かなければいけない。
「あのさ」
「なによ?」
「この家のこと、どう思う?」
「どうって?」
 俺は言葉を絞り出す。
「ええと……好き?」
 母の口紅を塗った唇が弧を描いた。
「やぁねぇ。この家、私が選んだ家なのよ? 家具もぜんぶ私がそろえて。あんたも気に入っているでしょ?」
「……引っ越したいとか、思う?」
「あのね。この家を気に入ってるから、いま必死に働いてローンを返しているのよ」
「……そうなの?」

 ずっと、自分だけがこの家に執着しているのだと思っていた。
「あんた、いよいよ私のことなんだと思ってんのよ」
 母は呆れたように言う。
「あんただって、住み慣れたこの家、気に入ってるでしょ? 子どもの育った家を残したいと思うのはふつうでしょ」
 俺は目を瞬かせた。
 俺はずっと、母が仕事が好きでやっているものとばかり思っていた。
「ええと……仕事、好きなんじゃないの」
「好きよ。でも、あのバカと離婚しなかったらここまではやらなかったわ」
 あのバカというのは、きっと父のことだ。
「……あのさ」
「なんなのよ」
「父さんと、なんで離婚したの?」
 母は目を丸くして、それから小さく息を吐いた。
「全部を言わなきゃいけないわけ?」
 俺は目を瞬かせる。
「それは……」
「家族でも、秘密のひとつやふたつ、あってもいいじゃない」
 そうだろうか。
「でも」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 俺だって、母に秘密を抱えている。
「そっか」
 俺が言うと、母は満足げに笑った。