女性は俺に尋ねる。
「5階の子?」
「はい」
「ほんと、エレベーターの故障は困っちゃうわね。明後日には直るっていうけど」
「はは」
義務教育でいちばん教えるべきは、こういう雑談への対応だと思う。
教えられていない俺は張り付けたような笑みを浮かべることしかできない。
しかし彼女は俺の様子は気にせずに続ける。
「最近、マンションで変なことばかりあるわね。前はほら……ねぇ。そういえば、101号室はリビングの壁一面に首を切られた人の落書きもされたって話よ?」
「……そうなんですね」
「この前は火事もあったし。私、406号室なのよ。火事がちょうど真下だったの」
「それは……怖かったですね」
「5階も煙がすごかったんじゃない?」
「俺は501号室なので……」
「ああ、風向き的にそちらには流れなかったのね。それはよかったわ。もう何事も起きなければいいんだけど」
長い長い階段がやっと終わる。
子どもはぱっと俺の手を放して母親のもとに帰る。
「ありがとう。とっても助かったわ。チョコレート、食べる? これよかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
包み紙に入ったチョコレートをポケットにしまって、マンションの敷地の外に飛び出す。
数歩歩いたあと、マンションを見上げる。
5階建てのそれは、1フロアにそれぞれ13部屋が横一列に並んでいる。
西側から、1階は101号室から始まって113号室まで。
あとは頭の文字が階数ごとに201、301、401、501と変わっていく。
いま俺がいる北側からは共用部分の廊下が見える。
俺は恐る恐る1階、2階……と視線をあげていく。予想通り、4階にそれはいる。
――マツカサのような胴体をした、髪の長い女の悪霊がドアの前に悄然と立っている。
それはゆっくりと振り返ろうとして――。
慌てて目を逸らす。
汗が額を伝った。
それは暑さゆえのものではない。
(今日はあそこ……)
俺はぞわりと粟立つ肌をぎゅっとおさえた。
はじめて視たとき、あの悪霊はマンションの出入り口の前にいた。
今日、悪霊は404号室の前にいた。
そして昨日は403号室の前。
その前は日曜日で、基本的に俺は休みの日は外にでないので見ていないが、さらに前日は401号室にいたはずだ。
俺は生唾を飲み込んだ。
彼らは人智を超えた存在で、悪さをするからといってどうすることもできない、と思っていた。
つい先日までは。
落書き、火事……それから……。
一部屋ずつ横に移動していく悪霊。
考えろ。
今日悪霊が立っていたのは404号室の前、なら明日は405号室の前。そして――。
俺は身震いした。さきほど別れた女性の声が脳内に反響する。
――私、406号室なのよ。
次に、安城万理の声。
『君の目は素晴らしい武器になる』
自分の目をおさえる。
(助けられる……?)
俺は拳を握った。
マンションの入り口では、さきほど別れた子どもがベビーカーに乗り込んでいるところだった。
その子はやわらかいもみじの手を振って「ばいばい」と無邪気に笑っていた。
「5階の子?」
「はい」
「ほんと、エレベーターの故障は困っちゃうわね。明後日には直るっていうけど」
「はは」
義務教育でいちばん教えるべきは、こういう雑談への対応だと思う。
教えられていない俺は張り付けたような笑みを浮かべることしかできない。
しかし彼女は俺の様子は気にせずに続ける。
「最近、マンションで変なことばかりあるわね。前はほら……ねぇ。そういえば、101号室はリビングの壁一面に首を切られた人の落書きもされたって話よ?」
「……そうなんですね」
「この前は火事もあったし。私、406号室なのよ。火事がちょうど真下だったの」
「それは……怖かったですね」
「5階も煙がすごかったんじゃない?」
「俺は501号室なので……」
「ああ、風向き的にそちらには流れなかったのね。それはよかったわ。もう何事も起きなければいいんだけど」
長い長い階段がやっと終わる。
子どもはぱっと俺の手を放して母親のもとに帰る。
「ありがとう。とっても助かったわ。チョコレート、食べる? これよかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
包み紙に入ったチョコレートをポケットにしまって、マンションの敷地の外に飛び出す。
数歩歩いたあと、マンションを見上げる。
5階建てのそれは、1フロアにそれぞれ13部屋が横一列に並んでいる。
西側から、1階は101号室から始まって113号室まで。
あとは頭の文字が階数ごとに201、301、401、501と変わっていく。
いま俺がいる北側からは共用部分の廊下が見える。
俺は恐る恐る1階、2階……と視線をあげていく。予想通り、4階にそれはいる。
――マツカサのような胴体をした、髪の長い女の悪霊がドアの前に悄然と立っている。
それはゆっくりと振り返ろうとして――。
慌てて目を逸らす。
汗が額を伝った。
それは暑さゆえのものではない。
(今日はあそこ……)
俺はぞわりと粟立つ肌をぎゅっとおさえた。
はじめて視たとき、あの悪霊はマンションの出入り口の前にいた。
今日、悪霊は404号室の前にいた。
そして昨日は403号室の前。
その前は日曜日で、基本的に俺は休みの日は外にでないので見ていないが、さらに前日は401号室にいたはずだ。
俺は生唾を飲み込んだ。
彼らは人智を超えた存在で、悪さをするからといってどうすることもできない、と思っていた。
つい先日までは。
落書き、火事……それから……。
一部屋ずつ横に移動していく悪霊。
考えろ。
今日悪霊が立っていたのは404号室の前、なら明日は405号室の前。そして――。
俺は身震いした。さきほど別れた女性の声が脳内に反響する。
――私、406号室なのよ。
次に、安城万理の声。
『君の目は素晴らしい武器になる』
自分の目をおさえる。
(助けられる……?)
俺は拳を握った。
マンションの入り口では、さきほど別れた子どもがベビーカーに乗り込んでいるところだった。
その子はやわらかいもみじの手を振って「ばいばい」と無邪気に笑っていた。
