太極殿の御書房で玄華が書をしたためていると、方術士が訪れ咳払いをひとつした。
手元から顔を上げた玄華に方術士が笑いかけると、長い髭がもごもごと動く。
「いかがお過ごしか」
筆を置いた玄華は立ち上がり、方術士に椅子をすすめた。
方術士が腰掛けたのを確認し、玄華も向かいの椅子へ座る。
「特に変わりはありません」
「そうかのお? いっとき調子がよさそうだったのに、また戻ってしまったようじゃ」
とぼけた口ぶりだが、方術士には全てお見通しなのだろう。
たしかに、玄華は日を追うごとに眠る時間が短くなり、疲労が蓄積してきている。
毎日違う妃の宮や部屋へ赴き、一夜を過ごす。
それでは心身ともに休まらないのだ。
どの妃からも同じ寝台で眠るよう誘われ、それを断るのも苦労する。
(あいつだけだ。一人で俺を寝かせたのは)
玄華の頭をよぎったのは香曜の姿だった。
少し赤の交じる黒髪に、意思の強そうな濃い紫色の瞳は、初対面からなぜだか目が惹かれた。
そんな彼女が調合する薬は玄華の身体によく馴染み、さすが自信満々に薦めてきただけのことはあると感心したのだ。
本人に直接伝えることはしなかったが。
しかしここ数週間は香曜と会っておらず、もらった薬はとっくに底をつき、玄華は不眠に再び悩まされるようになった。
むしろ薬がなくなれば香曜への興味も絶ち消えると考えていたのだが、まったく反対であったことに気づき戸惑っている。
(気をそらしても頭に浮かんでくる。なんだこれは)
自身が管理できない状況は、玄華にとって不快でしかない。
しかし香曜の姿を思い浮かべると、胸の奥でじんとほどけるような温かさも覚えるのだ。
それに気づき、また戸惑いが生まれ不快になり、理由が分からす疲労する。
方術士はその豊かな白いヒゲをゆっくりとなでた。
「さて、妃たちの部屋へは一通り向かったと聞いておりますよ。気になる者はおりましたかの」
「……皇后とは、後継者をもうけるために必要なだけで、私の好みはどうでもよいのです」
玄華の父である前皇帝は好色な男だった。
節操も気遣いもないため、宮女を身ごもらせ、その女と子供を過酷な状況に追いやったのだから。
──それが玄華と、その母である。
「周囲から軽んじられる者を皇后には出来ません。そんな妃に入れ込めば、生まれた子供が不幸になるのですから」
「そんな妃を守るために皇后選定の儀はあるのじゃ。大勢の前で花を咲かせれば、周囲を納得できるからの」
「それでも、反発する者はいるでしょう」
「では質問を変えるぞ。花を咲かせるために必要な“選定者”を、陛下は考えておられるかの?」
選定者は皇后選定の儀で重要な役目を担う、方術士が方術で作った幻のことだ。
その役目とは、皇帝が指定した生き物の形になり、皇帝の分身として花紋の花を咲かせる。
蝶や鳥を指定する皇帝が多いらしい。
当日までに決めようと油断していた玄華に、方術士は慌てなくていいと首を横に振った。
「ただ、選定者が思い浮かばないうちは迷いがあると考えておくのじゃ」
「……そんなことはない」
「頭ではなく心で考えるのじゃ」
「では蝶にします」
「蝶。なぜですかの」
「おかしいか? 花が咲けばよいのだろう?」
方術士は立ち上がって歩き出し、部屋の扉までたどり着くと玄華を振り返った。
「蝶がすべての花に力を貸せるわけではありません。咲かせたい花にふさわしい生き物を調べ、選ばれることを期待しておりますよ」
「……調べる?」
「ええ。花や送粉者以外にも、憂いの原因になることは調べるのが良いでしょう」
意味深に微笑んで部屋を出ていく方術士を、玄華はぼんやりしたまま見送った。
「なんだったんだ」
(まるで、俺が香曜を皇后に求めているような話しぶりだった)
玄華も考えたことがある。
香曜と共にいられたら、心安らぎ楽しいのではないかと。
(ただ、選択を間違えれば、また失う羽目になる……俺の母や香曜の姉のように)
宮女から妃となった母は前皇帝の寵愛が深かったものの、影で嫌がらせを常に受けていた。
玄華も命を狙われたことは一度や二度ではない。
そんな不遇の母子に寄り添う、奇特な者がいた。桑国から嫁いできた妃──香曜の姉であった。
何度も毒を盛られた自分たちに薬を与えてくれた彼女は、玄華の母に毒を盛り殺害した疑いで捕らえられた。
(あれは仕組まれたものだった。むしろ彼女は俺の代わりに毒を飲んで……何年もかけて命を蝕まれた)
殺人犯として捕まった彼女が特例として里帰りが許されていたのだが……もしかしたら前皇帝も、彼女が真犯人でないことに薄々気づいていたのかもしれない。
玄華は許せなかった。
自分たちに毒を差し向けて、母や彼女を死に追いやった者が。
権力を持って真犯人を見つけ、賢妃は無実だと証明したかった。
しかし玄華が皇帝になったと同時に彼女は亡くなり、謝罪も感謝もできなくなった。
入れ替わりのように香曜が後宮入りしたが、姉のことで責められると思うと足が遠のいた。
けれど香曜は恨んでなどいなかった。
それどころか自分に寄り添った。
(だったら、好きな薬草いじりが一生できるよう取り図ろうと考えていたのに)
男と逢引している香曜の姿を目の当たりにし裏切られたような気分になった。
絶望と、ひどい焦燥感。
けれどもう彼女は後宮の妃であり、外に出ることは出来ないという安堵感も入り混じった。
(自分の目と手の届く範囲に居続けるなら、それでいいじゃないか)
先ほど方術士が訪れるまで、玄華はそう考えていた。
(……やたら何かを調べるように話していたな)
憂いの原因──そこで玄華の脳裏に一人の男がよぎった。
香曜の幼馴染という、榕廉という薬師。
(あれは……疫病を鎮めた褒章を保留にしていたな)
──時が来れば改めて私の欲するものをお伝えいたします。
そう言っていた。
(あの男、香曜を褒賞として望むつもりだな)
無駄なことを、と一蹴しようとして考える。
(どうやって夜の後宮に入り込んだ? 誰が手引したんだ)
「……調べる、か」
そのまま腕を組み、玄華はしばらく考えていた。
やがて天井を見上げると、頭を抱えて大きなため息をついた。
「結局、守るならば一番近くに置くべきということか」
そう独りごちると玄華は手をたたいた。
すぐに姿を現した側近に、貴妃のもとへ向かうことを告げる。
「ああ、あと明日の午後は開けておけと方術士に伝えてくれ。皇后選定の儀について打ち合わせしたいからな」
立ち上がると目眩がし、机に手をついてやり過ごす。
「香曜……」
側近の去った部屋で、そのつぶやきはやけに大きく響いた。

