華の王は無花果妃を離さない


その日は月のない夜だった。
香曜は一通の手紙を胸に賢妃の宮から出て、庭の草陰を目指していた。

「香曜」

一年ぶりに聞く幼馴染の声に、香曜の胸に懐かしさが広がっていく。

榕廉(ヨウレン)! 本当に来たのね。勝利宣言を直接しに来たの?」
「違う、心配だからに決まってるだろ。皇后選定の儀が始まったことは市井でも噂になっている。理不尽な目にあってないか?」
「……ある程度は予想していたし平気よ」

本当は、嫉妬に狂った妃たちの嫌がらせは日々ひどくなり、薬草を探しに庭へ出ることにも支障をきたすようになっているのだが、わざわざそれを話すつもりはなかった。
目を細めた香曜の仕草から何かを感じたのか、榕廉は悔しそうに口を曲げる。

「香曜、俺には秘策がある。必ず後宮から出してやるから、そしたら二人で国中を周ろう。皇帝相手でなくても出会う人々に合わせた薬の調合ができるぞ」
「外に……」
「ああ。だから皇后選定の儀が終わるまで耐えてくれ」

香曜が返事をする前に、榕廉は闇へ溶けるように姿を消してしまった。


基本的に妃として迎えられたら、死ぬまで後宮から出られない。
四妃の身分ならなおさらだ。
それを承知で香曜は後宮に来たのだが……。

(外に……出られる──?)

魅力的な誘いだ。けれど本当に叶えられるのだろうか。

(……でも、後宮を出たら陛下に会えなくなるのよね。それは……寂しいかもしれない)

最近は少しずつ雑談ができるようになり、言葉足らずなだけで優しい人なのだと感じる機会が増えた。
そしてやはり寝顔がかわいらしく、玄華が眠りについている間そばで見守ることも、香曜の楽しみのひとつになっていた。

どちらにせよ贅沢な悩みだと苦笑いした香曜が賢妃の宮へ戻ると、正殿に玄華がいて目を見開く。
昨夜は訪問があったから、今夜は訪れないだろうと考えていたのが外れてしまった。

(榕廉と会っていたことには気づかれていないわよね?)

緊張で強張る体を動かし、玄華に礼を取った。

「……今までどこにいた」

地を這うような低い声に、香曜の肩がびくりと揺れる。

「庭の、散歩を」
「男を連れ込んで?」


見られていた、という驚きと後ろめたさで言葉をなくす。
なにか言わなければと思うのに、身体が、口も石になったように動かない。

「今夜はここで帰る」

まるで失望したとでも言うような、抑揚のない声で玄華は言った。
香曜は入口近くの棚に置いてあった、昼間に調合した薬の袋を玄華に差し出した。

「陛下、せめて薬を。そろそろ無くなるからと用意しておいたのです」
「いい。邪魔したな」

振り返ることなく立ち去る玄華を見送り、薬の袋を抱えて香曜はうつむいた。
懐かしさに負けて軽率な真似をしてしまった。

「香曜様」

桑莉の声に振り向くと、机の上に何かが置かれている。
ちょうど玄華の座っていた位置だ。

置かれていたものは落雁(らくがん)という菓子だった。
米などの粉と砂糖を練り、型を取ってから乾燥させたものである。
丸い形のなかに細かな鶴が形どられており、いかにも手が込んでいる。
玄華が持ってきたのだろうか。

(忘れ物かもしれない)

香曜は落雁を持って宮を出たものの、夜の回廊を渡るのは冷たい風だけだった。
皇帝の宮である太極殿を目指してみるが、回廊の曲がり角をいくつ過ぎても玄華の姿は見えない。

呼ばれてもいないのに、こんな夜にウロウロしていてはいくら賢妃とはいえ怪しまれてしまう。

(また会えた時に返せばいい……よね)

だけど、会えるだろうか。
漠然とした不安が香曜の胸に渦巻いた。