客がくる前に、テーブルを拭き、セットしたグラスやメニューを整える。昨日出しそびれたゴミの袋をいったん外に置こうと非常口を開けた。
「……っと」
 ドアの向こう側に人間の気配がして、咄嗟にドアを引いた。衝突することはなかったようだ。ゆっくりドアを開けると、例のバーの店員マオリが下の階へ降りていくところだった。ひとりではない。客らしき若い男といっしょだった。泥酔しているのか、ふらついている客に肩を貸し、半身を寄せ支えるようにして階段を下ろしている。それほど鍛えているようには見えないマオリには重労働に見えた。
「手伝おうか」
 声をかけると、はっとしたように振り返った。おれが見下ろしていることに気づくと、顔を強ばらせた。
「いらねえよ。ほっとけ、クソが」
 階段を照らす薄いライトの下、客の顔が見えた。スーツを着ているが、宥人ではない。青白い顔で、唇の端から涎が垂れている。かろうじて目は開いていたが、虚ろでどこを見ているのかわからない。
「なあ、それパキってんじゃねえの」
 アルコールで酔っているようには見えない。完全に意識を飛ばしたその状態を、以前にも何度か見たことがあった。
「なんかクスリやった? 葉っぱ?」
「うるせえんだよ!」
 マオリは慌てて客を連れて階段を降りようとしたが、客は足が縺れてうまくいかない。マオリは焦って今にも客を蹴り落としそうだった。
「待てよ、こら」
 おれは階段を数段降りて、マオリの肩をつかんだ。相手は体を硬直させたが、前回の記憶が残っているのか、無理に振り切ろうとはしなかった。涙ぐましい気力でおれをにらんでくる。
「なんだよ。あんたに関係ないだろ」
「まあ関係ないけど」
 ゾンビのような客を一瞥し、おれはいった。
「おまえら、客に盛ったりしてんじゃねえだろうな」
「はあ?」
 マオリは露骨に不快そうな顔で唇をひん曲げた。
「なわけねえだろ。勝手にトンでるだけだよ。こっちも迷惑してっから」
「だったらいいけど、おれの知り合いになんかしたら黙ってねえから、おぼえとけよ」
「知り合い?」
 マオリが嘲るように笑う。整った顔立ちといえなくはないが、その表情は陰湿で歪んでいた。宥人はこの男のどこを気に入って通っているのだろう。
「それって宥人のことかよ。なに、気に入ったの?」
 答える気もおきない。相手も返事を待っていたわけではないようだった。自嘲気味に肩を竦める。
「なんかしようにも、最近全然顔見せねえし。あんたがよけいなことするから他の店に行ってんじゃねえの」
 思いがけない答えだった。去ろうとするマオリの肩をもう一度つよくつかんだ。
「いってえな。まだなんかあんのかよ」
「きてねえの?」
「あ?」
「最近、宥人さん、店にきてねえの?」
「だからきてねえって。あれから1回もこねえよ」
「今日も?」
「今日もだよ。なんなんだよ。うぜえな」
 吐き棄てるようにいって、マオリは客を連れて降りていった。ひとりで歩くこともできない状態の客をエレベータに乗せて他人の目にふれさせるのを嫌ったのかもしれない。
「ミヤちゃん、なにしてんの。お客様!」
 ドアが開いて、ママが顔を出した。
「あ、すみません。すぐ行きます」
 おれはすぐに店内へもどり、今夜1組目の客のためにおしぼりを取り出した。最近になって通い出した結南の指名客だった。ボトルとアイスペールを並べる作業に集中しながら、おれはマオリの言葉を頭のなかに反芻していた。