「最近よくくるよね」
 いつものように裏口で宥人を見送ってフロアにもどったおれに、ママの彩が声をかけてきた。
「菊地さんだっけ。ミヤちゃんのお客さん」
「おれの客ってことはないですけど」
 すべての事情を説明したわけではないが、彩ママは開店前に宥人が店で過ごすことを承諾していた。もちろん、わずかばかりのサービス料金を加算した飲みもの代は支払っているから、たとえ営業時間外であっても客としてあつかうべきだろう。
 彩ママはフロアの席のひとつをつかって領収書や請求書の束と格闘している。このところ、売上の状況が芳しくない。1年でもっとも飲食業が暇な2月とはいえ、台所はくるしい。たとえ数千円でも、通ってくれる客を蔑ろにできない事情もある。
「けっこう前に、上のお店のスタッフとエレベータに乗ってるところ見たけど、そっち系のひとなのかな」
 電卓を叩きながら、暇つぶしの雑談として話題がつづく。
「どうですかね」
 痴話喧嘩に巻きこまれたことは伏せ、曖昧にはぐらかす。内密にするよう請われたわけではなかったが、ぺらぺらとしゃべるようなことでもない。
「ミヤちゃんに『ホの字』なんじゃないかと思ったんだけど」
「ホの字?」
「惚れてんじゃないかってこと」
 まだ40代だが、年嵩の顧客が多いせいか、ママのワードセンスはかなり古い。
「ないでしょ、それは」
「そうかなあ。こういうときのわたしの勘はけっこう当たるんだけど」
 おれはカウンターの棚を開け、キープボトルを整理していた。背中に彩ママの好奇心旺盛な視線を感じたが、気づかないふりをした。
 開店時間が近づくと、ホステスたちも続々と出勤してくる。セーターにショートパンツといったラフな服装の香里がショルダーバッグをぶら下げて入ってきた。続いて、デニム生地のワンピースを着た結南。ふたりともほとんどすっぴんだった。
「おはようございます」
「おはよう、ミヤちゃん」
 昨晩は常連客とアフターに出かけていたベテランはまだ気怠げだった。カウンターの上の箱に気づく。
「あら、いつもの菊地さん?」
「はい。今回は北海道に出張だったそうで」
「わーい。開けちゃお」
 結南がさっそく箱を開封する。今日の土産は夕張メロンのゼリーだった。
「おいしそう。菊地さんのお土産、いつもセンスいいよね」
 結南がはしゃぐ。自分の客にしようと色めき立っていた女たちも、あまりに宥人が関心を示さないためにすっかりあきらめてしまっていた。しかし、こうして頻繁に珍しい菓子や飲料を献上されていることもあってか、彼について悪くいうものはいなかった。
「それだけじゃないよね。うちらの体のこと考えて、胃にやさしかったりカロリー低めだったり、気を遣って選んでくれてるのわかるわ」
 香里の言葉に、はじめて気づかされた。たしかに、土産として渡されるものには受け取る相手への気配りが見て取れた。
 やはり男が好きというからには、女の感覚にちかいものがあるのだろうかなどと考えながら、おれは後からくる女たちのためにゼリーを冷蔵庫にしまいこんだ。
「そういえば、この前、菊地さんテレビで見た」
 カウンターの椅子に座ってゼリーを食べながら、結南がいった。冷蔵庫を操作するためしゃがみこんでいたおれは、一拍措いて立ち上がった。
「どこでって?」
「だからテレビ。出てたの」
「菊地さんが? なんで?」
 すこし離れたテーブルで事務作業をしていたママが口を挟む。
「お昼の番組のコメンテーターみたいな。弁護士なんでしょ。それでじゃないかなあ。よくわかんないけど」
「結南、ニュースとか見るんだ」
 ファンデーションをなおしながら、香里が茶化す。結南は客に人気のある屈託のない笑顔でいい返した。
「見るわけないじゃないですか。お昼やってるワイドショーみたいなやつ。たまたまテレビつけたら、知ってるひと出てたんで」
 俄には信じがたい。職業については本人から聞いていたが、テレビでコメントするようなタイプには見えなかった。もちろん、頻繁にメディアに登場したり書籍を出版したりと表に出る弁護士もいると知ってはいたが、宥人に関しては、どちらかというと机に囓りついてデスクワークに勤しむ昔ながらの弁護士を想像していた。
 信じられないといった顔をしていたのだろう。おれの反応を見て、結南は疑われていると思ったのか、スマホを取り出した。
「ほんとだって。ちょっと待ってよ。動画アップされてたから……」
 ネイルアートの施された爪で器用にスマホ画面をタップし、スクロールして、すぐに目当ての動画を見つけ出した。
「ほら。おなじひとでしょ」
「ほんとだ。名前も書いてある」
 横から香里が手を伸ばしてスマホを奪ったせいで、おれには画面は見えない。しかし、音声だけは聞こえてきた。
「それでは、この件については専門家の菊地先生にお聞きします。先生、お願いします」
 男性司会者に促され、弁護士はしゃべりはじめた。
「まず、今回の法案に関しては、率直にいって、ちゃんちゃらおかしいの一言ですね。こんな内容で納得するひとはまずいないと思います」
 たしかに宥人の声。おれはとくに興味を示さず、開店準備のためグラスを並べていた。香里が驚いたように笑う。
「すごい。いつもと全然雰囲気ちがうね。ママ、ほら見て。菊地さん出てる」
「えー、見せて見せて。あら、かっこいいじゃない」
 事務作業をひと段落させたママも参加し、みんなで一台のスマホを囲む。
「でも、先生、これこのままにしとくとわたしたちの生活にも影響があるんじゃないかって思っちゃうんですけど」
 テレビ特有の演出か、女性タレントが割って入る。
「どういうことでしょうか」
「だって、性的少数者のひとたちにおなじ権利を与えちゃったら、トランスジェンダーを自称する男が女子トイレだったり更衣室に入ってきちゃっても止められないってことですよね」
「いいえ、止められますよ」
「でも法律が……」
「トランスジェンダーを自称する男性は男性とおなじですから、おなじように法で裁かれます。それ以前に、女性用のトイレや更衣室に入りたいという要望はほとんどありません」
 どうやら今取り組んでいると話していた性的少数者の権利に関する内容らしい。宥人の口調ははっきりしていて淀みがなく、よく通ってプロの司会者やアナウンサーと較べても遜色がないほど聞きやすかった。
「あのね、先生ね、ぼくの知り合いにもそういったひとはいますよ、実際」
 外国人らしき口調の男性タレントが発言する。
「彼ら彼女らによると、やっぱり男性なら男性、女性なら女性とまったくおなじテリトリーに入りたいと望んでいるひとは多いと聞きますけどね」
「そういう方もいるとは思います。否定はしません。でも一部です。わたしは年間300人以上に聞き取り調査をしていますが、決して多くはありません」
 相手側の意見を否定するのではなく、しかし断固として受け容れない姿勢を貫く。見事だった。
「ほら、ミヤちゃんも見てみ」
 飽きてきたのか、香里がようやく画面をこちらに向けた。スマホのなかで、タレントたちに混じって、宥人が議論を続けていた。いつもとおなじスーツにネクタイといった姿だが、ヘアメイクが入っているのか、髪はセットされていて、見栄えよく映るように前髪を横に流している。テーブルの上で指を組み、背すじを伸ばして、凛とした姿を見せている。生放送のようだが、緊張している様子はまるでない。
「でも、実際にアメリカの陸上競技大会ではトランスジェンダーを装った男性が女子の大会に出場して……」
「どこの州ですか?」
 男性タレントの言葉を遮る。厳しい口調ではなかったが、男性タレントは虚をつかれたように口籠もった。
「それはちょっと……今パッと出てこないですけど」
「選手名も? なんの競技でした?」
 台本にない話題をつい持ち出してしまったのか、男性タレントはうまく取り繕うことができずに狼狽えている。弁護士に突っ込まれて慌てたのかもしれないが、コメンテーターとしてはずいぶんお粗末だ。
「とにかくですよ、そういうひとたちばっかりを特別あつかいするっていうのはちょっとねえ」
「特別あつかいしてほしいなんていってません。ふつうとおなじにしてほしいんです」
 宥人の態度は毅然としていた。議論の場でどちらに説得力があるかは歴然としていた。
「まあまあ、じゃあCMの間に調べておくことにしましょう。いったんCMです」
 ふだんテレビに親しみがないおれでも顔を見たことのあるベテラン司会者だ。空気を読み、場面を切り替えた。CMが流れるタイミングで動画は切れていた。
「すごーい。なんか別人みたいだったね」
 結南にスマホを返しながら、香里がため息をつく。
「ふだんはぼーっとしてる感じなのに、なんていうか、ギャップすごいね」
「ですよね。テレビに出てるってことは、有名な弁護士さんなのかなあ。独身っぽいし、狙っといたほうがいいかもですよね!」
 これまではまったく宥人に興味を示さなかった結南がたちまち色めき立つ。
「いや、無理でしょ」
 思わず声が漏れた。
「ちょっと、ミヤちゃん、なんでよー」
 拗ねる結南の肩越しに、ママが視線を向けてくるのが見えた。おれは失言に気づいた。
「そろそろ開店時間ですよ、みなさん」
 素早くグラスを片付けて、看板に灯を入れるためにカウンターを出る。
「こら、逃げんなよー」
「もういいじゃん。準備しよ、ほら」
 香里と結南が揃って更衣室に消える。どうにか誤魔化せたようだ。おれは安堵した。結南の機嫌を損ねると面倒だ。