2週間ほどたった金曜の夜、出勤してビルの前でエレベータを待っていると、背後から足音が聞こえた。なんとなく振り向くと、あの眼鏡の男が歩いてくるところだった。マスクはしているが、最初の夜とおなじスーツ姿で、大きな鞄を提げている。おれに気づくと、壁に衝突したかのように足を止めた。
 口を開き、すぐに閉じた。男の後ろからもうひとりべつの男がやってくる。月曜の夜にきた週刊誌の記者だった。おれのことをおぼえていたようで、目だけで合図する。おれも顎を引く程度の軽い会釈を返した。
 エレベータに乗り込んだ。スーツの男が続き、記者の男もついてくる。
 居心地の悪い空気。おれは4階のボタンを圧し、体を引いた。ほかの階に停まりたければ勝手に操作するだろう。おれはエレベータガールではないのだから、いちいち尋ねる義務はない。しかし、ふたりとも動かなかった。
 エレベータが4階に着くと、おれは左手でドアを固定した。振り向かずに、いった。
「どうぞ」
 戸惑うような、探るような空気。おれは首を捻って眼鏡の男を見た。
「降りないんですか?」
「あ……」
 男は一瞬狼狽の表情を見せたが、鞄を持ちなおすと、首を振った。
「いえ、降ります」
 おれの体の脇をすり抜けて外に出る。かすかに香水のような匂いがした。おれは箱のなかで苦い顔をしている記者にも顔を向けた。
「そちらは?」
 記者は無言で首を窄めた。経費を削減するよう上から締められているのかもしれない。
 エレベータを降り、鍵を取り出す。解錠し、店のドアを開ける。
「なにしてんの」
「え……」
 眼鏡の男はぼんやりと立ち竦んでいる。
「入れば」
「でも……」
「さっきの記者、絶対まだ下で張ってますよ」
 エレベータでしたように手でドアを押さえ、顎をしゃくって促す。
「上の店、行きたいんでしょ。うちの店ですこし時間つぶして、非常階段から上がればいい」
 自分でも意味不明の提案だった。男も当惑している。
「嫌ならべつにいいけど」
「あ、いえ、嫌というわけでは……ただ、迷惑なんじゃないかなと……」
「オープン前だし、べつに平気です」
 よけいなことに首を突っ込まない主義とはいえ、ここまで困った顔をされると、放っておけなかった。
「緑茶の料金さえ払ってくれれば問題ないですから」
 その言葉に背中を押されたらしく、男は小さく頷いた。
「それじゃ……」
「どうぞ」
 自分の店でもないのに、えらそうないいかただ。おれは自嘲気味に肩を竦めた。男を店に入れて、ドアを閉める直前に周囲に視線を配る。記者の姿はなかった。

 私服のままで開店の準備に取りかかる。前夜は満席で忙しく、おれもアフターに付き合わされたため、片付けの途中で放置してしまっていた。テーブルに残されたグラスや皿を回収し、洗いものをはじめる。
 男はカウンターに座って緑茶を飲んでいる。グラスを両手で包み、滑り落ちる水滴を指先で拭う。グラスに口をつけ、ほんの少量喉に入れてから、指先でマスクを摘まんで装着しなおす。育ちがよさそうだ。習慣や家庭環境は小さな所作にあらわれる。セレブ気取りの成金がぼろを出すのはたいていこういった細かい仕草や立ち居振る舞いの部分だ。
「ほんとにすみません。たすかります」
 指先で眼鏡の位置をなおしながら、男が頭を下げる。
「気にしなくていいですよ」
 グラスを洗いながら、おれはいった。
「よければ、これからも上の店に行く前に一回ここに寄ってからにしたらいいんじゃないですか」
「でも……」
「迷惑ではないので」
 男はなおも躊躇っている様子だった。返事を待たずに、べつの質問をした。
「そういえば、お名前聞いてませんでした」
「ぼくですか。菊地です」
「いえ、下のほうの」
「あ、ゆうとです」
「どんな字書くんですか」
「あ、えっと、『宥める』っていう……」
「なだめる」
「あ、これです」
 男はスマホを取り出し、素早く文字を打ち込んで、画面をおれに向けた。
「これに人間の人で、宥人です」
「きれいな字ですね」
 おれは一度水を止め、作業の手を止めてから、スマホの画面に顔を寄せて漢字を確認した。それから視線を上げて宥人を見た。
「おれ、漢字苦手なんで、絵柄というか、かたちでおぼえるんです」
「おぼえましたか」
「おぼえました」
 再び蛇口を捻って水を出し、グラスの泡を注いでいく。
「あの……」
「あ、おれは善です」
「ぜん……」
「善人の善です。善人ではまったくないですけど」
「そんなことないです」
 手のなかでスマホを弄びながら、宥人が独白のようにいう。
「善人です。いいひとだと思います、とっても」
 再び沈黙が流れた。どうも落ち着かない。それは相手もおなじのようで、所在なさげに視線を泳がせている。
「あの……」
「この前……」
 ほぼ同時に声を発し、おなじタイミングで言葉を飲み込んだ。
「どうぞ」
 おれは客のほうを見ずに促した。
「いえ、先に……」
「いや、そっちが……」
「いえ、ほんとに……」
 途轍もなく落ち着かない。おれは軽く咳払いをしてから、いった。
「あの、お客様ですんで、どうぞ先に」
 つまらない意地を張ってしまった。根負けしたのか、宥人は躊躇いながらもいった。
「すごくくだらない質問なんですけど」
「いいですよ。どうぞ」
「身長、何センチですか」
 予想以上にくだらない質問だった。
「187か8くらいです」
「え、すごい」
 予想をはるかに越える反応だった。宥人は身を乗り出してさらに質問してきた。
「小さい頃から大きかったですか? 牛乳たくさん飲んでました?」
 背が高いといわれることはあったが、それほど気にしたことはなかった。洗い終わったグラスを布で拭きながら、おれは首を捻った。
「さあ。あんま記憶ないですね」
「お父さんかお母さんが長身だったとか」
「母親はそうでもないですね。父親はだれかわからないです」
 淡々と話したが、宥人は我に返ったように口を噤み、椅子に座りなおした。
「すみません」
「いや、謝られるようなことじゃないんで」
 気分を悪くしたわけではなかったが、宥人は後悔の念を隠さず、小さな体をよけいに縮こまらせている。
「ぼくはすこし、身長だとか見た目にコンプレックスがあるようで、背が高いひとが羨ましいんです。それで……」
「ほんとに気にしてないですから」
 再び、沈黙。おれは店の有線の電源を入れた。ジャズが流れ、沈黙を支配する。
「あの、もう行きますね。ごちそうさまでした」
 宥人が立ち上がる。前回とおなじように千円札をていねいにカウンターの上に置く。
 非常階段に出るドアを開け、宥人を外に出してやる。さっきよりは薄くなっていたが、やはり香水の匂いが鼻腔をすり抜けていった。
「あ、ちょっと」
「はい」
 振り向いた宥人の顔に手を伸ばして、マスクをずらした。頬の腫れはだいぶ引いていて、ちょっと見ただけでは傷跡も認識できない。
「怪我、だいじょうぶみたいですね」
「はい」
 宥人は小さく頷いて、マスクの位置をもとにもどした。
「あの……」
 宥人の身長は聞かなかったが、おそらく160かそこらだろう。頭がおれの胸元あたりにあって、俯くと表情はまったく見えなくなる。
「上に行くなとはいわないんですね」
 言葉の意味がわからず、戸惑った。
「まあ、それは……他人が口出しすることじゃないし」
「そうですよね」
 宥人は両手でマスクの紐を上げると、顎を上げておれに笑顔を見せた。
「ありがとうございました。またきます」
 返事を待たずに、踵を返した。足早に階段を上がっていく。革靴の底が階段を叩く音が響いた。