月曜の閉店間際にきた客は、火曜の開店間際に再びやってきた。
まだママもホステスも出勤していない時間帯。おれはひとりで開店のための掃除をはじめていた。ドアが開いたことにも気づかなかった。トイレ掃除を終えてホールに出ると、ぼんやり突っ立っている男と鉢合わせになった。
「わっ、びっくりした」
「あ、すみません」
マスクをして、スーツではなく白いシャツにジャケットという姿だったが、声で昨日の男だとわかった。
「えっと、昨日……」
「はい、おぼえてますよ」
すぐに平静を取りもどし、おれは手にした掃除用具を手早く片付けた。
「まだ開店前なんですけど」
「そうですよね。すみません」
いちいち謝る男だ。おれはカウンターに回って手を洗った。その間も、男は居心地悪そうに、といって帰ろうともせず、視線を泳がせている。
「なにか飲んで待ちます?」
「あ、いえ、いいんです」
意を決したように、手に提げていた紙袋を突き出してくる。
「あの、これ、昨日のお詫びとお礼に……」
「おれにですか?」
男が頷く。そういえば、昨夜は謝りはしたが礼はいわなかった。気にしてはいなかったが。
袋の表面には銀座の百貨店のロゴが印刷されていた。なににしても高価そうだ。
「べつにいらないです。なんもしてないんで」
「でも……」
「それに」
おれはカウンターごしに手を伸ばして男のマスクをずらした。男は一瞬体を強ばらせたが、避けなかった。マスクの下の顔は腫れて、唇の端が切れていた。
「これ、おれのせいですよね」
「そんな……ちがいます。ぼくが……」
ため息。おれはマスクから手を離して、自分の頭を搔いた。やはり、あの男は腹いせに八つ当たりをしていたようだ。おれが下にいるのはわかっているのだから、文句があるなら直接くればいい。強い相手に立ち向かう代わりに弱い標的を見つけて憂さを晴らす連中は何度も見てきた。卑怯で、陰険だ。吐き気がする。
「だいじょうぶですか」
「あ、はい……」
男はマスクをもとの位置にもどした。一瞬見ただけだが、かなりひどそうだ。昨日おさめたはずの苛立ちが再び湧き起こってくる。
「なんなんすか、あいつ。彼氏?」
「彼氏……ではないと思います」
随分と歯切れが悪い。おおかた色恋営業のカモにされているというところか。
「じゃ、昨日うちにきてたもうひとりの出版社のほう?」
「ああ、やっぱり出版社の……」
口が滑った。おれはため息をついた。グラスに氷を入れ、緑茶を注ぐ。
「座って」
「いえ、ぼくは……」
「いいから、座って」
カウンターに緑茶のグラスを置く。男は躊躇しながらもカウンターの椅子に浅く腰掛けた。
「いつも暴力ふるわれるんですか」
深入りする気はなかったが、いくぶんかは責任を感じていた。グラスを整理しながら、おれは尋ねた。
「いえ、はじめてです。いつもは……」
緑茶には手をつけず、膝の上で指を組んで、男は俯く。
「いつもはやさしいですか」
「やさしい……ふつうだと思います」
やはり歯切れが悪い。おれはサディストではないが、その要素を持っている人間なら加虐性を刺激されそうだ。
「店にはよく行くんですか」
「そう……ですね。週に2回くらい」
「昨日は間違えてうちに入ったとか?」
そんなはずがないことはわかっていたが、答えやすいように質問した。
「そういうわけでは……記者のひとがいたの、見えたので、咄嗟に……」
「まあ、上の店に行くひとだったら、うちの店には用ないですよね」
相手が黙り込む。おれは差別的な人間ではないつもりだが、無意識に棘のある言葉になってしまった。取り繕うように話題を変えた。
「あの、芸能人かなんかとかですか」
「え?」
男は眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「ぼくが? まさか。なんでですか」
「週刊誌の記者に追っかけられてるから」
「ああ、そうか。そうですよね。いや、全然ちがうんです」
捲し立てるようにいって、男はひとりで何度も頷いた。
「あの、ぼく、実は弁護士をやってまして」
「弁護士」
公務員でも会社員でもなかった。約10年の水商売経験から、人間を見る目には自信があったが、勘ははずれていたようだ。
「今手掛けているのが、なんというか、すこしこう……センセーショナルというか、メディアによく取りあげられるものですから」
そういって男はいくつかの事件を挙げたが、すべて初耳だった。
「すんません。テレビもネットも見ないもんで」
六本木の店にいたときはそれなりに客と言葉を交わすために多少の時事ネタを仕入れてはいたが、ここではせいぜいゴシップネタくらいで、それも客やホステスの話に相槌を打つ程度だった。もともと関心がない。
「いえ、いいんです」
男がマスクの下で微笑む。落胆というよりはむしろ安堵しているように見えた。
「そのなかで、いわゆる性的少数者に関する訴訟があって……その、つまり、同性同士のカップルの権利を訴える内容なんですけど」
「はい」
「その担当をしているのがぼくで、ぼくは……その、ご存じのように、男が好きなタイプの男なんですけど、カミングアウトはまだしてなくて……」
「ゲイの弁護士がゲイの弁護しちゃいけないって法律あるんですか」
「いえ、ないです」
「じゃあべつにいいんじゃないですか。そういう店に行ってることばれても」
「そういう問題じゃないんです」
男はおれの目を真っ直ぐに見据え、はっきりいった。これまでの煮え切らない態度が嘘のように力のある声だった。
「カミングアウトのタイミングは自分で決めたいんです。だれかに追い立てられてしかたなくするんじゃなくて」
予想していなかった態度なだけに、思わず気圧されてしまった。どうやら見た目ほど貧弱ではないらしい。黙っていると、男は誤解したようで、慌ててまた顔を伏せた。
「すみません。変な話して……」
「いや、聞いたの自分なんで」
しばらく沈黙が流れた。男がなにかいおうと口を開きかけた。店のドアが先に開いた。
「おはよー」
「おはようございまーす」
出勤前に食事を済ませてきたらしいママとホステスたちがぞろぞろと店に入ってきた。男が慌てて立ち上がる。
「あら、お客様?」
かなり印象がちがうためか、さすがのママも昨日きていた一見の客だとはすぐには気づいていないようだった。
「いえ、もう失礼しますから」
男がもたつきながらも財布を取り出す。千円札を抜き出し、カウンターに置いた。
「すみません。お茶代……」
「いいですよ。オープン前だし」
おれは手を伸ばして札を圧しもどした。
「そんなわけにはいきませんから」
相手も負けずに圧しつけてくる。やはり想像以上に強情な性格のようだ。
「でも、一口も飲んでないから」
「あ、そうでした」
男は躊躇なくグラスをつかみ、一気に半分ほど飲んだ。水滴の浮いたグラスを札の上に置き、頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
女たちの間を縫うようにして去っていく。制する間もなかった。三つ折り目のついた札を摘まんで、おれは頬杖をついた。よくわからない男だ。
「ねえ、これシボンのケーキじゃない?」
百貨店の袋を勝手に覗き込んで、結南が声を上げる。
「食べていいですよ」
「マジで! やったあ」
着飾った女たちが着飾ったケーキ箱に群がる。その様子を呆れたように眺めながら、ママがカウンターのこちら側に回ってきた。開店の準備をするため、棚からボトルを取り出す。
「今のひと、昨日もきてた?」
曖昧に頷く。
「知り合い?」
「いえ、全然」
嘘はついていない。名前も知らない相手だ。おれはグラスを拭く作業を中断し、女たちに声をかけた。
「オープンしますよ。準備してください」
「はーい」
羊飼いになった気分でケーキを頬張る女たちを待機室に追いやる。店の看板に灯を入れた。この日は香里の誕生日で、すぐに常連客が顔を見せ、たちまち満席になった。あの奇妙な男のことを考える暇はなかった。
まだママもホステスも出勤していない時間帯。おれはひとりで開店のための掃除をはじめていた。ドアが開いたことにも気づかなかった。トイレ掃除を終えてホールに出ると、ぼんやり突っ立っている男と鉢合わせになった。
「わっ、びっくりした」
「あ、すみません」
マスクをして、スーツではなく白いシャツにジャケットという姿だったが、声で昨日の男だとわかった。
「えっと、昨日……」
「はい、おぼえてますよ」
すぐに平静を取りもどし、おれは手にした掃除用具を手早く片付けた。
「まだ開店前なんですけど」
「そうですよね。すみません」
いちいち謝る男だ。おれはカウンターに回って手を洗った。その間も、男は居心地悪そうに、といって帰ろうともせず、視線を泳がせている。
「なにか飲んで待ちます?」
「あ、いえ、いいんです」
意を決したように、手に提げていた紙袋を突き出してくる。
「あの、これ、昨日のお詫びとお礼に……」
「おれにですか?」
男が頷く。そういえば、昨夜は謝りはしたが礼はいわなかった。気にしてはいなかったが。
袋の表面には銀座の百貨店のロゴが印刷されていた。なににしても高価そうだ。
「べつにいらないです。なんもしてないんで」
「でも……」
「それに」
おれはカウンターごしに手を伸ばして男のマスクをずらした。男は一瞬体を強ばらせたが、避けなかった。マスクの下の顔は腫れて、唇の端が切れていた。
「これ、おれのせいですよね」
「そんな……ちがいます。ぼくが……」
ため息。おれはマスクから手を離して、自分の頭を搔いた。やはり、あの男は腹いせに八つ当たりをしていたようだ。おれが下にいるのはわかっているのだから、文句があるなら直接くればいい。強い相手に立ち向かう代わりに弱い標的を見つけて憂さを晴らす連中は何度も見てきた。卑怯で、陰険だ。吐き気がする。
「だいじょうぶですか」
「あ、はい……」
男はマスクをもとの位置にもどした。一瞬見ただけだが、かなりひどそうだ。昨日おさめたはずの苛立ちが再び湧き起こってくる。
「なんなんすか、あいつ。彼氏?」
「彼氏……ではないと思います」
随分と歯切れが悪い。おおかた色恋営業のカモにされているというところか。
「じゃ、昨日うちにきてたもうひとりの出版社のほう?」
「ああ、やっぱり出版社の……」
口が滑った。おれはため息をついた。グラスに氷を入れ、緑茶を注ぐ。
「座って」
「いえ、ぼくは……」
「いいから、座って」
カウンターに緑茶のグラスを置く。男は躊躇しながらもカウンターの椅子に浅く腰掛けた。
「いつも暴力ふるわれるんですか」
深入りする気はなかったが、いくぶんかは責任を感じていた。グラスを整理しながら、おれは尋ねた。
「いえ、はじめてです。いつもは……」
緑茶には手をつけず、膝の上で指を組んで、男は俯く。
「いつもはやさしいですか」
「やさしい……ふつうだと思います」
やはり歯切れが悪い。おれはサディストではないが、その要素を持っている人間なら加虐性を刺激されそうだ。
「店にはよく行くんですか」
「そう……ですね。週に2回くらい」
「昨日は間違えてうちに入ったとか?」
そんなはずがないことはわかっていたが、答えやすいように質問した。
「そういうわけでは……記者のひとがいたの、見えたので、咄嗟に……」
「まあ、上の店に行くひとだったら、うちの店には用ないですよね」
相手が黙り込む。おれは差別的な人間ではないつもりだが、無意識に棘のある言葉になってしまった。取り繕うように話題を変えた。
「あの、芸能人かなんかとかですか」
「え?」
男は眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「ぼくが? まさか。なんでですか」
「週刊誌の記者に追っかけられてるから」
「ああ、そうか。そうですよね。いや、全然ちがうんです」
捲し立てるようにいって、男はひとりで何度も頷いた。
「あの、ぼく、実は弁護士をやってまして」
「弁護士」
公務員でも会社員でもなかった。約10年の水商売経験から、人間を見る目には自信があったが、勘ははずれていたようだ。
「今手掛けているのが、なんというか、すこしこう……センセーショナルというか、メディアによく取りあげられるものですから」
そういって男はいくつかの事件を挙げたが、すべて初耳だった。
「すんません。テレビもネットも見ないもんで」
六本木の店にいたときはそれなりに客と言葉を交わすために多少の時事ネタを仕入れてはいたが、ここではせいぜいゴシップネタくらいで、それも客やホステスの話に相槌を打つ程度だった。もともと関心がない。
「いえ、いいんです」
男がマスクの下で微笑む。落胆というよりはむしろ安堵しているように見えた。
「そのなかで、いわゆる性的少数者に関する訴訟があって……その、つまり、同性同士のカップルの権利を訴える内容なんですけど」
「はい」
「その担当をしているのがぼくで、ぼくは……その、ご存じのように、男が好きなタイプの男なんですけど、カミングアウトはまだしてなくて……」
「ゲイの弁護士がゲイの弁護しちゃいけないって法律あるんですか」
「いえ、ないです」
「じゃあべつにいいんじゃないですか。そういう店に行ってることばれても」
「そういう問題じゃないんです」
男はおれの目を真っ直ぐに見据え、はっきりいった。これまでの煮え切らない態度が嘘のように力のある声だった。
「カミングアウトのタイミングは自分で決めたいんです。だれかに追い立てられてしかたなくするんじゃなくて」
予想していなかった態度なだけに、思わず気圧されてしまった。どうやら見た目ほど貧弱ではないらしい。黙っていると、男は誤解したようで、慌ててまた顔を伏せた。
「すみません。変な話して……」
「いや、聞いたの自分なんで」
しばらく沈黙が流れた。男がなにかいおうと口を開きかけた。店のドアが先に開いた。
「おはよー」
「おはようございまーす」
出勤前に食事を済ませてきたらしいママとホステスたちがぞろぞろと店に入ってきた。男が慌てて立ち上がる。
「あら、お客様?」
かなり印象がちがうためか、さすがのママも昨日きていた一見の客だとはすぐには気づいていないようだった。
「いえ、もう失礼しますから」
男がもたつきながらも財布を取り出す。千円札を抜き出し、カウンターに置いた。
「すみません。お茶代……」
「いいですよ。オープン前だし」
おれは手を伸ばして札を圧しもどした。
「そんなわけにはいきませんから」
相手も負けずに圧しつけてくる。やはり想像以上に強情な性格のようだ。
「でも、一口も飲んでないから」
「あ、そうでした」
男は躊躇なくグラスをつかみ、一気に半分ほど飲んだ。水滴の浮いたグラスを札の上に置き、頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
女たちの間を縫うようにして去っていく。制する間もなかった。三つ折り目のついた札を摘まんで、おれは頬杖をついた。よくわからない男だ。
「ねえ、これシボンのケーキじゃない?」
百貨店の袋を勝手に覗き込んで、結南が声を上げる。
「食べていいですよ」
「マジで! やったあ」
着飾った女たちが着飾ったケーキ箱に群がる。その様子を呆れたように眺めながら、ママがカウンターのこちら側に回ってきた。開店の準備をするため、棚からボトルを取り出す。
「今のひと、昨日もきてた?」
曖昧に頷く。
「知り合い?」
「いえ、全然」
嘘はついていない。名前も知らない相手だ。おれはグラスを拭く作業を中断し、女たちに声をかけた。
「オープンしますよ。準備してください」
「はーい」
羊飼いになった気分でケーキを頬張る女たちを待機室に追いやる。店の看板に灯を入れた。この日は香里の誕生日で、すぐに常連客が顔を見せ、たちまち満席になった。あの奇妙な男のことを考える暇はなかった。
