「くそっ、なんなんだよ、ムカつく!」
 背後でタトゥ男の声が聞こえた。次に、嫌な音が続いた。短いうめき声。再び振り向くと、タトゥ男がスーツの男の腹を蹴っているのが見えた。
 咄嗟に体が反応した。おれはタトゥ男の服をつかんでこちらを向かせると、ピアスが嵌まった鼻に拳をたたきつけた。骨の歪む音がして、血が噴き出した。
 大量の血を流しながら、男が泣き叫ぶ。だらしなく尻をつき、両脚をばたつかせながら、両手で顔を覆っている。指の間から血が滴っている。
「いてえ! いてえよ! 血……血が出てる、血が……」
「うるせえなあ」
 血の量が多いのは血液が集中している箇所だからで、たいした傷ではない。おれは呆れて首を回した。関節が音を立てる。休みだからといって、昨日は寝すぎた。運動不足で体も鈍っている。
「やんだろ、こいよ、ほら」
 ほとんど戦意喪失しているはずだったが、後に退けなくなったのか、男は叫びながらおれのほうへ突進してきた。いちおう拳を振り上げてはいるが、隙だらけでまるでだだをこねる子どもだ。笑ってしまいそうになったが、なんとか耐えて拳らしきものをいなし、男の腹に膝をめりこませた。
 つぶれた蛙のような声を上げて、タトゥの男は盛大に吐いた。階段の踊り場に吐瀉物を撒き散らし、膝をつく。ブランドものらしいスニーカーは血とゲロにまみれていた。
「もう終わりかよ」
 うずくまっている男の丸まった背中を爪先で小突いていると、シャツの背中をつかまれた。振り返ると、スーツの男が蒼ざめた顔で立っていた。
「あの……もうだいじょうぶですから」
 震えた声でいって、タトゥの男に駆け寄る。男に肩を貸して立たせてやる。血や吐瀉物が服につくことに頓着することなく、全身で男の体重を支えた。足を縺れさせながら、階段を上がっていく。タトゥの男は意識が朦朧としているようで、されるがままだった。
 なんとなく釈然としない気分で、おれはふたりの背中を眺めた。どういう関係性か想像しようとしたが、やはり難しかった。
 ふと視線を落とすと、踊り場の隅に眼鏡が落ちているのが見えた。黒縁の眼鏡。かけていなかったのではなく、転げ落ちるときに飛んでいってしまったらしい。
「ちょっと」
 声をかけると、スーツの背中がびくっと跳ねた。
「はい……」
 声には戸惑いに加えて恐怖の色が濃くなっていた。舌打ちをこらえ、眼鏡を拾い上げた。
「これ」
「あ……すみません」
 おれが差し出した眼鏡を受け取るために、スーツの男が手を伸ばす。目を合わせようとはしない。おどおどとした態度はいかにも被虐的だった。一瞬指が触れあうと、またびくっと反応する。助けてやったはずなのに、これではおれのほうが悪人のようだ。
 おれは無言で眼鏡を返し、店にもどった。そのあとのことは知ったことではない。
 よけいなことに首を突っ込まない主義だというのに、あっさりと曲げてしまった。若干の後悔を抱きながら、おれは片付けを済ませ、店を出た。週のはじめに無駄な骨を折ってしまった。
 エレベータを待ちながら、おれはあのスーツの男を思い出していた。終電で帰るといっておきながら、上の階の店に行っていたらしい。エレベータ内部の壁面には各階の店名が記されている。「彩」は4階、上の5階には2店舗入っているが、1軒は先月末で退去した。もう1軒はボーイズクラブとなっているが、ターゲットは男だ。上がゲイバーだから競合にはならないとママが以前話していた。
 あの眼鏡、無事に帰れただろうか。おれがしゃしゃり出たことで、かえってややこしいことになっていなければいいのだが。
 心配が的中したことを、おれは翌日に知ることになる。