シャワーを浴び、宥人がつくった朝食を食べて、身支度を整えた。
「LGBTフレンドリーな賃貸不動産屋さんってのが最近あって、同性でも契約できて、住みやすいようにいろんな配慮をしてくれるんだ。支援団体のひとが教えてくれた」
 アパートの階段を降りながら、宥人の声は弾んでいる。
「そんなに引っ越したいの?」
 宥人の後をのんびり歩きながら、はしゃぐ様子を好ましく眺める。
「たしかに狭いし宥人さんの職場からも遠いけどさ」
「それはいいんだけど……」
「あ、壁が薄いからか」
 宥人が耳まで赤くなる。
「善くんは気にしないかもしれないけど、おれはじろじろ見られて嫌なんだよ」
「おれのことはだれも見てこないけど」
「それは善くんの見た目が……なんていうか、いかついからだよ」
 なるほど、と思った。苦情や陰口すらも相手を見て優位に立てるかどうか見極めてからというわけだ。並外れた忍耐力と精神力を持つ宥人が一見してそう見られないように、おれのことを外見の印象から乱暴で粗野な男だと判断する者も多いのだろう。それは、まあ当たらずといえども遠からずといったところか。
「わかった。すぐ引っ越そう」
「ほんとに?」
「うん。宥人さんがいいと思う物件だったらどこでもいい」
「だめだよ。ふたりで決めないと」
 駅までの舗道を歩く途中、おれはふと足を止めた。宥人はそのまますこし先まで歩をすすめ、隣におれがいないことに気づいて踵を返した。
「善くん?」
 おれがぼんやり立ち竦んでいるのを見て、訝しげに眉を寄せる。
「どうかした?」
「いや……」
 行き交う通行人やそよぐ風や揺れる街路樹の枝を眺めていると、不思議な感覚に陥った。宥人が引き返してくる。
「なに?」
「いや、なんか……世界ってこんな感じだったかなって思って」
 口にした瞬間、後悔した。自分でも妙なことを口ばしってしまったと気づいていた。不審に思われたかもしれない。おそるおそる宥人の表情をうかがう。宥人は馬鹿にすることもなく、にっこり微笑んだ。
「行こう」
 手を差し出され、なにも考えずに握った。おれたちは互いに指を絡め、身を寄せあって駅まで歩いた。すれ違いざまに視線を向けてくる通行人はいたが、不躾に観察したり嗤ったりするような者はなかった。宥人がいうところの「いかつい」おれの見た目のせいかもしれないが、直接文句をいってくる者もない。
 不動産屋にしてもそうだが、十年、二十年前には、もっと生きづらい社会だったにちがいない。当事者になってはじめて、周囲の無理解や無関心に気づいた。今こうして好きな相手と暮らし、手を繋いで歩いていられるのも、宥人の前やその前に宥人とおなじように力を尽くしてきたひとたちがいたおかげなのだろう。
 宥人と出会って世界の見え方が変わった。おなじもののはずなのに、すべてがちがって見える。それはきっと単に恋のためだけではないはずだ。
 宥人の手を握ると、おなじつよさで握り返してくる。踏切の前で立ち止まった。電車が通りすがり車輪が線路を擦る音と警告音が混じりあう。この先にどんな未来が待っているのかわからないが、おれがこの手を離すことはないだろう。そう思った。
 あの非常階段で宥人が降ってきたように、だれにもおなじようにチャンスが降ってくるとは限らない。それでもおれたちは生きて、前に進んで行かなくてはならないのだ。
 道を遮り、反対側と隔てていた遮断機が持ち上がった。おれは宥人の手を取り、ゆっくりと一歩、踏み出した。


おわり。