かすかな物音で目を覚ました。宥人が料理をしているらしく、味噌汁の匂いがする。食欲をそそる匂いだ。
両腕を引き上げ、ベッドの上で全身を伸ばす。欠伸が漏れた。全裸で起き上がり、ボクサーパンツだけを履いて、キッチンを覗いた。
宥人はおれのシャツを着ていた。サイズが大きく、腿まで隠れているが、下着を履いているだけなのか、白い脚が見えている。おれが起きたことにまだ気づいていないようで、こちらに背中を向け包丁で野菜かなにかを切っている。ゆっくり近づき、後ろから抱きこんだ。
「わ、びっくりした」
宥人が声を上げる。
「包丁持ってるときは触らないでっていってるのに」
文句をいいながらも包丁を置き、おれの腕に触ってくれる。首を捻り、おれの唇にキスする。
「おはよう。服、洗濯して畳んであるよ」
「おはよう」
おれもぼんやりしながら答えた。宥人の首すじに鼻先を埋め、呻く。
「なんかすげえな」
「なにが?」
「起きたらメシができてて、服が洗われてて、好きなひとがいるってやばくね?」
「まだそんなこという?」
「しかもなんかエロい格好してるし」
宥人が笑う。付き合いはじめて半年になる。宥人はネット民に場所が特定されたマンションには帰らず、この狭いアパートでいっしょに生活している。
付き合う前と変わらず、宥人はおれのために食事を用意し、掃除や洗濯をしてくれていた。さらに、仕事上付き合いのある関係者に推薦するかたちで、新宿西口に新たにオープンしたラグジュアリーホテルのレストランの職を見つけてきた。おれは夜の店を辞め、昼の時間に働くことにした。昼夜逆転の生活で宥人と顔を合わせるために睡眠時間を削る必要もなくなった。
ママもホステスたちも快く送り出してくれた。ただし、宥人と付き合ったことを報告すると、ネット上とは比較にならないほどのブーイングを受けた。三十代の独身かつ実家が太く持ち家があり性格がやわらかな宥人を狙っている女たちは予想以上に多かったらしい。半分冗談ではあったが、女たちの嫉妬の的になりながら、おれは後任の黒服に1か月かけて仕事を引き継ぎ、円満に店を去った。六本木を追われる身になったおれを拾ってくれたママには一生頭が上がらない。
新しい職場にもすぐに慣れた。十代から接客業をして、客のあしらいかたは承知している。ウエイターとしての業務は黒服のそれに近いものがあり、まったくの異業種ではなかったこともあって、数カ月でどうにか動けるようになった。生活リズムも比較的短い時間で体に馴染んだ。シフト制だが、帰宅が深夜になることはない。水商売しかしてこなかったおれが朝早く起きて夕方に帰宅するなど、上京してきたばかりの頃なら想像さえできなかったはずだ。
「ごはんつくりたいんだけどな」
宥人の腹の前で指を組み、首や髪の匂いを嗅いでいると、宥人が抗議の声を上げた。
「ちょっとだけ」
「だめだって。早くシャワー浴びてきて」
「いいじゃん。休みなんだしゆっくりしようぜ」
「……もしかして忘れてる?」
宥人の口調が変わり、おれは動きを止めた。
「まさか。ちゃんとおぼえてる」
宥人が振り返り、おれの前で腕を組む。こうなったらおれのほうが圧倒的に弱い。
「ほんとにおぼえてた。今日は不動産屋に行くんだろ?」
「絶対今思い出したよ……」
呆れたようにいって、宥人は再びおれに背を向け、調理を再開した。
「お母さんが漬けたキムチ?」
宥人の肩ごしに手を伸ばして、皿の上のキムチをつまみ食いする。
「そう。たくさんもらってきた。だれかさんが褒めすぎるから調子に乗ってしょっちゅうつくりすぎるんだよ」
付き合ってすぐに宥人の実家へ挨拶に行った。ネットで動画が晒されて、すでに顔を知られている。こっそり付き合う意味はない。
相手の親に会うなど経験がなく、すくなからず緊張したが、家族は盛大に歓迎してくれた。両親と妹たちがつくった料理を食べ、宥人の甥や姪たちと遊び、気づいたら家族の一員のようになっていた。宥人の性格から想像はできていたが、やさしく穏やかで愛にあふれた家庭だった。家族というものをほとんど知らないおれには眩しかった。
民衆は飽きっぽいものだというが、あれだけの騒動にもかかわらず、1か月もするとだれも宥人の性的指向に関心を示さなくなった。まるでずっと前からカミングアウトしていたかのように、宥人はこれまでとおなじように弁護士としての職務をこなしながらメディアにも積極的に顔を出して弱者救済を訴えつづけている。むしろ、性的少数者の当事者として出演機会は以前より増加していた。
個人情報を流布したユーチューバーや拡散したアカウントの特定と起訴も順調にすすんでいる。マオリは薬物の密売で実刑判決を受け、檻のなかだ。顧客のなかに例の元彼代議士も名を連ねていたそうで、週刊誌の記者も宥人に構っている暇はなくなったようだ。こちらは現役の政治家が違法薬物に手を染めたということでいまだ新聞やテレビを賑わせているが、宥人と関連づける情報は出てこなかった。
「選挙にも行かないとね」
「そうだった。いつだっけ?」
「来週」
もうすぐ衆議院だか参議院だかの議員を決めるための選挙があるらしく、宥人に投票を勧められていた。投票場に行ったことは一度もない。それが当然だと思っていた。
「だれに投票したらいい?」
「それは自分で決めないと」
キッチン台にもたれて宥人が鍋をあたためる姿を眺めながら、いった。
「同性同士の結婚に賛成の候補者はだれ?」
宥人が手を止め、こちらを向いた。泣きそうな顔で微笑んだ。はじめておれに好きだといってくれたときと似た表情だった。おれが手を伸ばすと、宥人が握り返してきた。調理中に水に触れたらしくすこし湿って心地よい手の甲を指の腹で擦る。
「住民票を取るときにね」
おれの指を見つめながら、宥人はいった。
「善くんのお母さんの現住所も調べてきた」
指を擦る手を止め、宥人を見た。
「お母さん、再婚して、今は熊本に住んでるみたい。子どももふたり生まれたんだって。善くんの弟と妹」
宥人の指を握る手に力をこめた。宥人が不安げな視線を向けてくる。
「勝手なことしてごめん」
もう片方の手も添えて、おれの手を包みこみ、表情をうかがうように上目遣いで見つめてくる。
「怒った?」
「怒るわけない」
腰に腕を回し、抱き寄せた。
「ほんとにごめん。おれ……善くんのお母さんに会ってみたいと思って。でも、利己的だった」
宥人は俯いて、本心から反省しているようだったが、嫌悪感や抵抗感はなかった。これまで親のことなど思い出すことさえなかったが、宥人の家族と親しく付き合うようになり、どうしているのか気になることが時折あった。向こうがどういう人生を送っているのかは知らないが、結婚して子育てをしているのなら、おれが子どもの頃のような自堕落で破綻した生活では、すくなくともないだろう。おれに弟と妹がいるなら会ってみたいという気持ちもあった。
「もうすこし先になるとは思うけど、そのうちいっしょに会いに行こう」
そう告げると、宥人はパッと顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんとだよ。熊本で温泉にでも入って……」
宥人が体をぶつけるように抱きついてきて、おれは言葉を切った。
「嫌われたかと思った……」
おれの腰に腕を回し、きつく身を寄せて、宥人が大きく息をつく。胸が詰まった。
「おれが宥人さんを嫌いになると思う?」
「わかんないけど……」
語尾が掠れた。おれは宥人の背中を撫で、頭頂部に唇を圧しあてた。
「休みを合わせて温泉旅行の計画立てよう。楽しみだろ?」
「うん」
宥人は素直に頷いて体を離した。
「でもその前に引っ越しの計画から」
また忘れそうになっていた。おれは宥人の独特のペースに乱されるのを心地よく思いながら、いいつけどおりにバスルームに移動した。
両腕を引き上げ、ベッドの上で全身を伸ばす。欠伸が漏れた。全裸で起き上がり、ボクサーパンツだけを履いて、キッチンを覗いた。
宥人はおれのシャツを着ていた。サイズが大きく、腿まで隠れているが、下着を履いているだけなのか、白い脚が見えている。おれが起きたことにまだ気づいていないようで、こちらに背中を向け包丁で野菜かなにかを切っている。ゆっくり近づき、後ろから抱きこんだ。
「わ、びっくりした」
宥人が声を上げる。
「包丁持ってるときは触らないでっていってるのに」
文句をいいながらも包丁を置き、おれの腕に触ってくれる。首を捻り、おれの唇にキスする。
「おはよう。服、洗濯して畳んであるよ」
「おはよう」
おれもぼんやりしながら答えた。宥人の首すじに鼻先を埋め、呻く。
「なんかすげえな」
「なにが?」
「起きたらメシができてて、服が洗われてて、好きなひとがいるってやばくね?」
「まだそんなこという?」
「しかもなんかエロい格好してるし」
宥人が笑う。付き合いはじめて半年になる。宥人はネット民に場所が特定されたマンションには帰らず、この狭いアパートでいっしょに生活している。
付き合う前と変わらず、宥人はおれのために食事を用意し、掃除や洗濯をしてくれていた。さらに、仕事上付き合いのある関係者に推薦するかたちで、新宿西口に新たにオープンしたラグジュアリーホテルのレストランの職を見つけてきた。おれは夜の店を辞め、昼の時間に働くことにした。昼夜逆転の生活で宥人と顔を合わせるために睡眠時間を削る必要もなくなった。
ママもホステスたちも快く送り出してくれた。ただし、宥人と付き合ったことを報告すると、ネット上とは比較にならないほどのブーイングを受けた。三十代の独身かつ実家が太く持ち家があり性格がやわらかな宥人を狙っている女たちは予想以上に多かったらしい。半分冗談ではあったが、女たちの嫉妬の的になりながら、おれは後任の黒服に1か月かけて仕事を引き継ぎ、円満に店を去った。六本木を追われる身になったおれを拾ってくれたママには一生頭が上がらない。
新しい職場にもすぐに慣れた。十代から接客業をして、客のあしらいかたは承知している。ウエイターとしての業務は黒服のそれに近いものがあり、まったくの異業種ではなかったこともあって、数カ月でどうにか動けるようになった。生活リズムも比較的短い時間で体に馴染んだ。シフト制だが、帰宅が深夜になることはない。水商売しかしてこなかったおれが朝早く起きて夕方に帰宅するなど、上京してきたばかりの頃なら想像さえできなかったはずだ。
「ごはんつくりたいんだけどな」
宥人の腹の前で指を組み、首や髪の匂いを嗅いでいると、宥人が抗議の声を上げた。
「ちょっとだけ」
「だめだって。早くシャワー浴びてきて」
「いいじゃん。休みなんだしゆっくりしようぜ」
「……もしかして忘れてる?」
宥人の口調が変わり、おれは動きを止めた。
「まさか。ちゃんとおぼえてる」
宥人が振り返り、おれの前で腕を組む。こうなったらおれのほうが圧倒的に弱い。
「ほんとにおぼえてた。今日は不動産屋に行くんだろ?」
「絶対今思い出したよ……」
呆れたようにいって、宥人は再びおれに背を向け、調理を再開した。
「お母さんが漬けたキムチ?」
宥人の肩ごしに手を伸ばして、皿の上のキムチをつまみ食いする。
「そう。たくさんもらってきた。だれかさんが褒めすぎるから調子に乗ってしょっちゅうつくりすぎるんだよ」
付き合ってすぐに宥人の実家へ挨拶に行った。ネットで動画が晒されて、すでに顔を知られている。こっそり付き合う意味はない。
相手の親に会うなど経験がなく、すくなからず緊張したが、家族は盛大に歓迎してくれた。両親と妹たちがつくった料理を食べ、宥人の甥や姪たちと遊び、気づいたら家族の一員のようになっていた。宥人の性格から想像はできていたが、やさしく穏やかで愛にあふれた家庭だった。家族というものをほとんど知らないおれには眩しかった。
民衆は飽きっぽいものだというが、あれだけの騒動にもかかわらず、1か月もするとだれも宥人の性的指向に関心を示さなくなった。まるでずっと前からカミングアウトしていたかのように、宥人はこれまでとおなじように弁護士としての職務をこなしながらメディアにも積極的に顔を出して弱者救済を訴えつづけている。むしろ、性的少数者の当事者として出演機会は以前より増加していた。
個人情報を流布したユーチューバーや拡散したアカウントの特定と起訴も順調にすすんでいる。マオリは薬物の密売で実刑判決を受け、檻のなかだ。顧客のなかに例の元彼代議士も名を連ねていたそうで、週刊誌の記者も宥人に構っている暇はなくなったようだ。こちらは現役の政治家が違法薬物に手を染めたということでいまだ新聞やテレビを賑わせているが、宥人と関連づける情報は出てこなかった。
「選挙にも行かないとね」
「そうだった。いつだっけ?」
「来週」
もうすぐ衆議院だか参議院だかの議員を決めるための選挙があるらしく、宥人に投票を勧められていた。投票場に行ったことは一度もない。それが当然だと思っていた。
「だれに投票したらいい?」
「それは自分で決めないと」
キッチン台にもたれて宥人が鍋をあたためる姿を眺めながら、いった。
「同性同士の結婚に賛成の候補者はだれ?」
宥人が手を止め、こちらを向いた。泣きそうな顔で微笑んだ。はじめておれに好きだといってくれたときと似た表情だった。おれが手を伸ばすと、宥人が握り返してきた。調理中に水に触れたらしくすこし湿って心地よい手の甲を指の腹で擦る。
「住民票を取るときにね」
おれの指を見つめながら、宥人はいった。
「善くんのお母さんの現住所も調べてきた」
指を擦る手を止め、宥人を見た。
「お母さん、再婚して、今は熊本に住んでるみたい。子どももふたり生まれたんだって。善くんの弟と妹」
宥人の指を握る手に力をこめた。宥人が不安げな視線を向けてくる。
「勝手なことしてごめん」
もう片方の手も添えて、おれの手を包みこみ、表情をうかがうように上目遣いで見つめてくる。
「怒った?」
「怒るわけない」
腰に腕を回し、抱き寄せた。
「ほんとにごめん。おれ……善くんのお母さんに会ってみたいと思って。でも、利己的だった」
宥人は俯いて、本心から反省しているようだったが、嫌悪感や抵抗感はなかった。これまで親のことなど思い出すことさえなかったが、宥人の家族と親しく付き合うようになり、どうしているのか気になることが時折あった。向こうがどういう人生を送っているのかは知らないが、結婚して子育てをしているのなら、おれが子どもの頃のような自堕落で破綻した生活では、すくなくともないだろう。おれに弟と妹がいるなら会ってみたいという気持ちもあった。
「もうすこし先になるとは思うけど、そのうちいっしょに会いに行こう」
そう告げると、宥人はパッと顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんとだよ。熊本で温泉にでも入って……」
宥人が体をぶつけるように抱きついてきて、おれは言葉を切った。
「嫌われたかと思った……」
おれの腰に腕を回し、きつく身を寄せて、宥人が大きく息をつく。胸が詰まった。
「おれが宥人さんを嫌いになると思う?」
「わかんないけど……」
語尾が掠れた。おれは宥人の背中を撫で、頭頂部に唇を圧しあてた。
「休みを合わせて温泉旅行の計画立てよう。楽しみだろ?」
「うん」
宥人は素直に頷いて体を離した。
「でもその前に引っ越しの計画から」
また忘れそうになっていた。おれは宥人の独特のペースに乱されるのを心地よく思いながら、いいつけどおりにバスルームに移動した。


