スマホを充電し、その間にシャワーを浴びた。コーヒーを淹れ、ソファを背中に床に直接座った。宥人はおれの脚の間に体を滑らせ、おれは宥人の背後から腕を回した。宥人がスマホの電源をオンにするのを肩ごしに見ていた。
 だいぶ落ち着いたとはいえ、宥人の肩は緊張で強張っていた。掌でていねいに撫でると、振り向いて笑顔を見せた。首を伸ばして軽くキスする。
「高校の頃、好きな先輩がいたんだけど」
 おれの肩から肘にかけて指先でなぞりながら、宥人は独白のようにいった。
「だれかがおれのことあやしいって、ホモっぽいっていい出して。必死で隠して誤魔化してたから、直接いじめられたりからかわれたりすることはなかったけど、なんとなく変な感じのまま卒業して……カミングアウトはこわかった。いつかはするべきだとわかってはいたんだけど……」
 電源が入ると、スマホのディスプレイに通知を報せる表示が並ぶ。朝の6時過ぎにもかかわらず、SNSもLINEもメールも着信も驚異的な数の通知が記録されていた。
 宥人が大きく息をつく。着信は家族や友人らしき名前が並んでいる。LINEやメールも友人や依頼人、支援しているひとたちが多く、たいていは宥人を励ます内容のようだ。
 そしてSNSだ。アプリを起動させるとき、宥人の指先が震えたのがわかった。
 暴露から数時間。SNSは批判の嵐だった。ただし、その対象は宥人ではなく暴露系だか迷惑系だかのアカウントの持ち主や拡散した連中だった。
 はじめのうち、宥人の淫らな姿に対する反応はまちまちだった。マイノリティの味方としてメディアで主張を展開していた弁護士が、実はおなじように同性を恋愛対象にしていた事実は、大衆の好奇心をおおいに刺激した。ゴシップを楽しむ者、偽りの姿でカメラの前に立っていたことを批判する者、それぞれ勝手なことを悪辣に書き殴っていた。深夜の投稿にもかかわらず、コメントだけでも数百という数になっていた。
 潮目が変わったのは、続報が出てからだった。宥人の自宅で待ち伏せ、本人を突撃したユーチューバーたちは、おれたちの動画を我先にとアップロードしていた。さらに投稿数を稼げると思ったのだろう。しかし複数の人間が一度に撮影したため焦ったのか、判断力を欠いたようだ。
 動画のなかで、柄の悪い大柄な男が喚いている。「彼氏登場!」、「半グレ風の男に脅された!」とセンセーショナルな文字が躍る。
「半グレだって」
 宥人が肩を丸めて笑う。ショックを受けているのは間違いないが、おれに心配させまいと隠している。
「おれ、そんな悪そうに見える?」
 拗ねたような口調をつくると、宥人はさらに笑った。
 新キャラの登場でネットはさらに湧いた。しばらくは揶揄や中傷がつづいたが、すぐに状況は変化していった。「ていうか、彼氏、正論しかいってなくね?」、「独身で成人してるなら付き合っててもまったく問題ないだろ」、「そもそもカミングアウトしてなかったのってダメなの? 個人の自由じゃない?」、「ネットでアウティングとか完全に被害者じゃん」、「そもそもこの動画ってどっちも盗撮だよね?」、「最初のやつなんか怪我してるしひょっとして無理矢理なんじゃない? だとしたら犯罪だよね」といった言葉が並び、批判の矛先が宥人からユーチューバーたちに変わった。宥人のアカウントに注目する人間は激減し、粘着していた連中も犬笛につられて移動する羊たちのようにぞろぞろと大挙して去っていった。
 世間の価値感とはあやふやなもので、一度標的が定まってしまうともう後戻りはできない。宥人を追いこもうとしたやつらは一気に犯罪者扱いされ、ネット上に批判があふれた。宥人に対して嘘つき呼ばわりしていた連中さえ、ほんの数時間前の自身の発言を忘れたかのように簡単に掌を返して、新たな標的を攻撃している。殺伐としたタイムラインを眺めているうちに、うんざりした。もともと関心を持っていなかったが、ネットというものへの嫌悪は増すばかりだ。悪臭漂うネット社会のなかでひとり矢面に立たされ、数千、数万の差別主義者や傍観者を相手に、弱者の権利を主張して闘っていた宥人の孤独と不安を思うと、腕のなかの体を抱きしめずにはいられなかった。
「ありがとう」
 おれの胸に体重を預けて、宥人がゆっくり息を吐く。
「善くんがいなかったら、乗り越えられなかった」
 このままでは宥人が壊れてしまうという集会の参加者たちの言葉を思い出した。そのときは本気にしなかったが、いわゆる炎上という現象を間近で見て、さらには自身が当事者になると、どれほど逞しい人間でも参ってしまうだろうと思えた。
 宥人は心配して連絡をよこした友人たちに電話やメール、LINEで1件1件返信していった。その数は膨大で、何時間もかかった。職場の上司や同僚は非難するどころか心配して、年休を取るように勧めてきた。おれも賛成だった。宥人は素直に受け容れ、おれが淹れた2杯目のコーヒーを飲んだ。準レギュラーとして定期的に出演するテレビ番組のディレクターや連載を持つ新聞の担当デスクも、宥人の立場を尊重し、同情と連帯を示した。弁護士として支援している団体や活動家も当然ながら宥人を理解し、くるしみに気づかなかったことを詫びた。宥人の善意に甘えて支援を甘受していたことに罪悪感をおぼえているようだったが、宥人は気にしないでほしいとはっきり伝えた。宥人はすべてにおいて真摯に応えた。
 唯一、感情が揺れたのは、家族に報告するときだった。おれは宥人のそばにぴったり寄り添い、スマホを持っていないほうの手を握っていた。おれの指をきつく握りしめ、宥人は母親に電話した。
 両親や妹たちは宥人のアカウントをあえてフォローしていないようだったが、周囲の噂が耳に入ったのか、すでに事態を把握していた。両親は息子が同性愛者だということにまったく気づいていなかった。父親は謝罪し、回線の向こうに母親の嗚咽が聞こえた。これからもなにひとつ変わることなく、すべてを受け容れると両親は息子に告げ、その言葉を聞いて、宥人は目を潤ませた。
 すべての連絡を終え、次に取り掛かったのは声明文の準備だった。同性愛者であることも男性の恋人がいることもすべて事実であること、ただしネットに晒された裸の写真や動画はべつの人間に撮影され、同意の上での行為ではなかったこと、投稿者や誹謗中傷したアカウントの個人情報を突き止め、名誉毀損、侮辱罪、権利侵害を立証し告訴する準備があることなどを直筆で紙にしたためた。家族や勤務先、交際相手は無関係であり迷惑をかけないよう釘を刺すことも忘れなかった。スマホのアプリでスキャンし、自身のアカウントにアップロードした。
 ボールペンで一筆一筆ていねいに字を書く宥人の横顔も、紙に並んだ文字そのものも美しく、おれはただ見とれていた。
 宥人が自身の見解と対応を明確に示すと、再び通知が烈しくなり、スマホがひっきりなしに震えた。宥人は通知をオフに設定し、スマホをベッドの上に放り投げた。横でぼんやり眺めていたおれを見てにっこり微笑み、思い切り抱きついてきた。不意をつかれ、おれは宥人の下敷きになってだらしなく床に転がった。
「宥人さんって」
「なに」
「ほんとかっこいいよな」
「え?」
 おれの頬に鼻先を擦らせ、宥人が笑う。
「なにそれ。よく頑張ったねって褒めてくれないの?」
「よく頑張った。えらいよ、ほんとに」
 おれは即座にいって、まだすこし湿った髪を撫でた。本心だった。だれも経験したことがないような状況で、冷静に的確な行動が取れる人間はそういない。
「頑張ったご褒美ほしい?」
 耳元で囁くと、屈託のない笑顔で頷いた。瞳が濡れてきらきら輝いている。決して美形とはいえない、平凡な顔のはずだったのに、今ではため息が漏れるほどかわいい。かわいくてたまらない。
 ああ、おれは本当にこのひとのことが大好きなんだな。
 あらためて実感し、おれも笑った。
 互いに笑いながらキスした。おれのパーカーを着た宥人の腰を抱き寄せ、体を反転させた。体勢を変え、さらにくちづけを深める。宥人は従順におれの舌の動きに呼応して舌先を絡めた。
「おれと付き合ってるって、家族とか友達とかフォロワーとかみんなにいってくれた」
 パーカーの裾から手を滑りこませながら、いった。
「めちゃくちゃうれしかったよ」
 宥人はにっこり笑っておれの顔を両手で包みこんだ。額同士を擦りあわせ、微笑みあう。ついさっきまでネット上の醜悪なやりとりを眺めていたのが嘘のような穏やかで愛にあふれた時間だ。
 パーカーを脱がせると、宥人の表情が変わる。やさしい笑顔から熱を孕んだ表情に。
 週刊誌の記者は宥人を「魔性」と形容したが、その表現はあながち的外れでもない。しかし、宥人に責任はない。問題は対峙する相手のほうにある。だれかに好かれ、求められたい一心で心を尽くし、体を捧げる純真さにいつの間にか依存し、失う恐怖に疑心暗鬼になってしまうのだ。その気持ちはよくわかった。おれだって、気づいたら宥人のことばかり考えるようになっていた。そして手に入れた今も、この先もし他の男に心変わりされることがあったらと想像し、昏い感情が渦巻いている。未知の自分が首を擡げ、これまで体験したことのない不思議な恐怖心が芽生えていた。そうさせているのが宥人だという意味では、たしかに、作為的でないとはいえ、魔性といえるだろう。
 好きになりすぎて恐ろしいと宥人は泣いたが、おれもおなじだった。こんな気持ちになれる相手は宥人以外に見つからないだろう。
 おれの体の下で、宥人は身を反らして感じている。すでに熱中して、ネットのことも仕事のこともすべて忘れているように見える。実際に、こうしている間だけは忘れられるのかもしれない。もしそうだとしたら、おれも宥人の助けになれるわけだ。
「今日、仕事休みになったんなら、一日中できるね」
 おれの言葉に宥人は笑った。かわいい笑顔だった。おれは宥人の小柄な、しかしその外見からは想像もつかないほどつよい体をしっかりと抱きしめた。