閉店後、宥人が店にきた。珍しいことだった。おれのアパートに直接くるようになってからは、以前のように顔を見せることはすくなくなっていた。
「宥人さん。どうしたの」
洗いものをしていた手を止め、濡れた手を拭きながら迎える。
「近くまできたから寄ってみた。ちょっとだけいい?」
「どうぞ」
宥人のためにコーヒーを淹れた。近所にきたついでだというのが嘘だとわかっていた。今夜、宥人は港区の東京出入国在留管理局にいたからだ。弁護士として出席した記者会見が生中継されていた。宥人のSNSを通じてすこしだけ視聴したのが数時間前。雑務を片づけ、その足でここへきたのだろう。
コーヒーカップを傾ける宥人の横顔には疲労の色が濃かった。その理由もわかっている。宥人がサポートしているアフリカ出身の同性愛者の女性に対してビザの発行が認められなかったからだ。宥人と支援者たちは会見で国内に在留している難民の境遇や権利を主張していた。
心労がかさんでいるのだろう。宥人は眼鏡を取り、親指と中指の腹で眉間を指圧している。おれの視線に気づくと、照れたような笑顔を見せた。
「体調、どう?」
「おかげで完全復活だよ」
自分のぶんのコーヒーを淹れながら、おれはいった。
「宥人さんは? 疲れた顔してるけど」
「そんなに疲れて見えるかなあ」
わずかに語尾を伸ばして、宥人はカウンターに両肘をつき、掌で顔を覆った。
「今日はいろいろあったから」
「たいへんだね」
おれは自分のカップを手にカウンターの外側に出た。宥人の隣に座る。
数時間前に画面ごしに見た宥人はいかにも頼りになる弁護士といった印象で、入管の対応を厳しく糾弾していた。しかし、今目の前にいる宥人は張り詰めていた緊張を解き、理不尽と権力との戦いの合間、他では決して見せることのない不安を覗かせている。そうとうの緊迫感だったのだろう。ふだんはおれにさえ弱みを見せないのに、今日はすっかり落ち込んで、表情が暗い。
「だいじょうぶ?」
思わず手を伸ばしていた。スーツの肩に指を触れさせる。
「うん」
宥人はかろうじて微笑んだが、ふだんのような力はなかった。ボトル棚をぼんやり眺め、ため息をつく。
「だめだね。おれがしっかりしなきゃいけないのに」
「宥人さんだってたまには弱音吐いたっていいよ」
「ありがとう」
いつも以上に小さく見える宥人に、おれは戸惑いと躊躇いを感じていた。あのマオリも、5階の店でこんなふうに物憂げな面差しを見つめていたのだろうかと思った。
「宥人さん」
「ん?」
宥人が振り向く。
「なに?」
ずっと聞きたかったこと。おれは迷いながらも口をひらいた。
そのとき、店の外でなにかが倒れるような音がした。同時に、大人数の足音。団体客がくるような店舗はこのビルにはないし、時間帯も遅すぎる。不穏な空気。おれは無意識に立ち上がっていた。
「なんだろ」
「ちょっと待ってて」
宥人を置いて、非常口に出る。ドアを細く開けると、男が数人階段を上がってくるのが見えた。スーツ姿と制服姿が入り交じっている。一見して警察の人間だとわかった。咄嗟にドアを閉めた。血流が烈しくなる。
「なんだった?」
宥人が立ち上がってこちらへこようとするのを手で制した。
「なんでもない」
「けど……」
ただごとでない気配を感じたのか、宥人も緊張した様子でおれを見ている。
「上になにかあるの?」
さすがに察しがいい。おれの脇を抜けて非常階段に出ようとする宥人の腕をつかんだ。
「なんもないって」
「ちょっと様子見に行くだけだから」
「今はだめ」
「今は?」
わずかな言葉尻をとらえて、宥人は眉を顰めた。
「なにか知ってる?」
「なにも知らないよ。ただ……」
真っ直ぐに目を見つめられ、たじろいだ。
「とにかく、ここにいろ」
反対側のエレベータのほうからも複数の足音がした。低い声も聞こえる。なにをいっているのかまではわからないが、緊迫感を孕んでいる。表裏で挟み撃ちにするつもりらしい。
宥人はおれに背を向け、店の入口に足を進めようとした。腕を強く引いて止めた。
「行くなって」
「なんで!」
宥人が振り返る。さっきまでの弱々しさは消え失せ、強い意志が宿った瞳がおれをしっかりととらえていた。
「外を確認するだけだろ」
「おれが見てくるから」
「いっしょに行く」
「行かせない」
「だからなんで」
「おれが行かせたくないからだよ!」
思わず語気を強めた。宥人の表情が変わる。こうなると誤魔化しはきかない。
「わかった。説明する」
もう片方の腕もつかんで椅子に座らせると、おれは宥人の目を見ながらいった。
「知ってるかどうかわからないけど、あの店では客に違法薬物を提供してるか、店内で楽しむのを黙認してる」
宥人の顔色が変わる。どうやら知らなかったらしい。
「ガサが入るのは時間の問題だった。それがたまたま今日だっただけだ」
宥人は黙っていた。床を見つめたまま、いった。
「なんで善くん知ってるの」
「それは……」
口ごもりながらも答えた。
「おなじビルなんだから自然と耳に入る」
宥人が顔を上げておれを見る。視線を受け止めるのが精一杯だった。こんなにも小柄で、頼りなく見えるのに、宥人の視線はつよすぎる。
「善くん」
腕をつかむおれの手に触れ、宥人はいった。
「おれ、マオリの助けになりたいと思う」
宥人の言動はいつも予想がつかない。おれはため息をついた。
「なんでだよ」
「こういうときに頼れるひとはほかにいないと思うし……」
「そういうことじゃねえよ!」
思わず声を荒らげた。呼吸がくるしくなりはじめている。
「なんであんなやつのこと助けるんだよ。そんな義理ないだろ。逮捕されたって自業自得だし、宥人さんのことだってヤク漬けにしようとしてたかもしれない」
「でもしてないよ」
言葉に詰まった。宥人はまったく臆していなかった。相変わらず澄んだ眼差しでおれを見ていた。
「マオリはそんなことしない」
「なんでわかるんだよ」
吐き捨てた。聞きたかったことを聞いた。
「好きだから?」
宥人は黙って首を振った。
「マオリにそんな感情を持ったことはないよ」
「じゃなんで……」
「求められるから」
宥人の答えには迷いがなかった。おれは喉の奥で呻いた。
非常階段で話したとき、マオリが宥人に向ける気持ちが本物だと気づいた。憎しみのために傷つけたわけではない。他にどうしようもなくて、追い詰められてやってしまったのだ。以前は気づかなかったが、今はわかる。おれもおなじ気持ちを抱いていたからだ。
「あの先生は天性の魔性だからなあ」
電話ごしに聞いた記者の声が頭のなかに甦っていた。
「去年、ある代議士の脱税を洗ってたら、顧問弁護士と男同士で不倫してることがわかってね。証拠つかむ前に切れたようだけど、代議士の先生のほうが執着して、けっきょく離婚しちまった」
代議士は職務のほうは継続していたようだ。しかし、今度は違法薬物摂取の疑惑をつかまれ、記者はマオリの店を張っていたという。そこに別れたはずの元顧問弁護士があらわれ、三角関係の展開を見張っていたらしい。
5階の店で違法薬物が蔓延している事実は警察もすでにつかんでいるとして、記者は強制捜査を予測していた。動きがあれば教えてほしいと頼まれていたのだ。それが宥人のことを教えてもらう条件だった。もちろん、はじめから約束は反故にするつもりだった。
「宥人さん」
腕をつかんでいた手を離し、宥人の顔の両側に伸ばした。掌を壁にぴたりと圧しつけると、宥人の顔が目の前に近づいた。
「サツにタレこんだのがおれだっていったら、宥人さん、どうする?」
宥人の瞳に困惑が宿る。即座に答えた。
「どうするもなにも、そんなの信じない」
「なんで」
「善くんのことはわかってる」
宥人の眼差しには本当にまったく疑いの色がなかった。その目の潔さに、おれは気圧された。
「それに善くんがそんなことする理由がない」
「理由はあるよ」
おれは宥人から視線をはずさないまま、左手で非常口を指さした。
「あんたがあのドアから出てくのを見送るとき、なんかすげえイライラした。もう見送るのは嫌だ」
宥人の瞳が揺れた。困惑が深くなっている。
「どういう意味……」
「あんたは」
声が掠れた。おれはもう一度、宥人の目を見つめていった。
「あんたは変に気がありそうな素振り見せたかと思ったら急に冷たくなるし、突然近くにきたかと思ったらすっといなくなるし、けどいつも旨いメシつくってくれて、おれを最優先にしてくれるし、芯があって、意思がつよいのに、たまに弱いところも見せてくるからほっとけないって思うし……」
「善くん……」
「宥人さんが好きだ」
もっと早く気づくべきだった。宥人が女なら、もっと早く気づけたのかもしれない。自分が同性愛者ではないというつよい意識が邪魔していたのだ。そんなことはたいした問題じゃないとようやく気づけた。
宥人は呆然としていた。聞こえていなかったはずはないが、目を見開いたまま、なんの反応も見せなかった。
「宥人さん」
「あ、ごめん。びっくりして……」
宥人は言葉を切って、視線を落とした。どう答えるべきか考えあぐねているように見えた。隙をつくらず、いった。
「宥人さんは?」
「おれ……?」
目を伏せたままの宥人の頬に指を触れさせる。皮膚が擦れた瞬間、わずかにびくっと震えた。
「宥人さん、おれのこと、どう?」
「どうって……わかんない」
「わかんない?」
宥人にしては歯切れの悪い答えだった。驚くにしろ、戸惑うにしろ、もっとちがう反応が返ってくると予想していた。
「おれのこと嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃ好き?」
「誘導尋問……」
「宥人さんがちゃんと答えてくれないから」
責めるつもりはなかったが、焦っていたのかもしれない。だれかに気持ちを告白するのは生まれてはじめてだ。戸惑い、どうしていいのかわからないのはおれもおなじだった。
「宥人さん、なあ……」
「間違いかも」
顎に指を添えて上を向かせようとすると、宥人は首を捻って避けた。
「間違い?」
「だって、善くんは女性が好きなのに……」
「関係ないだろ」
「関係あるよ」
おれの腕をつかんで、宥人は絞り出すようにいった。
「男となんて、そんな簡単に考えられないだろ」
「簡単に考えてないよ」
「香里さんに告白されたって……」
「断ったに決まってんじゃん。宥人さん以外無理だし、おれ」
連絡をしたときには反応を示さなかったが、気にしていたらしい。宥人の態度は頑なではなかった。期待しないよう自制しようとしたが、胸が高鳴るのを抑えられなかった。おれの直接的な言葉にも、宥人はすぐには頷かなかった。
「簡単にいってるわけじゃない。ほんとに真剣だから」
「今はそう思ってても、あとで勘違いだって気づくかも。おれ男だし、それに……」
「疑うなよ」
おれは語気をつよめた。宥人の指先が小さく震えた。
「嫌いなら嫌いでいいけど、疑うのはちがうだろ」
「ごめん……」
宥人は素直に謝って、顎が胸につくほど大きくうなだれた。
「嫌いじゃない……」
これほど密着していても耳をすまさなければ聞こえないほどの小さな声で、宥人はいった。
「はじめて会ったとき、すごく……かっこいいと思った。こんな気持ちになったのはじめてで……」
両手で顔を覆って、宥人は深く息を吐いた。
「でも、そんなこと考えたらだめだって……」
「なんでだめなの」
「それはだって……もし善くんに嫌われたら……」
「嫌わない」
「だからそれは……」
「好きだろ、おれのこと」
怖いのはおれもおなじだ。そう伝えるために、宥人の手を握った。
「おれを好きなのに、なんでおれのこと信じねえの」
逸る気持ちを抑え、宥人の指に唇を触れさせた。宥人は拒絶しなかった。
「宥人さん、こっち見て」
拒みこそしないものの、宥人は顔を上げようとしない。おれは宥人の右手を両手で包み込んだ。直接ではなく、自分の手の上から唇を圧しつけた。
「おれもうキスするって決めてるから、やめさせたいなら暴れたほうがいいよ」
じゅうぶんだろうとは思ったが、最後まで選択を委ねたかった。宥人は相変わらず目を伏せていたが、縮こまったまま動かなかった。眼球を素早く動かし、そのたびに伏せられた睫毛が細かく震えた。
「いいってこと?」
宥人は答えない。手を解放したが、宥人の右手は抵抗のためにつかわれず、行き場を失ったかのように宙を彷徨った。
空いた両手で、今度は宥人の顔を包んだ。すこし力を加えただけで、顎が持ち上がった。
眼鏡の奥で宥人は固く目を閉じていた。緊張を解すように、頬にキスした。宥人は抗わなかった。
唇の端、それから中央に移った。促すように舌先で下唇を軽く突くと、宥人がわずかに口をひらいた。
焦る気持ちを抑えて、ゆっくり舌を差し入れた。いろいろな女と何度もしてきた行為にもかかわらず、まるではじめて経験するかのように胸が高鳴った。
口のなかで舌を伸ばすと、宥人がおずおずと応える。腰のあたりで宥人の指にシャツがつかまれる感触があった。どうやら受け容れられたと考えていいようだ。
宥人に逃げる気がないことがはっきりわかると、おれは顔を包んでいた手を背中と腰に移動させた。抱き寄せると、宥人は両腕をおれの背中に回してきた。きつく抱くと、互いの胸が擦れあった。ふたりぶんの鼓動が共鳴し、唾液が行き来した。
右手を宥人の背骨に沿うように這わせ、左手で宥人の臀部をつかんだ。臀の肉に指先が食いこみ、宥人の踵が浮くほどつよく引き寄せた。ひどく興奮して、息が荒くなっていた。宥人もおなじようだった。腕のなかで肩が震える。吐息が混ざり、どちらのものか判別できなくなっていた。
「善くん……」
吐息のなかで、宥人が喘ぐようにおれを呼ぶ。掠れた声に興奮を掻き立てられた。
「ぜ、んくん……ちょっと、ちょっと待って」
舌を縺れさせながら、宥人が慌てたようにいう。腰をまさぐるおれの腕をつかむが、ほとんど力が入っていない。
「ちょっと、待ってってば……」
「……なに」
「スマホが……」
宥人の言葉で、はじめてスマホの音に気づいた。カウンターに置きっぱなしの宥人の鞄からかすかに聞こえる。着信音ではない。短い通知音だ。
「ほっとけよ」
「でも……」
「あとでいいだろ」
腕をつかもうとする宥人の手に指を絡ませると、宥人は握り返してきた。またくちづけが深くなる。しかし、通知音は止むことがなかった。それどころか間を空けずに何度も鳴り続けている。
「ちょっと待って」
宥人が体を捻って逃げる。声には切迫感があった。
「なんか変だ」
おれの腕からすり抜け、鞄に向かう。残されたおれは天井を仰いだ。股間に熱を感じて呻いた。当然といえば当然だったが、想像以上に昂っていたようで、布地を圧し上げて痛みを感じるほど張り詰めていた。
「宥人さん?」
宥人の後を追ってカウンターにもどる。宥人は立ったままスマホを握っていた。通知音はいまだ鳴り続けている。LINEなのか、SNSか。いずれにしてもあきらかに異常なペースだ。
宥人の顔から血の気が引き、表情が強張っているのを見て、おれはようやく不穏な空気を察知した。
「なに、どうした?」
宥人の手のなかでスマホは鳴り続けている。凄まじい量の通知。ぞっとした。なにかが起きている。
「貸して」
おれは宥人に向かって手を差し出した。宥人はおれがそこにいることにはじめて気づいたかのように顔を上げた。目の奥に混乱と恐怖がちらついた。おれから遠ざけるようにスマホを背中の後ろに隠した。
強引に奪い取りたいという欲求を抑え、おれは宥人の目を真っ直ぐ見つめた。
「おれのこと信じて」
宥人の瞳が揺れるのを見た。まるでサイレンのようにけたたましく音を立てるスマホをおれに差し出す。
左手で宥人の手を握り、右手でスマホを受け取った。ディスプレイには宥人のSNSの画面が表示されていた。宥人のアカウントを紐付けするかたちで、複数点の画像と動画がアップロードされていた。
薄暗い場所でスマホをつかって撮影したらしく、鮮明ではなかったが、それがだれなのかはすぐにわかった。目を閉じ、全裸でベッドに横になっている。システムに検知されるのを避けるためか、際どい部分にはモザイクがかけられていたが、脱力したように仰向けになって、なにをしていたのかは容易に想像できる写真だった。
写真にはテキストが添えられていた。「衝撃! 同性愛者の味方をする弁護士、実は自分もゲイだった! エロすぎる写真と動画公開!」
投稿したのはいわゆる暴露系のアカウントで、宥人のフルネームもタグ付けされていた。動画を再生すると、眠っている宥人を撮影する男の笑い声が聞こえてきた。その声には聞きおぼえがあった。当然、宥人も気づいているだろう。おれの手からスマホを奪い取り、動画を停止させた。さっきよりもさらに蒼ざめた顔で唇を噛んでいる。
スマホの通知は投稿された画像や動画に対するリアクションで、ネットを通じて投稿を見た無数の人間たちがコメントを書きこむたびに鳴っていた。深夜にもかかわらず、通知のペースは収まるどころかむしろ間隔が狭まっていた。
考えるよりも先に体が動いていた。非常口に向けて足を踏み出したおれの腕を宥人がつかむ。
「待って。善くん、ちょっと待って」
「殺す」
かろうじてそれだけいった。怒りで目の前が白くなっていた。力で適わないと知っているからか、宥人はおれの前に立ちはだかり、ドアを背にして両手を前に突き出した。
「善くん、ちょっと落ち着いて。冷静になって」
「どけよ。宥人さん。あのクソガキ殺すから」
「善くん!」
おれが手を伸ばすより一瞬早く、宥人が行動した。体ごとぶつかってきて、おれの首に両腕を回した。
不意をつかれ、思わず動きを止めてしまった。密着した体が小刻みに震えていて、圧し退けることはできなかった。そんなこと、できるはずがない。ほかにどうすることもできず、おれは躊躇いながらも宥人の体を抱きしめた。
「家に帰りたい……」
弱々しいが、はっきりした声で、宥人はいった。おれなどよりもはるかに大きなショックを受け、困惑して怯えているはずだが、驚くべき精神力で耐えている。
「うちまで送ってほしい。送ってくれる?」
宥人の肩口に顔を埋めるようにして、おれは何度も頷いた。何度も深呼吸すると、すこしだけ落ち着いた。
上の階にはまだ捜査員がいるはずだ。押しかけていっても警察の世話になるだけだ。マオリやスタッフはもうすでに連行されているかもしれない。暴露アカウントの持ち主がマオリであるという可能性は限りなくすくない。写真と動画がマオリではない第三者のアカウントから投稿されたとなると、リークしたのはすくなくともたった今ということはないだろう。警察に乗りこまれたことで自暴自棄になり宥人を巻き添えにしようとしたのか、おれに脅され、もう宥人がもどらないと確信して嫌がらせのつもりでしたことか、いずれにしても、最悪の行為だ。あまりに卑劣で許しがたい。宥人の背中を摩りながら、おれの目は非常口のドアを見据えていた。
「宥人さん。どうしたの」
洗いものをしていた手を止め、濡れた手を拭きながら迎える。
「近くまできたから寄ってみた。ちょっとだけいい?」
「どうぞ」
宥人のためにコーヒーを淹れた。近所にきたついでだというのが嘘だとわかっていた。今夜、宥人は港区の東京出入国在留管理局にいたからだ。弁護士として出席した記者会見が生中継されていた。宥人のSNSを通じてすこしだけ視聴したのが数時間前。雑務を片づけ、その足でここへきたのだろう。
コーヒーカップを傾ける宥人の横顔には疲労の色が濃かった。その理由もわかっている。宥人がサポートしているアフリカ出身の同性愛者の女性に対してビザの発行が認められなかったからだ。宥人と支援者たちは会見で国内に在留している難民の境遇や権利を主張していた。
心労がかさんでいるのだろう。宥人は眼鏡を取り、親指と中指の腹で眉間を指圧している。おれの視線に気づくと、照れたような笑顔を見せた。
「体調、どう?」
「おかげで完全復活だよ」
自分のぶんのコーヒーを淹れながら、おれはいった。
「宥人さんは? 疲れた顔してるけど」
「そんなに疲れて見えるかなあ」
わずかに語尾を伸ばして、宥人はカウンターに両肘をつき、掌で顔を覆った。
「今日はいろいろあったから」
「たいへんだね」
おれは自分のカップを手にカウンターの外側に出た。宥人の隣に座る。
数時間前に画面ごしに見た宥人はいかにも頼りになる弁護士といった印象で、入管の対応を厳しく糾弾していた。しかし、今目の前にいる宥人は張り詰めていた緊張を解き、理不尽と権力との戦いの合間、他では決して見せることのない不安を覗かせている。そうとうの緊迫感だったのだろう。ふだんはおれにさえ弱みを見せないのに、今日はすっかり落ち込んで、表情が暗い。
「だいじょうぶ?」
思わず手を伸ばしていた。スーツの肩に指を触れさせる。
「うん」
宥人はかろうじて微笑んだが、ふだんのような力はなかった。ボトル棚をぼんやり眺め、ため息をつく。
「だめだね。おれがしっかりしなきゃいけないのに」
「宥人さんだってたまには弱音吐いたっていいよ」
「ありがとう」
いつも以上に小さく見える宥人に、おれは戸惑いと躊躇いを感じていた。あのマオリも、5階の店でこんなふうに物憂げな面差しを見つめていたのだろうかと思った。
「宥人さん」
「ん?」
宥人が振り向く。
「なに?」
ずっと聞きたかったこと。おれは迷いながらも口をひらいた。
そのとき、店の外でなにかが倒れるような音がした。同時に、大人数の足音。団体客がくるような店舗はこのビルにはないし、時間帯も遅すぎる。不穏な空気。おれは無意識に立ち上がっていた。
「なんだろ」
「ちょっと待ってて」
宥人を置いて、非常口に出る。ドアを細く開けると、男が数人階段を上がってくるのが見えた。スーツ姿と制服姿が入り交じっている。一見して警察の人間だとわかった。咄嗟にドアを閉めた。血流が烈しくなる。
「なんだった?」
宥人が立ち上がってこちらへこようとするのを手で制した。
「なんでもない」
「けど……」
ただごとでない気配を感じたのか、宥人も緊張した様子でおれを見ている。
「上になにかあるの?」
さすがに察しがいい。おれの脇を抜けて非常階段に出ようとする宥人の腕をつかんだ。
「なんもないって」
「ちょっと様子見に行くだけだから」
「今はだめ」
「今は?」
わずかな言葉尻をとらえて、宥人は眉を顰めた。
「なにか知ってる?」
「なにも知らないよ。ただ……」
真っ直ぐに目を見つめられ、たじろいだ。
「とにかく、ここにいろ」
反対側のエレベータのほうからも複数の足音がした。低い声も聞こえる。なにをいっているのかまではわからないが、緊迫感を孕んでいる。表裏で挟み撃ちにするつもりらしい。
宥人はおれに背を向け、店の入口に足を進めようとした。腕を強く引いて止めた。
「行くなって」
「なんで!」
宥人が振り返る。さっきまでの弱々しさは消え失せ、強い意志が宿った瞳がおれをしっかりととらえていた。
「外を確認するだけだろ」
「おれが見てくるから」
「いっしょに行く」
「行かせない」
「だからなんで」
「おれが行かせたくないからだよ!」
思わず語気を強めた。宥人の表情が変わる。こうなると誤魔化しはきかない。
「わかった。説明する」
もう片方の腕もつかんで椅子に座らせると、おれは宥人の目を見ながらいった。
「知ってるかどうかわからないけど、あの店では客に違法薬物を提供してるか、店内で楽しむのを黙認してる」
宥人の顔色が変わる。どうやら知らなかったらしい。
「ガサが入るのは時間の問題だった。それがたまたま今日だっただけだ」
宥人は黙っていた。床を見つめたまま、いった。
「なんで善くん知ってるの」
「それは……」
口ごもりながらも答えた。
「おなじビルなんだから自然と耳に入る」
宥人が顔を上げておれを見る。視線を受け止めるのが精一杯だった。こんなにも小柄で、頼りなく見えるのに、宥人の視線はつよすぎる。
「善くん」
腕をつかむおれの手に触れ、宥人はいった。
「おれ、マオリの助けになりたいと思う」
宥人の言動はいつも予想がつかない。おれはため息をついた。
「なんでだよ」
「こういうときに頼れるひとはほかにいないと思うし……」
「そういうことじゃねえよ!」
思わず声を荒らげた。呼吸がくるしくなりはじめている。
「なんであんなやつのこと助けるんだよ。そんな義理ないだろ。逮捕されたって自業自得だし、宥人さんのことだってヤク漬けにしようとしてたかもしれない」
「でもしてないよ」
言葉に詰まった。宥人はまったく臆していなかった。相変わらず澄んだ眼差しでおれを見ていた。
「マオリはそんなことしない」
「なんでわかるんだよ」
吐き捨てた。聞きたかったことを聞いた。
「好きだから?」
宥人は黙って首を振った。
「マオリにそんな感情を持ったことはないよ」
「じゃなんで……」
「求められるから」
宥人の答えには迷いがなかった。おれは喉の奥で呻いた。
非常階段で話したとき、マオリが宥人に向ける気持ちが本物だと気づいた。憎しみのために傷つけたわけではない。他にどうしようもなくて、追い詰められてやってしまったのだ。以前は気づかなかったが、今はわかる。おれもおなじ気持ちを抱いていたからだ。
「あの先生は天性の魔性だからなあ」
電話ごしに聞いた記者の声が頭のなかに甦っていた。
「去年、ある代議士の脱税を洗ってたら、顧問弁護士と男同士で不倫してることがわかってね。証拠つかむ前に切れたようだけど、代議士の先生のほうが執着して、けっきょく離婚しちまった」
代議士は職務のほうは継続していたようだ。しかし、今度は違法薬物摂取の疑惑をつかまれ、記者はマオリの店を張っていたという。そこに別れたはずの元顧問弁護士があらわれ、三角関係の展開を見張っていたらしい。
5階の店で違法薬物が蔓延している事実は警察もすでにつかんでいるとして、記者は強制捜査を予測していた。動きがあれば教えてほしいと頼まれていたのだ。それが宥人のことを教えてもらう条件だった。もちろん、はじめから約束は反故にするつもりだった。
「宥人さん」
腕をつかんでいた手を離し、宥人の顔の両側に伸ばした。掌を壁にぴたりと圧しつけると、宥人の顔が目の前に近づいた。
「サツにタレこんだのがおれだっていったら、宥人さん、どうする?」
宥人の瞳に困惑が宿る。即座に答えた。
「どうするもなにも、そんなの信じない」
「なんで」
「善くんのことはわかってる」
宥人の眼差しには本当にまったく疑いの色がなかった。その目の潔さに、おれは気圧された。
「それに善くんがそんなことする理由がない」
「理由はあるよ」
おれは宥人から視線をはずさないまま、左手で非常口を指さした。
「あんたがあのドアから出てくのを見送るとき、なんかすげえイライラした。もう見送るのは嫌だ」
宥人の瞳が揺れた。困惑が深くなっている。
「どういう意味……」
「あんたは」
声が掠れた。おれはもう一度、宥人の目を見つめていった。
「あんたは変に気がありそうな素振り見せたかと思ったら急に冷たくなるし、突然近くにきたかと思ったらすっといなくなるし、けどいつも旨いメシつくってくれて、おれを最優先にしてくれるし、芯があって、意思がつよいのに、たまに弱いところも見せてくるからほっとけないって思うし……」
「善くん……」
「宥人さんが好きだ」
もっと早く気づくべきだった。宥人が女なら、もっと早く気づけたのかもしれない。自分が同性愛者ではないというつよい意識が邪魔していたのだ。そんなことはたいした問題じゃないとようやく気づけた。
宥人は呆然としていた。聞こえていなかったはずはないが、目を見開いたまま、なんの反応も見せなかった。
「宥人さん」
「あ、ごめん。びっくりして……」
宥人は言葉を切って、視線を落とした。どう答えるべきか考えあぐねているように見えた。隙をつくらず、いった。
「宥人さんは?」
「おれ……?」
目を伏せたままの宥人の頬に指を触れさせる。皮膚が擦れた瞬間、わずかにびくっと震えた。
「宥人さん、おれのこと、どう?」
「どうって……わかんない」
「わかんない?」
宥人にしては歯切れの悪い答えだった。驚くにしろ、戸惑うにしろ、もっとちがう反応が返ってくると予想していた。
「おれのこと嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃ好き?」
「誘導尋問……」
「宥人さんがちゃんと答えてくれないから」
責めるつもりはなかったが、焦っていたのかもしれない。だれかに気持ちを告白するのは生まれてはじめてだ。戸惑い、どうしていいのかわからないのはおれもおなじだった。
「宥人さん、なあ……」
「間違いかも」
顎に指を添えて上を向かせようとすると、宥人は首を捻って避けた。
「間違い?」
「だって、善くんは女性が好きなのに……」
「関係ないだろ」
「関係あるよ」
おれの腕をつかんで、宥人は絞り出すようにいった。
「男となんて、そんな簡単に考えられないだろ」
「簡単に考えてないよ」
「香里さんに告白されたって……」
「断ったに決まってんじゃん。宥人さん以外無理だし、おれ」
連絡をしたときには反応を示さなかったが、気にしていたらしい。宥人の態度は頑なではなかった。期待しないよう自制しようとしたが、胸が高鳴るのを抑えられなかった。おれの直接的な言葉にも、宥人はすぐには頷かなかった。
「簡単にいってるわけじゃない。ほんとに真剣だから」
「今はそう思ってても、あとで勘違いだって気づくかも。おれ男だし、それに……」
「疑うなよ」
おれは語気をつよめた。宥人の指先が小さく震えた。
「嫌いなら嫌いでいいけど、疑うのはちがうだろ」
「ごめん……」
宥人は素直に謝って、顎が胸につくほど大きくうなだれた。
「嫌いじゃない……」
これほど密着していても耳をすまさなければ聞こえないほどの小さな声で、宥人はいった。
「はじめて会ったとき、すごく……かっこいいと思った。こんな気持ちになったのはじめてで……」
両手で顔を覆って、宥人は深く息を吐いた。
「でも、そんなこと考えたらだめだって……」
「なんでだめなの」
「それはだって……もし善くんに嫌われたら……」
「嫌わない」
「だからそれは……」
「好きだろ、おれのこと」
怖いのはおれもおなじだ。そう伝えるために、宥人の手を握った。
「おれを好きなのに、なんでおれのこと信じねえの」
逸る気持ちを抑え、宥人の指に唇を触れさせた。宥人は拒絶しなかった。
「宥人さん、こっち見て」
拒みこそしないものの、宥人は顔を上げようとしない。おれは宥人の右手を両手で包み込んだ。直接ではなく、自分の手の上から唇を圧しつけた。
「おれもうキスするって決めてるから、やめさせたいなら暴れたほうがいいよ」
じゅうぶんだろうとは思ったが、最後まで選択を委ねたかった。宥人は相変わらず目を伏せていたが、縮こまったまま動かなかった。眼球を素早く動かし、そのたびに伏せられた睫毛が細かく震えた。
「いいってこと?」
宥人は答えない。手を解放したが、宥人の右手は抵抗のためにつかわれず、行き場を失ったかのように宙を彷徨った。
空いた両手で、今度は宥人の顔を包んだ。すこし力を加えただけで、顎が持ち上がった。
眼鏡の奥で宥人は固く目を閉じていた。緊張を解すように、頬にキスした。宥人は抗わなかった。
唇の端、それから中央に移った。促すように舌先で下唇を軽く突くと、宥人がわずかに口をひらいた。
焦る気持ちを抑えて、ゆっくり舌を差し入れた。いろいろな女と何度もしてきた行為にもかかわらず、まるではじめて経験するかのように胸が高鳴った。
口のなかで舌を伸ばすと、宥人がおずおずと応える。腰のあたりで宥人の指にシャツがつかまれる感触があった。どうやら受け容れられたと考えていいようだ。
宥人に逃げる気がないことがはっきりわかると、おれは顔を包んでいた手を背中と腰に移動させた。抱き寄せると、宥人は両腕をおれの背中に回してきた。きつく抱くと、互いの胸が擦れあった。ふたりぶんの鼓動が共鳴し、唾液が行き来した。
右手を宥人の背骨に沿うように這わせ、左手で宥人の臀部をつかんだ。臀の肉に指先が食いこみ、宥人の踵が浮くほどつよく引き寄せた。ひどく興奮して、息が荒くなっていた。宥人もおなじようだった。腕のなかで肩が震える。吐息が混ざり、どちらのものか判別できなくなっていた。
「善くん……」
吐息のなかで、宥人が喘ぐようにおれを呼ぶ。掠れた声に興奮を掻き立てられた。
「ぜ、んくん……ちょっと、ちょっと待って」
舌を縺れさせながら、宥人が慌てたようにいう。腰をまさぐるおれの腕をつかむが、ほとんど力が入っていない。
「ちょっと、待ってってば……」
「……なに」
「スマホが……」
宥人の言葉で、はじめてスマホの音に気づいた。カウンターに置きっぱなしの宥人の鞄からかすかに聞こえる。着信音ではない。短い通知音だ。
「ほっとけよ」
「でも……」
「あとでいいだろ」
腕をつかもうとする宥人の手に指を絡ませると、宥人は握り返してきた。またくちづけが深くなる。しかし、通知音は止むことがなかった。それどころか間を空けずに何度も鳴り続けている。
「ちょっと待って」
宥人が体を捻って逃げる。声には切迫感があった。
「なんか変だ」
おれの腕からすり抜け、鞄に向かう。残されたおれは天井を仰いだ。股間に熱を感じて呻いた。当然といえば当然だったが、想像以上に昂っていたようで、布地を圧し上げて痛みを感じるほど張り詰めていた。
「宥人さん?」
宥人の後を追ってカウンターにもどる。宥人は立ったままスマホを握っていた。通知音はいまだ鳴り続けている。LINEなのか、SNSか。いずれにしてもあきらかに異常なペースだ。
宥人の顔から血の気が引き、表情が強張っているのを見て、おれはようやく不穏な空気を察知した。
「なに、どうした?」
宥人の手のなかでスマホは鳴り続けている。凄まじい量の通知。ぞっとした。なにかが起きている。
「貸して」
おれは宥人に向かって手を差し出した。宥人はおれがそこにいることにはじめて気づいたかのように顔を上げた。目の奥に混乱と恐怖がちらついた。おれから遠ざけるようにスマホを背中の後ろに隠した。
強引に奪い取りたいという欲求を抑え、おれは宥人の目を真っ直ぐ見つめた。
「おれのこと信じて」
宥人の瞳が揺れるのを見た。まるでサイレンのようにけたたましく音を立てるスマホをおれに差し出す。
左手で宥人の手を握り、右手でスマホを受け取った。ディスプレイには宥人のSNSの画面が表示されていた。宥人のアカウントを紐付けするかたちで、複数点の画像と動画がアップロードされていた。
薄暗い場所でスマホをつかって撮影したらしく、鮮明ではなかったが、それがだれなのかはすぐにわかった。目を閉じ、全裸でベッドに横になっている。システムに検知されるのを避けるためか、際どい部分にはモザイクがかけられていたが、脱力したように仰向けになって、なにをしていたのかは容易に想像できる写真だった。
写真にはテキストが添えられていた。「衝撃! 同性愛者の味方をする弁護士、実は自分もゲイだった! エロすぎる写真と動画公開!」
投稿したのはいわゆる暴露系のアカウントで、宥人のフルネームもタグ付けされていた。動画を再生すると、眠っている宥人を撮影する男の笑い声が聞こえてきた。その声には聞きおぼえがあった。当然、宥人も気づいているだろう。おれの手からスマホを奪い取り、動画を停止させた。さっきよりもさらに蒼ざめた顔で唇を噛んでいる。
スマホの通知は投稿された画像や動画に対するリアクションで、ネットを通じて投稿を見た無数の人間たちがコメントを書きこむたびに鳴っていた。深夜にもかかわらず、通知のペースは収まるどころかむしろ間隔が狭まっていた。
考えるよりも先に体が動いていた。非常口に向けて足を踏み出したおれの腕を宥人がつかむ。
「待って。善くん、ちょっと待って」
「殺す」
かろうじてそれだけいった。怒りで目の前が白くなっていた。力で適わないと知っているからか、宥人はおれの前に立ちはだかり、ドアを背にして両手を前に突き出した。
「善くん、ちょっと落ち着いて。冷静になって」
「どけよ。宥人さん。あのクソガキ殺すから」
「善くん!」
おれが手を伸ばすより一瞬早く、宥人が行動した。体ごとぶつかってきて、おれの首に両腕を回した。
不意をつかれ、思わず動きを止めてしまった。密着した体が小刻みに震えていて、圧し退けることはできなかった。そんなこと、できるはずがない。ほかにどうすることもできず、おれは躊躇いながらも宥人の体を抱きしめた。
「家に帰りたい……」
弱々しいが、はっきりした声で、宥人はいった。おれなどよりもはるかに大きなショックを受け、困惑して怯えているはずだが、驚くべき精神力で耐えている。
「うちまで送ってほしい。送ってくれる?」
宥人の肩口に顔を埋めるようにして、おれは何度も頷いた。何度も深呼吸すると、すこしだけ落ち着いた。
上の階にはまだ捜査員がいるはずだ。押しかけていっても警察の世話になるだけだ。マオリやスタッフはもうすでに連行されているかもしれない。暴露アカウントの持ち主がマオリであるという可能性は限りなくすくない。写真と動画がマオリではない第三者のアカウントから投稿されたとなると、リークしたのはすくなくともたった今ということはないだろう。警察に乗りこまれたことで自暴自棄になり宥人を巻き添えにしようとしたのか、おれに脅され、もう宥人がもどらないと確信して嫌がらせのつもりでしたことか、いずれにしても、最悪の行為だ。あまりに卑劣で許しがたい。宥人の背中を摩りながら、おれの目は非常口のドアを見据えていた。


