新宿歌舞伎町のクラブ「彩」に勤めて2年になる。クラブといっても、どちらかといえばキャバクラにちかいカジュアルな店だ。ママに加えて6人のホステスでやりくりしながら、小さいながらも10年近く続けている。ボーイはおれひとり。店長とマネージャーを兼任している。店が狭いから、ひとりでもどうにか回していける。
ここにくるまでは六本木のクラブで黒服を務めていた。地元の九州でもおなじような仕事をしていたから、夜の店には慣れている。面倒なトラブルや奇妙な珍客に直面した経験もある。しかし、今日の客は不思議と印象に残った。
いや、記者のほうはどうでもいい。問題はもうひとりのほうだ。著名人には見えないし、かといって犯罪の匂いもしない。記者にしつこく付き纏われるような人間とは思えなかった。あのキャップの男はどんな目的で店にまで追いかけてきたのだろう。一見地味で目立たないタイプの男のなにをあの記者は知りたかったのだろう。
閉店は深夜1時。1時半にはホステスたちは帰っていき、ママとおれが片付けのために残る。この日は常連客とアフターの約束をしていたママも先に帰り、おれひとりだった。珍しいことではない。むしろひとりだと作業が捗る。おれは手早く洗い物やテーブルの掃除を済ませ、1日ぶんのゴミを袋にまとめた。
ビルの規定で、ゴミは裏口の専用ケースにまとめておくことになっている。袋を手に、非常口へ向かった。階段に出るドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。まだ9月のはじめだが、だいぶ涼しくなってきた。
煙草を咥え、火をつける。勤務中は禁煙だが、休憩時間と終業後は吸っても構わないことになっている。咥えたままドアを左手で圧し、右手でゴミ袋を持ち上げた。
非常階段には煙草の吸い殻が散乱していた。もちろんおれのものではないし、一昨日も掃除したばかりだ。昨日は日曜で定休日だったから、2日でこの状態ということになる。
歌舞伎町のはずれにある雑居ビルには、うちの店以外にも十数店のテナントが入居している。1階の居酒屋には何度か客や店のホステスたちと行ったことがあったが、ほかにどんな店が入っているのかほとんど知らない。ママは多少付きあいがあるのかもしれないが、ただの黒服であるおれはほとんど関わることがなかった。
ゴミを片付け、ポケットから出した携帯用灰皿に煙草を圧しこむ。あとは着替えて帰るだけだ。店にもどろうとしたとき、上の階から声が聞こえた。だれかが非常階段に出て口論しているようだ。客同士の喧嘩か、店員が酔客を追い出そうとしているのか、判別できない。首を伸ばしてみたが、なにも見えない。慌ただしい足音が聞こえるだけだ。階段を降りてくるようだ。いずれにしろ、揉めごとに巻き込まれるのはごめんだった。携帯用灰皿をポケットにしまって、店にもどろうと踵を返した。
騒がしいがなり声が近づいてきて、不自然に途切れた。振り向くと、男が階段を転げ落ちてくるところだった。
避けようと思えばできた。しかし、おれが体をずらせば、背後の壁に強かに体をぶつけ、死にはせずとも、それなりの怪我を負うのはあきらかだった。そこまで考えたわけではないが、おれは咄嗟に足を踏ん張り、下腹に力をこめて、男の体を受け止めた。
小柄な男だったが、それでも階段を転がったぶん反動がついて、衝撃は大きかった。男の体重を受け止めきれず、おれはバランスを崩して壁に背中を打ちつけた。そのまま座り込む。
「いって……」
「すみません! だいじょうぶですか?」
男が顔を上げた。近距離で視線が衝突する。そこではじめて、その男が2時間ほど前に来店したあの眼鏡をかけた一見客だと気づいた。今は眼鏡をかけていなかったから、すぐにはわからなかったのだ。
「てめえ、勝手に転んでんじゃねえよ」
男の肩ごしに、もうひとりが階段を降りてくるのが見えた。あの記者ではない。もっと若く、髪をピンク色に染めていた。胸元の大きく開いたシャツを着ており、胸から首にかけてタトゥが入っている。
「ほら、こいよ。まだ話終わってないだろが」
タトゥの男が乱暴な手つきでスーツの男の腕をつかむ。腕にもタトゥが彫られていた。目の前の顔が苦痛に歪むのを見て、おれは咄嗟にタトゥの腕をつかんだ。
「やめろ。痛がってる」
「は?」
タトゥの男はおれの手を振り払って、凄んできた。いかにも小物のチンピラといった風情だ。ポケットに手を突っ込んで、膝を立てて座っているおれを見下ろす。
「なに。だれ、おまえ?」
「べつにだれでもないけど」
スーツの男もはじめておれに気づいたようだ。目を瞬かせておれの顔を見上げる。
「関係ないだろ。そこどいてくんない」
「いや、どいてほしいのはおれのほうだし」
関わらないはずが、とんだ災難だ。おれはスーツの男を圧しのけ、体を起こした。スーツの男ほど小柄ではないが、タトゥの男もそれほど長身ではなかった。おれが立ち上がると、かなり上から見下ろすかたちになった。体格差に一瞬たじろぎ、タトゥの男はおれでなくその後ろでへたり込んでいるスーツの男に向かって怒鳴った。
「おい、早く立てよ。店もどるぞ」
おれの体を圧しのけ、スーツの男を立たせようとする。
「待てや、こら」
タトゥの男のシャツの襟をひっつかみ、強引に引き寄せる。男の喉が鳴る音が聞こえた。
「おまえ、今おれのこと圧したろ」
「は? 圧してねえし」
「圧しただろが。このひとも階段から突き落としただろ」
「うるせえな。それがなんだよ」
「なんだじゃねえ。怪我したらどうすんだ」
「おまえに関係ねえだろ」
タトゥの男は再びおれの手を圧しのけようとするが、今度は離さなかった。強く捻り上げると、男は表情を歪めた。スーツの男のほうへ顔を向け、がなり立てる。
「なにこいつ。知り合い?」
スーツの男は答えられず、ただ無言でおれを見上げている。戸惑いの眼差しだった。おれは舌打ちしてタトゥの男の手を離した。これ以上関わるのは無意味だ。ふたりの間をすり抜けてドアに向かった。
ここにくるまでは六本木のクラブで黒服を務めていた。地元の九州でもおなじような仕事をしていたから、夜の店には慣れている。面倒なトラブルや奇妙な珍客に直面した経験もある。しかし、今日の客は不思議と印象に残った。
いや、記者のほうはどうでもいい。問題はもうひとりのほうだ。著名人には見えないし、かといって犯罪の匂いもしない。記者にしつこく付き纏われるような人間とは思えなかった。あのキャップの男はどんな目的で店にまで追いかけてきたのだろう。一見地味で目立たないタイプの男のなにをあの記者は知りたかったのだろう。
閉店は深夜1時。1時半にはホステスたちは帰っていき、ママとおれが片付けのために残る。この日は常連客とアフターの約束をしていたママも先に帰り、おれひとりだった。珍しいことではない。むしろひとりだと作業が捗る。おれは手早く洗い物やテーブルの掃除を済ませ、1日ぶんのゴミを袋にまとめた。
ビルの規定で、ゴミは裏口の専用ケースにまとめておくことになっている。袋を手に、非常口へ向かった。階段に出るドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。まだ9月のはじめだが、だいぶ涼しくなってきた。
煙草を咥え、火をつける。勤務中は禁煙だが、休憩時間と終業後は吸っても構わないことになっている。咥えたままドアを左手で圧し、右手でゴミ袋を持ち上げた。
非常階段には煙草の吸い殻が散乱していた。もちろんおれのものではないし、一昨日も掃除したばかりだ。昨日は日曜で定休日だったから、2日でこの状態ということになる。
歌舞伎町のはずれにある雑居ビルには、うちの店以外にも十数店のテナントが入居している。1階の居酒屋には何度か客や店のホステスたちと行ったことがあったが、ほかにどんな店が入っているのかほとんど知らない。ママは多少付きあいがあるのかもしれないが、ただの黒服であるおれはほとんど関わることがなかった。
ゴミを片付け、ポケットから出した携帯用灰皿に煙草を圧しこむ。あとは着替えて帰るだけだ。店にもどろうとしたとき、上の階から声が聞こえた。だれかが非常階段に出て口論しているようだ。客同士の喧嘩か、店員が酔客を追い出そうとしているのか、判別できない。首を伸ばしてみたが、なにも見えない。慌ただしい足音が聞こえるだけだ。階段を降りてくるようだ。いずれにしろ、揉めごとに巻き込まれるのはごめんだった。携帯用灰皿をポケットにしまって、店にもどろうと踵を返した。
騒がしいがなり声が近づいてきて、不自然に途切れた。振り向くと、男が階段を転げ落ちてくるところだった。
避けようと思えばできた。しかし、おれが体をずらせば、背後の壁に強かに体をぶつけ、死にはせずとも、それなりの怪我を負うのはあきらかだった。そこまで考えたわけではないが、おれは咄嗟に足を踏ん張り、下腹に力をこめて、男の体を受け止めた。
小柄な男だったが、それでも階段を転がったぶん反動がついて、衝撃は大きかった。男の体重を受け止めきれず、おれはバランスを崩して壁に背中を打ちつけた。そのまま座り込む。
「いって……」
「すみません! だいじょうぶですか?」
男が顔を上げた。近距離で視線が衝突する。そこではじめて、その男が2時間ほど前に来店したあの眼鏡をかけた一見客だと気づいた。今は眼鏡をかけていなかったから、すぐにはわからなかったのだ。
「てめえ、勝手に転んでんじゃねえよ」
男の肩ごしに、もうひとりが階段を降りてくるのが見えた。あの記者ではない。もっと若く、髪をピンク色に染めていた。胸元の大きく開いたシャツを着ており、胸から首にかけてタトゥが入っている。
「ほら、こいよ。まだ話終わってないだろが」
タトゥの男が乱暴な手つきでスーツの男の腕をつかむ。腕にもタトゥが彫られていた。目の前の顔が苦痛に歪むのを見て、おれは咄嗟にタトゥの腕をつかんだ。
「やめろ。痛がってる」
「は?」
タトゥの男はおれの手を振り払って、凄んできた。いかにも小物のチンピラといった風情だ。ポケットに手を突っ込んで、膝を立てて座っているおれを見下ろす。
「なに。だれ、おまえ?」
「べつにだれでもないけど」
スーツの男もはじめておれに気づいたようだ。目を瞬かせておれの顔を見上げる。
「関係ないだろ。そこどいてくんない」
「いや、どいてほしいのはおれのほうだし」
関わらないはずが、とんだ災難だ。おれはスーツの男を圧しのけ、体を起こした。スーツの男ほど小柄ではないが、タトゥの男もそれほど長身ではなかった。おれが立ち上がると、かなり上から見下ろすかたちになった。体格差に一瞬たじろぎ、タトゥの男はおれでなくその後ろでへたり込んでいるスーツの男に向かって怒鳴った。
「おい、早く立てよ。店もどるぞ」
おれの体を圧しのけ、スーツの男を立たせようとする。
「待てや、こら」
タトゥの男のシャツの襟をひっつかみ、強引に引き寄せる。男の喉が鳴る音が聞こえた。
「おまえ、今おれのこと圧したろ」
「は? 圧してねえし」
「圧しただろが。このひとも階段から突き落としただろ」
「うるせえな。それがなんだよ」
「なんだじゃねえ。怪我したらどうすんだ」
「おまえに関係ねえだろ」
タトゥの男は再びおれの手を圧しのけようとするが、今度は離さなかった。強く捻り上げると、男は表情を歪めた。スーツの男のほうへ顔を向け、がなり立てる。
「なにこいつ。知り合い?」
スーツの男は答えられず、ただ無言でおれを見上げている。戸惑いの眼差しだった。おれは舌打ちしてタトゥの男の手を離した。これ以上関わるのは無意味だ。ふたりの間をすり抜けてドアに向かった。
