小さな囁き声で目を覚ました。薄暗い部屋の隅で宥人がだれかと電話で話している。枕元に置いてあったスマホのディスプレイは7時と表示している。もちろん夜の7時ではない。朝だ。
「ごめん。うるさかった?」
 電話を終え、おれが起きたことに気づいた宥人が立ち上がる。
「なんかトラブル?」
 平静を装ってはいたが、宥人の表情やしぐさには緊迫したものがあった。
「うん。ちょっと行ってくる」
「日曜に仕事?」
「依頼主から連絡あってね」
 急いでジャケットを羽織りながら、宥人が話す。
「アフリカ出身の女性なんだけど、ビザの有効期限が迫ってて、強制送還されそうなんだ」
 外国人が生活するために必要なものだということは知っているが、それだけの知識しかなかった。
「よくわからんけど、それってしかたないことなんじゃないの」
「いや、そのひとはレズビアンで、国が同性愛を法律で禁止しているから、自国に帰ったら逮捕されちゃうんだよ」
「女が女を好きなだけで? やべえな」
「やべえんだよ」
 宥人がおれの口調を真似る。おれの前ではあえて切迫感を抑えていたが、ノートパソコンや書類を鞄に詰めこむ動作には焦りが見えた。
「難民認定を急がないと、下手したら殺されるかもしれない。そういうことで、今ちょっとナーバスになってるんだ」
「おれもいっしょに行こうか」
「え?」
 口にしてから、おかしなことをいったことに気づいた。弁護士が依頼人に接見するのに同行できるはずがない。
「あ、ううん。プライバシーの問題もあるから。ありがとう」
 宥人はおれの無知と無謀を馬鹿にすることなく、微笑んだ。
「じゃ、駅まで送る」
「だいじょうぶだって。夜遅かったでしょ。寝てなよ」
「いい。もう目覚めたし、今日店休みだから」
 さっさと起き上がり、コートを羽織った。
 ふたりでアパートを出て、駅に向かう。休日の早朝は通行人の姿もすくなく、3月の風はまだすこし冷たいもののすっきりと澄んで心地よかった。
「今日はそのまま家帰んの?」
 並んで歩きながら尋ねた。宥人がすこし考えてから答える。
「んー、午後は都庁前で集会あるから、また新宿もどるし、洗濯ほったらかしにして出ちゃったから、夕方こようかな」
「集会? 宥人さん、単車乗るの?」
「単車?」
 宥人も聞き返して、ああ、と笑った。
「ちがうちがう。そっちの集会じゃなくて。性的マイノリティとその支援をするひとたちが集まって、意見をいったり情報交換したりすんの」
「デモみたいなやつ?」
「デモとはちょっとちがうかな。道を歩くわけじゃなくて、ひとつの場所にとどまってマイクで話すだけだから」
「宥人さんも話すの?」
「いちおう、すこしだけ」
「へえ。聞きに行こうかな」
「無理しなくていいよ」
「べつに無理とかないけど」
 半分相槌、半分本気だった。都庁なら徒歩で行ける。
「ああ、でも善くんきてくれたらたすかるかな」
「おれなんもできないよ」
「体が大きいから、迫力あるでしょ」
 宥人のなにげない言葉が引っかかった。
「なんかあぶない目に遭ったりしたことあんの」
 ネットで脅迫めいた言葉を送りつけられることがあるという話を思い出し、おれは歩く速度を緩めて聞いた。
「や、そんなでもないけど」
 まったくないとはいわなかった。なんとなく不穏な空気を感じて、おれは口を噤んだ。
「あ、やば」
 駅の手前まできたところで、宥人が足を止める。
「なに」
「マフラー、部屋に忘れてきたみたい」
 昨晩部屋にきたときには巻いていたカーキ色のマフラーを今は巻いていない。3月に入ったとはいえ気温はまだ上昇しているとはいえず、肌寒い。アフリカ出身の依頼主の自宅は遠いようだ。
「これ持ってけよ」
 自分の首に巻いていたマフラーを解いて差し出した。
「いいよいいよ。善くんが風邪ひく」
「おれは家帰るだけだから」
 遠慮する宥人の首になかば無理矢理マフラーを巻きつける。
「ありがとう。夜返すから」
「おう。行ってらっしゃい」
 おれよりだいぶ小柄な宥人の頭を軽くぽんと叩く。激励の意味をこめたつもりだったが、宥人は思いがけず顔を紅潮させた。怒っているわけではないようだが、おれは思わずたじろいだ。
「じゃ、行ってきます」
「あ、うん」
 小さな体が小走りに駅に向かって行くのを見送った。涼しくなった首元を指で擦る。
 ここのところ、宥人はほぼ毎日新宿のおれのアパートに入り浸り、三軒茶屋にあるという自宅には帰っていなかった。加えてあの態度だ。ママではないが、たしかに、客観的に見ても、おれに気があると思えなくもない。距離感や価値感はひとそれぞれだろうが、どういうつもりなのだろう。面倒な家事をすべて担ってくれる便利さが違和感を上回っていたから、あえて意識しないようにしていたが、こういうふとしたときに考える。
 実際、宥人はおれのことをどう思っているのだろうか。