中野にあるアパートは築20年以上の老体で、つよい風の吹く日にはがたがた震えた。階段も年期が入っていて、一段上がるごとに軋んで老婆のため息のような音を立てる。
 六本木のクラブにいたときは経営する会社が業界大手だったこともあり、黒服にも寮があてがわれていた。退職と同時に退去を余儀なくされ、手持ちの貯金もなく、ろくに調べもせずに物件を契約した。彩ママが保証人になってくれた。以前の店を辞めたときにすくなからず揉めたため、それまで親しかった友人や目をかけてくれていた客たちは笑えるほど素早く離れていった。もともと期待していたわけではなかったが、それでも落胆した。
 かなり冷える夜だった。金曜の夜。店は賑わっていた。最後の客を帰したのは深夜2時を回った頃だった。片付けを済ませ、疲労困憊の体を引き摺って階段を上がる。
 エレベータなどあるはずがない。3階まで上がり、コートから鍵を取り出す。部屋には明かりがついていた。鍵を回すと、内側からドアが開いた。
「おかえり」
 深緑色のニットを着た宥人が微笑んでいた。

 最初に店で会ってから約半年。上階の店に行くついでに寄っていたはずの宥人は、いつの間にかうちの店に通うようになり、そのうちに店が終わってから食事をいっしょにするようになった。いつもの焼肉屋に飽き、深夜営業の店を開拓するのも億劫で、徒歩圏内のおれのアパートに場所を変えて、店が終わるまで待たせるのも気が引けて、合鍵を渡し、気づいたら毎日のようにおれのアパートで顔を合わせるようになっていた。
「おなか空いた? なにか食べる?」
「あー、うん」
 部屋に入ると昆布出汁のいい匂いがした。靴を脱ぎ、コートを脱いで、部屋の中央のソファに身を投げる。中央といっても、狭いワンルームだ。ベッドとソファとミニテーブルを置けば他にスペースはなくなる。
「すぐ準備するから座ってて」
 いわれなくても動く気はなかった。オープンからほとんど休むことなく立ち働いて、くたくただった。2月は多少暇だったが、年度末にかけて大忙しで、週末ともなれば常に満席の状態だった。繁盛するのはいいことだが、黒服がひとりでは負担も大きい。
 靴下を脱いで放り投げ、脚をだらしなく床に投げ出して、ソファに仰向けになる。眠ってしまいそうだったが、その前に料理がはこばれてきた。
 大根と鶏手羽元の煮物、蓮根と人参のきんぴら、焼き茄子、ほうれん草ともやしのナムル、蜆の味噌汁に米は五穀米だ。アスリートにでもなったのかと思うようなバランスの取れた献立。宥人は趣味程度などといったが、謙遜どころか大嘘だった。仕事帰りにコンビニに立ち寄って唐揚げやらパンやらを買う悪習はすでになくなっていた。
「手、拭いて」
 テーブルに皿を並べながら、宥人が四つ折にしたハンドタオルを差し出してくる。水で濡らして電子レンジであたためてある。すこし熱めのタオルを広げ、額に載せる。瞼の上にパイル地の感触が心地いい。
 潔癖とはいわないまでも、宥人はかなりきれい好きなようで、壊滅的に汚れて洗濯物やゴミが散乱していた部屋は完璧に清掃されて埃ひとつ落ちていなかった。
「あ、疲れた? 寝る?」
 缶ビールとミネラルウォーターのペットボトルを持ってきた宥人が気遣う。おれは首を振って上半身を起こした。
「いや、腹減ってるから食うよ。いただきます」
 実際、休憩もなく働いて、空腹だった。箸を取り、煮物を口に入れる。派手さはないが、やさしい味付けだった。生姜が効いていて、体の奥からあたたまる。
「うまい」
 正直に賞賛した。宥人はにっこり微笑んだ。
 考えてみれば、手作りの料理というものを体験したことはこれまでほとんどなかった。母親や頻繁に変わる母の恋人たちは育児に関心がなかったし、付きあった女たちもおなじような家庭環境だったためか、台所に立つようなタイプではなかった。自分でつくるのも面倒で、コンビニやスーパーで買う出来合いの総菜やファストフードばかり食べてきた。よくここまで身長が伸び、大きな病気もせず健康に生きてこられたものだ。じょうぶな体に産んでくれたことだけは親に感謝すべきかもしれない。
 ミネラルウォーターを飲んでから、ビールのプルタブを開けた。2種類用意するのはおれの気分によって好きなほうを選べるようにという気遣いだ。実際、飲みたい気分ではなかったが、食事をするうちに手が伸びた。当然、缶もグラスも冷えていた。
 宥人がおれの隣に座った。1枚の皿に米とおかずを盛りつけ、食べはじめた。
「待ってなくてよかったのに」
「待ってたわけじゃないよ。ちょうど小腹空いたとこだったから、あっためたついでの夜食」
 部屋の隅に開いたままのノートパソコンと厚めのファイルがそのままになっていた。遅くなった日にはここで仕事をして、翌朝弁護士事務所に出勤するのが定番のコースになっていた。
 弁護士としての仕事が暇だとは思えない。2日に1度のペースでここへきて、掃除やら料理やらをこなして、また仕事に出かけていく体力には驚くしかなかった。それも無理をしているわけではなく、いかにも楽しげだから不思議だ。
「今日、滝川先生きてたよ」
 飯を頬張りながらいう。
「香里さん指名してた」
「そっか。気に入ってくれてよかったね」
 滝川というのは区議会議員で、宥人と付き合いがあるらしく、紹介されて来店した。3度目で香里を指名して、どうやら太い客になりそうだ。
 ここのところ店が賑わっているのは宥人が紹介する客たちのおかげでもあった。職業柄顔が広く、さらにメディアにも登場する宥人の人脈は幅広かった。政界や法曹界、芸能界から金持ちの客が次々に訪れ、小さな店は連日大わらわだった。
「ビール、もう1本飲む?」
「飲む」
 宥人は静かに立ち上がって、滑らかな動きで冷蔵庫からビールを取ってきた。口数がすくないのは機嫌が悪いわけではなく、おれの疲労度をはかっているのだ。おれがストレスをため、捌け口を求めている夜には自分から話を振り、おれが疲れて会話も面倒だという夜には邪魔にならないよう控えめに振る舞う。
 宥人の気配りを同性愛者特有のものだと思っていたが、今ではそうでないことを理解していた。すべてのゲイがこうであるはずがない。おそらく、生来の気質のようなものだろう。
「宥人さんって、きょうだいいるんだっけ」
 きんぴらを噛みながら、尋ねた。舌先で歯茎をさぐっていると、宥人がさりげなく楊枝の箱をテーブルの上に滑らせてきた。
「下に妹が3人いる。2人は結婚してて、甥っ子と姪っ子が6人いて騒がしいよ。お正月とか、お年玉がたいへん」
「それでか」
「なにが?」
「面倒見がいい」
「実家ではなにもしないよ。ひとり暮らしだからいろいろやらないといけないだけで」
 習い事でも料亭への弟子入りでもなく、このレベルの料理がつくれるとしたら、相応の努力か親の教育によるものだろう。掃除や洗濯にしても、一朝一夕でできるものではない。
 床に脱ぎ散らかしたコートと靴下がいつの間にか消えていることに、ようやく気づいた。おれがだらだらしているうちに、宥人が片付けたのだろう。
 背筋を伸ばして静かに食事をする宥人を横目に見ながら、おれはこれまでに付き合った女たちのことを思い出していた。どの女も決して悪い女ではなかったが、おれとおなじような生活環境で生きてきただけに、生活能力が乏しく、頭もいいとはいえなかった。女とは我儘なものだと達観していたから、とくに喧嘩になることもなかったが、今考えてみれば、いかにも利己的で思いやりがなかった。
「なに」
 気づくと宥人がこちらを見ていた。おれはしばらく宥人を見つめていたようだ。
「べつに」
「なんだよ。気になる」
 宥人は穏やかな微笑を浮かべている。おれだけではなく、だれもが心をゆるしそうなやわらかい笑顔だった。おれはビールを飲んでから首を窄めた。
「ほんとになんでもないって」
 かろうじて誤魔化し、口を噤んだ。実際にはこういいたかった。あんたが女だったら、と。