翌日、宥人は店にこなかった。さすがに3日連続で夜の街に出るほど暇ではないのだろう。
 開店してしばらくは客がいないノーゲスト状態だったが、22時を回るとすこしずつ席が埋まりはじめた。1組目の客が帰り、手早くテーブルを片付ける。カウンターでグラスを拭きながら、おれは昨晩のことを考えていた。
 食事に誘ったのは、ふだんとはちがう時間に来店した宥人を訝しく思ったからだ。なにか話したいことがあるのではないかと思ったが、焼肉店での様子を見ていると、そういうわけでもないようだった。
 もうひとつ、宥人の仕事について知り、性的少数者と呼ばれる人々が社会で感じている疎外感を知って、自分の態度が宥人に不快感を与えたのではないかと考えたのだ。もちろん、差別的な感情はなかったが、おれにはどうも鈍感な部分があるようで、ときどき意図せず他人を傷つけてしまうことがあった。初対面のとき、いわゆる「そっち系」というような言葉をつかった記憶があった。しかし、その点も杞憂に過ぎなかったようだ。食事は和やかだったし、宥人も楽しげに見えた。
 ママのよけいな詮索のせいで気まずい瞬間もあったが、おれに対しても特別な感情はないようだし、宥人の態度にも違和感はなかった。
 唯一気にかかっていたのは、別れる間際、泊まりにこないかと誘われたとき、一瞬狼狽えてしまったことだ。
 戸惑ったのは性別や性質には関係ない。相手が女であってもおなじ反応をしただろう。しかし、宥人がおなじように考えたかどうかはわからない。
 終電もない時間だ。泊まっていけばと誘うことそのものに、たいした意味はないのかもしれない。宥人はおれに関心がないようだし、友人として声をかけただけなのだろう。深く考える必要はない。それでも、おれは帰宅後なかなか寝つけなかった。
 宥人が同性愛者だと知らなければ、気にもかけなかっただろう。しかし、おれは狭いアパートの部屋で何度も寝返りをうちながら、もし宥人の部屋に行っていたらどうなっていたか想像していた。
「ミヤちゃん」
 顔を上げると、スパンコールのあしらわれたロングドレス姿の美咲が腕を組んで立っていた。
「なにぼーっとしてんの。灰皿。早く持ってきてよ」
 ここのところ売上が落ちているせいか、機嫌が悪い。
「合図してるのに気づかないからわざわざ取りにきたんだよ。早くして」
「すみません」
 新しい灰皿を2枚重ねて手渡す。
「エロいことでも考えてたんじゃないの?」
 美咲はなにげなくいっただけだっただろうが、おれは慌てた。
「そんなわけないでしょ!」
「やだ、冗談だって。おっきな声出さないでよ」
 美咲は怪訝な顔をしたが、それ以上は関心を示さず、灰皿を手にさっさと席に戻っていった。
 背中が大きくひらいたドレスの後ろ姿を眺めながら、おれは周囲に目をくばった。客も女たちも会話に集中していて、黒服に注意を向ける者はない。
 カウンターに両手をつき、息を吐いた。美咲はママほど鋭くなければ聡くもない。ただの偶然だろう。それでも、自分でも気づいていなかった事実を指摘されたようで、狼狽した。
 おれはたぶん、昨日の夜べつの選択肢があったことを意識していたのだろう。そしてそこには、性的な要素もおそらく含まれている。つまり、宥人の部屋で濃密な時間を過ごす可能性を想像していた。
 相手が女でも、おなじような想像をしただろう。しかし、この場合に限っては、性別にかかわりないとはいえない。おれの性的興味の対象が女に限られるからだ。宥人が同性愛者だという意識が、そんな想像をさせたのかもしれない。不快ではなかったが、かすかな罪悪感と背徳感をおぼえた。
「ごめん、ミヤちゃん。煙草、頼める?」
 香里が席を離れ、足早にやってきた。客のものだろう空き箱を差し出してくる。
「わかりました」
「2つ、お願いね」
 コートを羽織り、スマホをつかんだ。
 店を出てエレベータのボタンを圧す。箱は最上階にいるようで、降りてくるのを待つ。客の買いものは珍しくない。以前は1階に自動販売機があったが、利用者の減少のためかすこし前に撤去されていた。おかげで煙草1箱のためにコンビニまで歩かなければならなくなった。
 エレベータがやってきた。扉が開き、中に入ろうと一歩踏み出したところで足を止めた。
 先客がいた。宥人とマオリが立っていた。向こうもおれに気づき、空気が張り詰めた。
 黙って箱に入った。そうしない理由がない。おれを頂角にして、右後ろにマオリ、左後ろに宥人といった奇妙な三角形。エレベータは3階、2階と地上を目指して下降していく。気まずい時間。永遠に感じた。
 右側には苛立ちを、左側には躊躇いを感じる。視線は感じない。どちらもおれのほうには顔を向けず、しかし確実に意識していた。マオリはどうでもいい。問題なのは宥人だ。5階の店にはしばらく行っていないはずだったのに、昨日おれとあんなふうに話をして、翌日にクソ男に会いに行く神経が理解できなかった。それも、おれの店には寄らずに。つまり、おれには知られずに会いたかったわけだ。
 エレベータが1階に到着し、ドアが開いた。おれは体を横にずらして、「開」のボタンを圧した。思いやりでもマナーでもない。ふだんそうしているから、自然と体が動いた。
 マオリが先に出て、宥人が後に続く。ふたりとも、おれを見なかった。
 また体が自然に動いた。気づくと宥人の手首をつかんでいた。引き寄せると、宥人の体は箱の中に引きもどされた。
 宥人は声を出さなかった。あっという間だった。マオリは気づかない。エレベータの扉が閉じていく。マオリの背中が細くなる。
 扉が閉まる寸前、間に腕が差し込まれた。マオリだった。ピアスだらけの顔を強ばらせ、両手で扉を開けて首を突っ込んでくる。
「おい、なんなんだよ」
 おれは無言で宥人の手を離した。宥人は困惑の表情を浮かべ、おれを見上げている。おれはエレベータの文字盤を見つめたままだった。
「なんか用かよ?」
 マオリがすごんだが、迫力不足だった。
「べつに」
「あっそ。……行くぞ」
 後半は宥人に向けていた。宥人はおれのほうを気にしながらも、マオリについてエレベータを出た。おれを警戒してか、マオリは宥人の腕をつかんで離さなかった。まるで犯罪者を連行する警察官のように、宥人を引き摺るようにして足早に去っていく。
「くそ……」
 無意識に舌打ちが漏れた。エレベータが再び上昇する。なにに対して苛立っているのか、自分でもわからなかった。宥人と親しくなったとたんに蔑ろにされた気がして不愉快だったのかもしれない。
 店のドアの前まできて、煙草を買っていないことに気づいた。宥人とマオリに気を取られて頭から消え去っていた。
 衝動的にドアを殴りつけそうになった。拳を固めたが、振り上げることはせず、胸の前で何度か掌を開閉して、気持ちを落ち着かせた。十代の頃は怒りに任せて後先考えずに行動して痛い目を見ることばかりだった。今もおとなになったとはいえないが、当時に較べればいくらか自制が効くようになった。
 エレベータで宥人の手をつかんだのはまずかった。あんなことをしてもなににもならないどころか、また宥人が八つ当たりされるおそれもある。
 まったく、どうかしている。こんなのはおれらしくない。
 コンビニに行くためにエレベータに乗り込む。今度は同乗者はいなかった。
 1階に降りた。扉が開くと、乗り込もうとしてきた人間とぶつかりそうになった。
「あ……」
 ほぼ同時に声を上げた。宥人だった。エレベータに乗り、おれの隣に立つ。
「……あいつは」
「帰ったよ」
「いっしょにどっか行ったのかと思った」
「タクシーに乗ったけど、すぐ降りた」
 無意識に4階を圧していた。エレベータを降りると、宥人もついてきた。
 予測不可能な宥人の行動に、おれは完全に困惑していた。戸惑いを隠しきれているかどうか、自信がなかった。
「お店、まだ開いてる?」
 ドアの前で、おれは振り返った。
「開いてるけど、閉店まであと1時間もないから」
「あ……そっか」
 宥人が俯く。
「じゃあ……」
「そこの居酒屋で待ってて。コンビニの隣の」
 おれに会いにきたわけではない。そう自分にいい聞かせたが、止まらなかった。宥人はにっこり笑って、頷いた。
 宥人に背を向け、ドアに手をかけて、おれは深いため息をついた。一言、呟いた。
「煙草忘れた」