昨日の夜。宥人の名前で検索して出てきた記事や映像を見ているうちに、ほとんど徹夜していた。難しい用語は理解できないが、宥人が対峙しているジェンダーや性差別、格差といった社会問題が、自分にまったく無関係だとは思えなかった。実際、安くない税金を支払って、20代の若さで水商売以外の職歴を持たないおれの状況にも、社会の構造が深く影響しているはずだ。昨日まではそんな意識を持ったことは一度もなかった。
 宥人はできる限りやさしい言葉を選択しながら、幅広い世代にわかりやすいよう工夫し、また他者を傷つけないよう配慮しながら慎重に、しかし強い印象を残すほど大胆に発信し続けていた。
「おれ、弁護士の仕事、誤解してたかも」
「いや、これは弁護士の仕事じゃないから」
 照れ隠しなのか、拗ねたようにいって、宥人が肉を頬張る。体型のわりによく食べている。
「最初からこういう感じではなかったんだけど、いろいろ書いているうちに、やたら絡まれるようになって、いつの間にか……」
 菊地宥人弁護士はSNSを活用して情報を発信し、いい意味でも悪い意味でも目立つ存在だった。性的少数者や外国人、性犯罪被害者の味方として、彼らのために慈善事業やデモに積極的に参加していた。旧態依然とした保守派には煙たがられているようだったが、書籍も何冊か出版し、テレビにも出演するほど知名度は高かった。おれやホステスたちが知らなかったのは、単純に接点がないことやそもそも社会の問題に関心が薄いせいだろう。
「そんないいもんじゃないよ。誹謗中傷もひどいし、殺害予告なんかもあるし」
「殺害予告?」
「あ、実害はないから平気」
 宥人が慌てて手を広げて見せる。
「ネットで殺すだのなんだのいう奴に、本気でやり遂げる勇気あるわけないしね」
「でも顔も本名もばれてたらあぶないんじゃないの」
「平気だよ。自分の身は自分で守れる」
 宥人のアカウントには自身の本名と顔写真が晒されているが、暴力的な言葉を書き込むアカウントのほとんどはハンドルネームだった。ひとりで戦っている人間に対して、不特定多数の連中が一斉に叩く構図は、不快としか形容できなかった。
 宥人が投稿するたびに、何百というコメントがつく。すべてではないが、ひとつひとつに宥人がしっかり返信していた。宥人の容姿を嘲るような悪意の塊や、あえて論点を逸らした主張にさえも、堂々と反駁している。テレビに出演していたときのように、その毅然とした態度と豊富な知識、語彙をもって、どの場合も圧倒的に優勢を保っていた。
「この前の記者も?」
「あれはまたべつ」
 宥人は話題を避けるように手を挙げて店員に合図し、空いたグラスを下げさせた。
「不安じゃねえの?」
「まあ、平和とはいえないけど、ちゃんとわかっててやってることだから」
 おれの問いに、宥人は当然というように答えた。
「自分とちがうって理由で他人を差別するようなアホをいい負かすの、趣味なんだ」
 箸を持ったまま、宥人がにっと笑う。思いがけない表情と言葉に、おれは呆気にとられて笑ってしまった。どうやら見た目よりもずっと強い人間らしい。やはりこれまでの印象を変える必要がありそうだ。
「なんか、かっこいいな」
「え?」
 宥人がまた照れて目を伏せる。
「そんなことないってば。善くんのほうがかっこいいよ」
「おれは筋肉だけの馬鹿」
「そんなことない。背高いし、喧嘩もつよいし」
「喧嘩がつよくてもなんの意味もないだろ」
「意味あるよ。だれかを助けてあげられる」
「宥人さんのほうが助けてる」
 噛みあっているようですれちがっているような、それでいて、奇妙な連帯感があった。なんとなく、同時に顔を上げ、視線がぶつかった。
「……もっと注文する?」
 宥人がいって、おれも頷いた。テーブルを埋め尽くした皿はほとんど空になっていた。
「おれはもういいかな。宥人さんは?」
「ぼくもおなかいっぱい。おいしかった」
 宥人の皿も空だった。茶碗には米粒ひとつ残されていない。
 閉店間際なのか、アルバイトスタッフが姿を消し、仏頂面の店主が伝票を持ってきた。
「おいしかったです。ごちそうさまでした」
 宥人が声をかけると、わずかに唇を歪めた。笑ったつもりなのかもしれない。態度が悪いのはいつものことだ。宥人は気にしていないようだった。
「今日はおれが払う」
 財布を出そうとする宥人を制した。
「え? いいよ、そんな」
「いいって。おれが誘ったんだから」
「いや、ほんとに。客なんだからぼくが払うのが筋でしょ」
「いや、これアフターとかじゃなくてプライベートだし」
「それならなおさら」
「しつこいな、もう……」
 苦笑いする。どうやら宥人は強いだけでなくかなり頑固なタイプらしい。けっきょく、10分ちかいやりとりの末に、半額ずつを出しあうことで決着が着いた。他の客もバイトもすでに帰り、店主はカウンターの椅子にかけて、2本目の煙草に火をつけたところだった。
 店を出ると、小雨は本降りになっていた。大粒の雨がアスファルトを叩いている。時刻は深夜3時を回っていた。ふだんなら平日でも通行人が多い通りだが、さすがにこの豪雨のなかで歩いている人間はすくなかった。
「善くん、店もどるんでしょ」
 宥人が鞄から折り畳み傘を取り出した。
「これ、つかって」
「宥人さんが濡れるじゃん」
「タクシー拾うだけだから」
 宥人はなかば強引におれの手に傘を圧しつけた。おれはすこし躊躇して、いった。
「送るよ」
「え?」
 宥人は一瞬戸惑ったが、すぐに笑った。
「もしかして、殺害予告とかのあれ、気にしてる?」
「べつに……」
「だいじょうぶだよ。女の子じゃないんだし、ひとりで帰れる」
「関係ないだろ。男とか女とかは」
 焼肉屋の軒下で雨を凌ぎながら、おれは隣の宥人に向きなおった。
「こんな時間だし、あぶないから家まで送る」
 折り畳み傘を広げ、宥人の頭上にさしかけた。
「でもうち三軒茶屋だよ」
 たしかに、食事代を割り勘にしたとはいえ、往復のタクシー代を考えると、手持ちの金額は少々心許ない。
「帰りは歩く」
「明日も仕事なのに、そんなの……」
 不自然に言葉を切って、宥人はすこし考えて、いった。
「それか、泊まっていく?」
「え……」
 ほんの一瞬、沈黙が流れた。宥人の表情は傘の陰になってよく見えなかった。
「あー……いや、やめとくかな。明日も仕事だし」
「そうだね。ぼくも仕事だ」
 宥人はおれに背を向け、通りがかったタクシーに向かって手を挙げた。タクシーがウィザードランプを点滅させる。
「おいしかった。ありがとう。おやすみ」
 早口にいって、宥人は素早くタクシーの車内に体を滑り込ませた。窓越しに手を振る。水滴で埋め尽くされたガラス窓を見下ろし、おれも軽く手を振り返した。
 タクシーのテールランプが見えなくなると、おれは下唇を突き出して息を吐いた。雨はさらに勢いを増していた。背後で焼肉屋の看板の灯が消えた。
 心の裡に靄のようなものを残したまま、おれは傘の柄を握りなおし、豪雨のなかに足を踏み出した。