開かずの間いっぱいに舞っていた糸が、いくつかの束になって、それぞれがそれぞれの方向へと赴く。
糸の束の一つを目で追うと、開かずの間の隅っこに転がっていた木偶の棒へと吸い寄せられていく。糸はキラキラを振りまきながら木偶の棒の全体を包み込むと、ただの器を人間へと元に戻す。この学校の生徒だ。
「うーん……」
生徒がゆっくりと伸びをして、のんびりと体を起こす。
「ふわ~よく寝た……」
「いっけね、レポート課題やんないと」
「そうだそうだ、先輩と待ち合わせしてたんだった」
僕とカイナのことも気にせず、気の抜けた欠伸とつぶやきを伴い、開かずの間から出て行った。
「これは……どういうこと……?」
さすがの僕も首をかしげた。その答えは、僕のカイナが解いてくれる。
「蜘蛛の糸は、生徒や先生の記憶だ。その記憶が本来の持ち主に戻ってきたことで、持ち主の姿も元に戻る。記憶は魔法で抜かれて、木偶の棒も魔法を受けた結果だからね、魔法が帰ってくれば、魔法によって変えられた姿も治る」
「な、なるほど……?」
「この学校全体に張られていた認識阻害の魔法も、張った魔法使い本人がいなくなったことでいずれは消えるだろう。今は僕の魔法も生きているが、一週間もすれば、もとの日常に戻る」
「じゃあ、蜘蛛と蝶の噂も、消える?」
カイナはうなずく。ふわりと微笑むカイナは、僕の頬を撫でた。
「噂の正体を突き止め、解決までたどり着けた。これは僕一人では成し遂げられなかったことだ。
きみがいたからこそできた。
ありがとう、ミカ」
まじりっけのない、微笑みだ。ふわりと、澄んだ水の香りが漂う。
僕の頬に触れる指先は冷たくて、でも心地良い。
学校を歪ませていた魔法の糸が、するすると解けていくのが、僕の目に映る。
天使の羽根が舞い降りてきたみたいに、神々しい光景だった。
そこにカイナの笑顔があってくれるだけで、もうすべてが報われた気がする。
「おれ……あんたと出会えてほんとによかった。
こちらこそありがとうだよ、カイナ」
カイナの紺藍の目が、ぱっと開かれた。笑顔をふにゃっと緩ませる顔は、王子様でも翼でもない。
三峰魁無だけの笑顔だ。
カイナがふと、僕を抱きしめた。僕もまた、カイナの背中に手を回す。
「どしたの、カイナ」
「……いや、きみは温いなと思って」
「なんだよ、それ」
「きっときみのぬくもりを味わえなくなるだろうから」
僕はぱっとカイナから離れ、カイナの目を見た。
「ど、どういう意味?」
「僕がこの学校へきた目的は、うわさの解明と、うわさを流した魔法使いの魔力をもらい受けることだ。それが想定より良い結果で達成された以上、ここに長居する理由はない」
僕はいまさら思い出した。うわさは解き明かし、魔法使いは消えた。
カイナがここにとどまる必要はない。もともと、カイナはこの学校の生徒じゃないのだ。 白い蝶と蜘蛛の噂はなくなり、標本にされることもない。
学校は全寮制じゃないし、松前もいなくなる。
そして、カイナも。
それが日常に戻るということだ。でも……。
「カイナだけ……学校に残るってことは、できない……?」
カイナの手をぎゅっと握る。このまま離したら、きっといなくなってしまいそうだった。
カイナはぱちくりとして、ふふっと噴き出した。
「僕をあんなに憎んでいたきみから、そんなふうに言ってもらえるとは光栄だ」
「まぜっかえすなよ。カイナと、もっとずっと一緒にいたいって、思っちゃったんだから……」
自分の顔が熱い。風邪を引いたでもないのに。
カイナがいるなら、学校が歪んだままでもいいとさえ思えた。
明日から、きっと、あれだけ望んでいた日常に戻れるというのに、カイナとのお別れが、日常の輝かしさに真っ黒な曇天を与えた。
「大丈夫」
と、カイナが僕の手を握り返す。
「永遠の別れじゃない。きっとまた会える」
「本当に? お師匠さんに叱られたり、おれに会うなって言われたりしない?」
「叱られはするだろうが、きみとの接触を禁じることはないだろう。何せ、僕の変身魔法も認識阻害も見抜ける逸材だ。師匠としては喉から手が出るほど欲しい人材だもの」
「そ、そっか……じゃあ、さようならじゃないよね」
カイナはうなずく。
「今はしばしのお別れだけれど、必ず会える。だから、ミカ」
「……ん」
僕は微かにうなずく。柔和に微笑むカイナが再び僕の頬を包み、そして柔らかなキスをくれた。
瞼を閉じ、カイナの頬を撫でる。喉の奥へ、温かな息が吹き込まれる。胸がどくんと鳴って、全身がぽかぽかしてきた。微かな軋みさえ覚えるこれは、カイナの魔力を流し込まれた証だ。
澄み渡る水に、体が満たされていく。
不快になんて思わない。むしろ、この満ち足りた感覚と、ぴりぴりした軋みの歪みが心地良い。
このキスのひとときが、永遠であればいいのに。
唇同士が離れるこの瞬間が、胸を寂しくさせる。
「! カイナ」
目の前のカイナの輪郭が、金色の粒子になって崩れてゆく。松前のときのように、少しずつ体が消えている。
僕は思わず、カイナの手を掴んだ。それで彼がここにとどまってくれるわけでもないのに、とにかくカイナの体温を感じていたかった。
「大丈夫。死ぬわけじゃない。魔法を解いて、僕もあるべき場所へ戻るだけ」
「でも、でも……!」
カイナの体は、もう胸の上までしか残っていない。彼と言葉を交わせる時間は、一分もないのだ。
「カイナ、おれのカイナ!」
「次に会うまでに、そう時間はかからない。
だって、僕のことは、きみにしか見抜けないのだからね、ミカ」
「でも、カイナ……!」
「最後は、笑顔をくれないか、ミカ?」
首まで迫っている。僕は自分の目から涙の匂いをかぎとった。むりやり頭を振って、必死に笑顔を作る。
ああ、でも、目からこぼれる涙を止められそうにない。
「カイナ……好きだよ。絶対に、また会ってやるから」
「ありがとう、ミカ。僕の愛しい人」
「カイナ。あんただけのミカが、ちゃんと見つけるから!」
「楽しみにしてる。僕のミカ」
涙でぼろぼろの僕は、カイナの頬に触れる。もう、黄金の粒子は顔にまで届いていた。
僕はとっさに、カイナにお別れのキスをした。目をつぶっていたから、カイナがどんな顔をしていたかはわからない。
唇の感触が消えて、僕は目を開く。
そこにカイナはいない。
ただ、キラキラと光る黄金の粒子が、さらさらと漂っていただけだった。
糸の束の一つを目で追うと、開かずの間の隅っこに転がっていた木偶の棒へと吸い寄せられていく。糸はキラキラを振りまきながら木偶の棒の全体を包み込むと、ただの器を人間へと元に戻す。この学校の生徒だ。
「うーん……」
生徒がゆっくりと伸びをして、のんびりと体を起こす。
「ふわ~よく寝た……」
「いっけね、レポート課題やんないと」
「そうだそうだ、先輩と待ち合わせしてたんだった」
僕とカイナのことも気にせず、気の抜けた欠伸とつぶやきを伴い、開かずの間から出て行った。
「これは……どういうこと……?」
さすがの僕も首をかしげた。その答えは、僕のカイナが解いてくれる。
「蜘蛛の糸は、生徒や先生の記憶だ。その記憶が本来の持ち主に戻ってきたことで、持ち主の姿も元に戻る。記憶は魔法で抜かれて、木偶の棒も魔法を受けた結果だからね、魔法が帰ってくれば、魔法によって変えられた姿も治る」
「な、なるほど……?」
「この学校全体に張られていた認識阻害の魔法も、張った魔法使い本人がいなくなったことでいずれは消えるだろう。今は僕の魔法も生きているが、一週間もすれば、もとの日常に戻る」
「じゃあ、蜘蛛と蝶の噂も、消える?」
カイナはうなずく。ふわりと微笑むカイナは、僕の頬を撫でた。
「噂の正体を突き止め、解決までたどり着けた。これは僕一人では成し遂げられなかったことだ。
きみがいたからこそできた。
ありがとう、ミカ」
まじりっけのない、微笑みだ。ふわりと、澄んだ水の香りが漂う。
僕の頬に触れる指先は冷たくて、でも心地良い。
学校を歪ませていた魔法の糸が、するすると解けていくのが、僕の目に映る。
天使の羽根が舞い降りてきたみたいに、神々しい光景だった。
そこにカイナの笑顔があってくれるだけで、もうすべてが報われた気がする。
「おれ……あんたと出会えてほんとによかった。
こちらこそありがとうだよ、カイナ」
カイナの紺藍の目が、ぱっと開かれた。笑顔をふにゃっと緩ませる顔は、王子様でも翼でもない。
三峰魁無だけの笑顔だ。
カイナがふと、僕を抱きしめた。僕もまた、カイナの背中に手を回す。
「どしたの、カイナ」
「……いや、きみは温いなと思って」
「なんだよ、それ」
「きっときみのぬくもりを味わえなくなるだろうから」
僕はぱっとカイナから離れ、カイナの目を見た。
「ど、どういう意味?」
「僕がこの学校へきた目的は、うわさの解明と、うわさを流した魔法使いの魔力をもらい受けることだ。それが想定より良い結果で達成された以上、ここに長居する理由はない」
僕はいまさら思い出した。うわさは解き明かし、魔法使いは消えた。
カイナがここにとどまる必要はない。もともと、カイナはこの学校の生徒じゃないのだ。 白い蝶と蜘蛛の噂はなくなり、標本にされることもない。
学校は全寮制じゃないし、松前もいなくなる。
そして、カイナも。
それが日常に戻るということだ。でも……。
「カイナだけ……学校に残るってことは、できない……?」
カイナの手をぎゅっと握る。このまま離したら、きっといなくなってしまいそうだった。
カイナはぱちくりとして、ふふっと噴き出した。
「僕をあんなに憎んでいたきみから、そんなふうに言ってもらえるとは光栄だ」
「まぜっかえすなよ。カイナと、もっとずっと一緒にいたいって、思っちゃったんだから……」
自分の顔が熱い。風邪を引いたでもないのに。
カイナがいるなら、学校が歪んだままでもいいとさえ思えた。
明日から、きっと、あれだけ望んでいた日常に戻れるというのに、カイナとのお別れが、日常の輝かしさに真っ黒な曇天を与えた。
「大丈夫」
と、カイナが僕の手を握り返す。
「永遠の別れじゃない。きっとまた会える」
「本当に? お師匠さんに叱られたり、おれに会うなって言われたりしない?」
「叱られはするだろうが、きみとの接触を禁じることはないだろう。何せ、僕の変身魔法も認識阻害も見抜ける逸材だ。師匠としては喉から手が出るほど欲しい人材だもの」
「そ、そっか……じゃあ、さようならじゃないよね」
カイナはうなずく。
「今はしばしのお別れだけれど、必ず会える。だから、ミカ」
「……ん」
僕は微かにうなずく。柔和に微笑むカイナが再び僕の頬を包み、そして柔らかなキスをくれた。
瞼を閉じ、カイナの頬を撫でる。喉の奥へ、温かな息が吹き込まれる。胸がどくんと鳴って、全身がぽかぽかしてきた。微かな軋みさえ覚えるこれは、カイナの魔力を流し込まれた証だ。
澄み渡る水に、体が満たされていく。
不快になんて思わない。むしろ、この満ち足りた感覚と、ぴりぴりした軋みの歪みが心地良い。
このキスのひとときが、永遠であればいいのに。
唇同士が離れるこの瞬間が、胸を寂しくさせる。
「! カイナ」
目の前のカイナの輪郭が、金色の粒子になって崩れてゆく。松前のときのように、少しずつ体が消えている。
僕は思わず、カイナの手を掴んだ。それで彼がここにとどまってくれるわけでもないのに、とにかくカイナの体温を感じていたかった。
「大丈夫。死ぬわけじゃない。魔法を解いて、僕もあるべき場所へ戻るだけ」
「でも、でも……!」
カイナの体は、もう胸の上までしか残っていない。彼と言葉を交わせる時間は、一分もないのだ。
「カイナ、おれのカイナ!」
「次に会うまでに、そう時間はかからない。
だって、僕のことは、きみにしか見抜けないのだからね、ミカ」
「でも、カイナ……!」
「最後は、笑顔をくれないか、ミカ?」
首まで迫っている。僕は自分の目から涙の匂いをかぎとった。むりやり頭を振って、必死に笑顔を作る。
ああ、でも、目からこぼれる涙を止められそうにない。
「カイナ……好きだよ。絶対に、また会ってやるから」
「ありがとう、ミカ。僕の愛しい人」
「カイナ。あんただけのミカが、ちゃんと見つけるから!」
「楽しみにしてる。僕のミカ」
涙でぼろぼろの僕は、カイナの頬に触れる。もう、黄金の粒子は顔にまで届いていた。
僕はとっさに、カイナにお別れのキスをした。目をつぶっていたから、カイナがどんな顔をしていたかはわからない。
唇の感触が消えて、僕は目を開く。
そこにカイナはいない。
ただ、キラキラと光る黄金の粒子が、さらさらと漂っていただけだった。
