カイナのことは、ミカにしか見抜けない

 松前の指令が、蜘蛛の表面をなぞる。僕がカイナに命令されたときみたいに、蜘蛛の体がぎしりと軋む。
 でも、どれほど待っても、蜘蛛は動かなかった。
「蜘蛛? どうした、傷ならもう癒やしたぞ。あの二体は私の敵だ。主君の敵を殺すのがお前の役目だ」
 松前が言葉を重ねても、蜘蛛は何も応えない。ただれた顔は、悲しそうに、静かに目を伏せていた。
「おい、蜘蛛、蜘蛛よ。返事をしろ。主君の命令に逆らうのか」
 松前の声に、いらだちが混じる。
 ようやく動き出した蜘蛛は、しかし僕らにその爪を向けない。
 その八本の脚で、そうっと松前を包み込んだ。
「おい、何をする……」
 僕にとってもその光景は奇妙に思えた。
 蜘蛛は松前の手下のはずだ。松前の意にそわないことをするとは思えない。
 松前本人も焦っている。青ざめた顔は、演技ではなさそう。
「おい、離せ! 何をする!」
 蜘蛛の顔の少年の唇が開く。かすかな声が、松前の怒号に優しく寄り添う。
 ――おとうさん。
 少年は確かにそういった。
(おとうさん? もしかして蜘蛛は……)
 巨大蜘蛛は松前を抱き込むが、決して危害を加えない。治ったはずの爪がボロボロに砕けて、砂のように散っていく。
「やめろ、離せ!」
 明らかに取り乱している松前と蜘蛛の周りに、真っ白な細い糸が漂い始めた。さっき僕らを包み込んだ繭と同じだ。二人を繭が包み込んでいく。
「やめろ、やめろ!! 私を巻き込むな! 離せ化け物!!」
 松前の体は、蜘蛛ごと繭へと抱き込まれていく。半狂乱になって蜘蛛から逃れようと、繭を手でかき乱す。
 ――おとうさん。
 蜘蛛は確かにそう呟いている。
 ――もう、僕のためにがんばらなくていいよ。
「やめろ!! 離れろ!! 化け物め!!」
 松前にその声が届いていない。僕にしか聞こえていないのか? カイナの方をちらっと視たが、カイナは口を少し開いて、意外そうな表情をしていた。
「カイナ、あれって……」
「繭の糸は、蜘蛛の魔力から生み出されている。しかし……あの囁き声は……?」
 カイナにも聞こえているらしい。僕らに聞こえるあの声は、やっぱり。
「離せ! 化け物!!」
 松前が悲鳴を上げていた。 
「助けてくれ!! 死にたくない!」
 無意識で手を伸ばそうとするよりも早く、しかしその手さえ覆うくらい、繭は大きくなり、最後には松前を優しく包みきっていった。
 蜘蛛が、ゆっくりと顔をこちらに向ける。
 その顔は微笑んでいたが、悲しげだった。
 純粋無垢ではなく、混じりけがないわけでもない。
 喜びにも悲しみにも、諦めとも達観ともとれる。
 でもその顔は――ほんとうの竹岡翼は、僕とカイナを交互に見やって、僕らに答えてくれた。

「ありがとう。ごめんね」

 蜘蛛もついに繭へ包み込まれ、ふたりの姿は繭の中に守られていった。
 僕らは、その様をじっと見守っていた。
 繭はふたりを包み込んだあと、サラサラと砂のように少しずつ崩れていく。
 最後の一本が宙に消える。繭の中に閉じ込められていた松前も蜘蛛も、一緒に散ったらしい。
 僕らの目の前には、純白の糸の雨が舞っているだけだった。