カイナのことは、ミカにしか見抜けない

 歌うような声で、朝の生徒たちのうわさを先輩は語る。
 白銀の蝶を見たら、蜘蛛の巣に捕まって顔を奪われる? 標本になる? 餌にされる?
 聞けば聞くほど、わけがわからなくなる。そんな話、昨日まで耳にしたこともない。
「彼らは僕の認識阻害魔法によって、その噂を起因とした行方不明や死亡事故に恐怖も疑問も感じない。人間、未知の存在にはパニックになるらしいからね。その心理が僕にはあまり理解できないんだけれど」
「そこまでわかってるなら、標本にされないように予防すべきじゃないんですか!」
「下手に知恵をつけて、旧校舎三階に赴く生徒がいなくなっては困る。この騒動を巻き起こした者との接触が困難になる」
「巻き込まれる生徒と先生の命はどうなるんですか!」
「さあ?」
 三峰先輩は、肩をすくめた。
「……認識阻害とか、魔法とか、そんな大がかりなことして、おれにつきまとって、何がしたいんですか……!」
「自我の、固着を」
 先輩の答える声は、冷え冷えとして、僕の脳髄を凍らせようとする。あのおっとりした微笑はそのままなのに、魂から吸い取られるような音になって僕の耳をおかしくしてきた。
「蜘蛛の巣の標本のうわさについては、僕の師匠から調査命令が下った。だからこの学校に潜入したというのもある。でも、根本的な目的は自我を固着させること」
「自我……?」
「僕は変身魔法も得意でね。昔っから、自分ではない誰かに変身することをしょっちゅうやってるせいかな、ときどき自分の輪郭がわからなくなるときがある。だから、自分が自分であるという確固たるモノを得るためにも、今回の主犯を見つけ出してその力を獲得する必要がある」
 まるで、友達に進路のことをこぼしているみたいなノリだ。僕は無意識に、苦い顔をしていた。渋いお茶のせいではない。
「……変身とか、認識阻害とか……意味わかんない」
「証拠を見せようか」
 そう言うと、先輩の輪郭が、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。三峰魁という異物の輪郭がゆらゆらと揺れて、少しずつ形を取り戻していく。でも、そこにいるのは三峰魁じゃなかった。
 僕は自分の目を疑った。目の前にいる人間は、三峰先輩じゃない。
 朝に会話を交わした、姉だった。
「な……」
 目を擦って、頭を振って、まばたきしても、それは現実だと知らしめてくる。
 明るく染めた茶髪をサラサラなびかせて、お気に入りのTシャツに高校時代のジャージを適当に羽織って、玄関を出る瞬間に「いってらっしゃい」を告げてくれた今朝の姉そのものだ。
夏菜(ナツナ)、姉ちゃん……」
「きみの姉だろう? 浪川夏菜(ナミカワナツナ)。大学二年。授業とアルバイトのほかに、家事のほとんども引き受けている」
 淡々と姉の現状を語る声も、姉そのものだった。
「これが変身魔法だ。きみと触れたときに、きみの姉の素性も経験も、すべて得た。受験に失敗したことも、両親との仲が良くないことも、アルバイトの面接に何度も堕ちていたことも、」
 気がついたら、僕は姉に擬態した三峰先輩の胸ぐらを、思い切り掴んでいた。僕の目は、確かに姉を映しているが、「それ」が三峰先輩であり、姉ではない偽物だとわかる。
 姉のフリをして、姉を貶める、最低な存在だった。
 歯を食い締めてにらみつける僕を、三峰先輩は特に驚きもせず、ただ見つめ返すだけだった。
「あんたに……夏菜姉ちゃんの何がわかる!!」
「全部わかるよ。挑戦しては失敗を繰り返しての人生だったようだね。自分を扶養する両親に反抗的な行動には少し意外性があるけど……」
「うっさいな! これ以上は黙っててくれよ!」
 こんな異物を、認めない。どれだけ失敗しても、親と喧嘩してても、それでも僕に対して向ける笑顔も言葉も、愛情に満ちていた姉ちゃんを、軽々しく口にするこの人が許せなかった。
 姉に擬態した男の言葉を、静かに聞いていられるほど、僕はおとなしくできない。
 顔が熱くなって、胸がドキドキして、握りしめた拳に爪が食い込んだ。
 こんなやつ……こんなやつに!!
 目の前の姉は、姉じゃない。僕の知る、明るくてお調子者で世話焼きで、弟を甘やかしてくれる夏菜姉ちゃんは、遠く離れた家にいる。
 こいつは、姉の姿をかぶっただけの怪物だ。
 なのに、振り下ろそうとした手は、震えたまま動かない。じっと三峰先輩をにらみつけて、一分たったころ、結局僕は手を離した。