でもさ。僕はやっぱり、あのお香の焦げつくような最低な眼差しが欲しいよ。
物思いにふけりながら開かずの間の扉に手を伸ばす。
そのとき、背後から感じたこともない予感が、悪寒と共にやってきた。
振り向くと、巨大蜘蛛の鋭い爪が振り下ろされる直前だった。
「あぶない!」
僕は反射で翼を胸の方へ抱き込み、床へと倒れ込んだ。
蜘蛛の爪は空を鋭く裂いた。チリッとした感覚が僕の背中に走ったとたん、だんだんじわじわと熱を生み出す痛みが広がってきた。
「ぐ、っう……」
じくじくして、じわじわして、ずきずきする。背中に斜めの線を描くように痛みが刻まれる。
床に押し倒してしまった彼からどこうと、床についた腕に力を込める。
「愚かな」
松前の冷たい声だ。コツコツと、つやつやの靴が古びた床をたたきつけている。ヤツが一歩一歩進むごとに、足下に白い糸がさあっと現れる。
「翼を返しなさい」
襟首を掴まれたが、身を捩って無理矢理振り払った。
「三峰魁の痕跡は、もう存在しない。この世のどこにも」
冷たい断言だ。でも、僕の心はそれに抗っている。
背中から、生温い液体が伝っているのがわかる。
「浪川君……! 血、が……」
「だーいじょぶだいじょぶ……」
姉を真似て笑ってみたが、僕の背中に手を回して血を確かめた彼に、どれほど安心を与えられただろうか。
「聞き分けのないモノだ」
松前がコツリとまた床を叩いた。突如、僕の周囲にぶわっと突風が巻き起こる。
さっと周りを確認すると、真っ白な糸が無数、翼ごと僕を包み込んでくる。
繭のように僕も翼も閉じ込められる。キャンプのテントよりも狭い繭の中は、どれほど叩いても壊れる気配はなかった。
僕の胸の奥が、どくんと熱く脈打った。
「浪川君! きみまで繭の中へ……」
彼が僕にすがりつき、背中を撫でる。その黒い目は取り乱してて、少し潤んでいる。
【翼】であっても、あんたは僕をこんなに案じてくれてるんだな。
「平気……出る方法はいくらでもあるはずだし……」
「だめだ……! この繭は、作り手が解除しなければ出られないんだ……僕がおとうさんになんとかしてもらうから……」
「いや、いい」
彼に、松前のために頭を下げてもらう必要はない。
それより、逆に言えば。ここには僕と彼しかいない。時間は迫ってきているのだろうが、ほんの数分だけでも充分。
松前は言ってた。三峰魁の存在を証明するものはないと。
「あるよ。おれの、なかに」
僕は彼の頬を両手で包み込んだ。涙目で錯乱する彼を落ち着けるようになでさする。
背中の痛みが、背中を通り越して胸とお腹側まで食い破ってこようとする。苦しい思いを必死に押し込んで、無理矢理笑顔を浮かべる。笑顔は人を安心させるという姉の教えを信じよう。
「あんたは、竹岡翼じゃない。きれいな花みたいに甘い匂いでも、清廉潔白な純粋さでもない」
額から汗がにじみ出る。血が手に、さらに指にまで伝ってきて、彼の頬を汚してしまった。「あんたは、王子様の仮面をかぶって、爽やか好青年ぶって、おれには好き勝手振る舞って……」
心なしか、息苦しくなる。でも、まだ大丈夫。
「そのくせ、迷子の子どもみたいで、お香の焦げつく香りも、水みたいに穏やかな香りも持ってる、最高に最低の魔法使い。
あんたは、三峰魁無。おれの、カイナ」
僕は迷わず、魁無に唇を重ねた。
魁無の唇は硬くて冷たい。翼の真っ黒な目が見開いてた。そりゃびっくりするだろう。ただの同級生が自分に向けてキスしてるんだから。
(翼、ごめん)
あんたは僕を信頼してくれてる。その記憶が偽物で、君の性格もねじ曲げられた末の産物なのだろう。
でも、僕は魁無に戻ってきてほしいんだ。
そのために翼を、魁無から追い出す。
薄情? 残酷? そうだろうな。
魁無と初めて出会った、最悪の一日を思い出す。あのとき、魁無はどうやって僕にキスしてきただろうか。
(よくわかんないけど、けど……)
僕の体の中に宿った、魁無の魔力を魁無に返す。
爪先から脳天まで、血管みたいに張り巡らされた魔力を、魁無の喉へと吹き込む。人工呼吸で息を与えるみたいに。
僕の指が、ピリピリと痺れる。そして連動するように、指先から腕、腕から胸、お腹、足へと、体のすべてに弾けるようなくすぐったさがやってきた。
僕の、血だらけの背中に、魁無の手が這う。苦しいのだろうか、傷口に容赦なく爪を立てて、背中に疼く痛みがよみがえる。ごめん、もう少しの辛抱だ。
僕は心の中で謝りつつ、それでも魁無へのキスを続ける。
せめて少しでも安心してもらえるように、魁無の頬を撫で、頭と背中を撫でた。
「ん、んっ、うぅ……」
唇の隙間から、うめき声が聞こえる。それは翼のものか、それとも魁無のものなのか、僕にはわからない。
僕はゆっくりと、魁無に魔力を返す。
松前は、三峰魁を証明するものはないと豪語していた。きっと、僕の心をへし折るための方便だろうけれど、ある程度は確信していたかもしれない。
――それはどうかな。
僕の体の中に、魁無からもらったものがある。
魁無に従うための、魁無の魔力。
魁無が翼の記憶に塗りつぶされそうになるのなら、僕が魁無のモノをあげる。
僕が何かを失うとしてもかまわない。
だから、魁無。
目を覚まして。
物思いにふけりながら開かずの間の扉に手を伸ばす。
そのとき、背後から感じたこともない予感が、悪寒と共にやってきた。
振り向くと、巨大蜘蛛の鋭い爪が振り下ろされる直前だった。
「あぶない!」
僕は反射で翼を胸の方へ抱き込み、床へと倒れ込んだ。
蜘蛛の爪は空を鋭く裂いた。チリッとした感覚が僕の背中に走ったとたん、だんだんじわじわと熱を生み出す痛みが広がってきた。
「ぐ、っう……」
じくじくして、じわじわして、ずきずきする。背中に斜めの線を描くように痛みが刻まれる。
床に押し倒してしまった彼からどこうと、床についた腕に力を込める。
「愚かな」
松前の冷たい声だ。コツコツと、つやつやの靴が古びた床をたたきつけている。ヤツが一歩一歩進むごとに、足下に白い糸がさあっと現れる。
「翼を返しなさい」
襟首を掴まれたが、身を捩って無理矢理振り払った。
「三峰魁の痕跡は、もう存在しない。この世のどこにも」
冷たい断言だ。でも、僕の心はそれに抗っている。
背中から、生温い液体が伝っているのがわかる。
「浪川君……! 血、が……」
「だーいじょぶだいじょぶ……」
姉を真似て笑ってみたが、僕の背中に手を回して血を確かめた彼に、どれほど安心を与えられただろうか。
「聞き分けのないモノだ」
松前がコツリとまた床を叩いた。突如、僕の周囲にぶわっと突風が巻き起こる。
さっと周りを確認すると、真っ白な糸が無数、翼ごと僕を包み込んでくる。
繭のように僕も翼も閉じ込められる。キャンプのテントよりも狭い繭の中は、どれほど叩いても壊れる気配はなかった。
僕の胸の奥が、どくんと熱く脈打った。
「浪川君! きみまで繭の中へ……」
彼が僕にすがりつき、背中を撫でる。その黒い目は取り乱してて、少し潤んでいる。
【翼】であっても、あんたは僕をこんなに案じてくれてるんだな。
「平気……出る方法はいくらでもあるはずだし……」
「だめだ……! この繭は、作り手が解除しなければ出られないんだ……僕がおとうさんになんとかしてもらうから……」
「いや、いい」
彼に、松前のために頭を下げてもらう必要はない。
それより、逆に言えば。ここには僕と彼しかいない。時間は迫ってきているのだろうが、ほんの数分だけでも充分。
松前は言ってた。三峰魁の存在を証明するものはないと。
「あるよ。おれの、なかに」
僕は彼の頬を両手で包み込んだ。涙目で錯乱する彼を落ち着けるようになでさする。
背中の痛みが、背中を通り越して胸とお腹側まで食い破ってこようとする。苦しい思いを必死に押し込んで、無理矢理笑顔を浮かべる。笑顔は人を安心させるという姉の教えを信じよう。
「あんたは、竹岡翼じゃない。きれいな花みたいに甘い匂いでも、清廉潔白な純粋さでもない」
額から汗がにじみ出る。血が手に、さらに指にまで伝ってきて、彼の頬を汚してしまった。「あんたは、王子様の仮面をかぶって、爽やか好青年ぶって、おれには好き勝手振る舞って……」
心なしか、息苦しくなる。でも、まだ大丈夫。
「そのくせ、迷子の子どもみたいで、お香の焦げつく香りも、水みたいに穏やかな香りも持ってる、最高に最低の魔法使い。
あんたは、三峰魁無。おれの、カイナ」
僕は迷わず、魁無に唇を重ねた。
魁無の唇は硬くて冷たい。翼の真っ黒な目が見開いてた。そりゃびっくりするだろう。ただの同級生が自分に向けてキスしてるんだから。
(翼、ごめん)
あんたは僕を信頼してくれてる。その記憶が偽物で、君の性格もねじ曲げられた末の産物なのだろう。
でも、僕は魁無に戻ってきてほしいんだ。
そのために翼を、魁無から追い出す。
薄情? 残酷? そうだろうな。
魁無と初めて出会った、最悪の一日を思い出す。あのとき、魁無はどうやって僕にキスしてきただろうか。
(よくわかんないけど、けど……)
僕の体の中に宿った、魁無の魔力を魁無に返す。
爪先から脳天まで、血管みたいに張り巡らされた魔力を、魁無の喉へと吹き込む。人工呼吸で息を与えるみたいに。
僕の指が、ピリピリと痺れる。そして連動するように、指先から腕、腕から胸、お腹、足へと、体のすべてに弾けるようなくすぐったさがやってきた。
僕の、血だらけの背中に、魁無の手が這う。苦しいのだろうか、傷口に容赦なく爪を立てて、背中に疼く痛みがよみがえる。ごめん、もう少しの辛抱だ。
僕は心の中で謝りつつ、それでも魁無へのキスを続ける。
せめて少しでも安心してもらえるように、魁無の頬を撫で、頭と背中を撫でた。
「ん、んっ、うぅ……」
唇の隙間から、うめき声が聞こえる。それは翼のものか、それとも魁無のものなのか、僕にはわからない。
僕はゆっくりと、魁無に魔力を返す。
松前は、三峰魁を証明するものはないと豪語していた。きっと、僕の心をへし折るための方便だろうけれど、ある程度は確信していたかもしれない。
――それはどうかな。
僕の体の中に、魁無からもらったものがある。
魁無に従うための、魁無の魔力。
魁無が翼の記憶に塗りつぶされそうになるのなら、僕が魁無のモノをあげる。
僕が何かを失うとしてもかまわない。
だから、魁無。
目を覚まして。
