*
一瞬落ちた意識が、浮上してきた。
泥のように重たい体を必死で起こす。
視界は真っ暗。薄暗くてうすら寒い。
耳をつんざくほどの静けさと、混じりけのない空気の匂いが漂っている。
じょじょに、視界が晴れてきた。いや、夜目に慣れたのかも。
(ここ……どこ……)
うるさいくらいの静寂に、少しずつ音と声が聞こえてくる。
立ち上がろうとして、自分の足をうまく動かせないことに気がついた。
だらりと力の抜けた足の方を見やると、僕の足首には真っ白な蜘蛛の糸がぐるぐると絡みついていた。
「……なにこれ」
喉がひくっとひきつる。状況を整理しようと、必死で思考を回転させる。
「え」
気がつけば、左手首にも蜘蛛の糸が巻き付いていた。しゅうしゅうと、軽やかな音を奏でて、どんどん僕の左手を埋め尽くしていく。
ぐいぐいと手足を動かしても、無事な手で引きちぎろうとしても、糸はびくともしない。
ふと床に目をやったが、蜘蛛の巣はない。その事実にほっとしたが、だからといって自分の安全が保証されたわけじゃないのだ。
「浪川君」
翼の声だ。正面から声が聞こえた。
暗闇が晴れて、翼の――三峰先輩の姿を見つけられた。
彼は古びたパイプ椅子に背筋を伸ばして座って、手足からだらっと力を抜いている。
「翼……うそ……」
僕の全身から、血がさっと引いた。
目の前の翼は笑っている。三峰先輩の顔で。
でも、裂けるんじゃないかってほど歪む微笑は、人間のする表情じゃない。
人間として赤点レベルの三峰魁だって、そんな笑顔はできない。
翼の周囲に、絹のような糸が無数張り巡らされている。それは翼が操っているようにも見えるし、翼を守っているようにも、閉じ込めているようにも見える。
糸の一つ一つから、フィルムみたいなものが現れて、記憶のワンシーンが流れてくる。
暗闇の中の映写機で、映画を観てるみたいに、ありもしない思い出がどんどん再生される。
「浪川君は、僕との思い出をたくさん作って欲しいな。今までも、これからも……」
静かに喋る翼の声が、すーっと耳に入ってくる。耳の中に水が入ったみたいな不快感だ。
「きみは、僕の親友だから……きみがいてくれれば、いいんだ」
「っ、何言ってんだか意味わかんないんだけど! おれはあんたの親友なんかじゃないし、これまでも親友じゃなかった!
これはあんたの作り上げた、アリもしない妄想だ!!」
蜘蛛の糸に、蜘蛛の巣に、巨大な蜘蛛と、白い蝶。存在しないはずの記憶。
昼間の学校の時間は誰も気にとめなかった。いや、それが異質であることを誰も認識しなかった。学校には必ず先生と生徒がいるのを、誰が疑問に思うのだろう。そんな感じ。
でも、目の前の翼は、蜘蛛の糸も記憶も、すべて理解した上で僕に話している。
なら、ここで、この世界がおかしいと気づいていることを隠すことはしなくてもいい。
そう思ったら、いくらでも叫ぶことができた。苦し紛れだけど。
「ううん、今までもこれからも、ずっとずっと、ずっとずっとずっと親友だよ。だって、そういうものだから」
「それがでっち上げだって言ってんだ!」
体の奥に、熱が灯る。僕の魁無の顔で、声で、ありもしない妄想にすがる翼に、もう好感なんて持てない。
「おまえは何者なんだ、竹岡翼! 蜘蛛の巣の噂を作って、おれの友達を標本にしようとして、みんなに偽物の記憶をうえつけて!
そして、おれの大切なひとを残酷な形で奪って!!
一体なにが目的だ!!」
力いっぱい叫んでしまった。しゅうしゅうと、巨大蜘蛛の吐息が耳にまで近づいているのに、僕ときたら勇ましい。 翼は心底悲しそうに、眉尻を下げる。まるで僕が傷つけたみたいに。
「だって……こうすることが、みんな幸せになることなんだもの」
「誰がそんなこと言うんだよ!」
「僕のおとうさん」
翼はゆっくりと、しっかりと答えた。
おとうさん? おとうさんって誰だ。
この学校に、おかしな世界をねじ込んだ人物だっていうの?
「それは、だれだ」
「やだなあ。浪川君はすでに会ってるじゃないか」
「……は?」
翼が、だらりと垂らした手を上げ、僕の後ろの方へと指をさす。
後ろにだれかいる? この場には、僕と翼の他には、あのおぞましい巨大蜘蛛しかいないと思ってた。
僕の知ってる人? 知らない人? 恐る恐る、僕は床を這ったまま、振り向いた。
ぼんやりと薄暗い空間で、いつの間にか現れた無数の白銀の蝶があたりを照らす。
人の顔が一瞬見えた。その顔には見覚えがある。誰であるかもすぐにわかった。
でも、頭が理解を拒んだ。いや、パズルのピースをつなげることができなかった。
僕の指先が急激に冷えて、心臓が皮膚から突き破るくらいに飛び出る。
「松前……先生……」
一瞬落ちた意識が、浮上してきた。
泥のように重たい体を必死で起こす。
視界は真っ暗。薄暗くてうすら寒い。
耳をつんざくほどの静けさと、混じりけのない空気の匂いが漂っている。
じょじょに、視界が晴れてきた。いや、夜目に慣れたのかも。
(ここ……どこ……)
うるさいくらいの静寂に、少しずつ音と声が聞こえてくる。
立ち上がろうとして、自分の足をうまく動かせないことに気がついた。
だらりと力の抜けた足の方を見やると、僕の足首には真っ白な蜘蛛の糸がぐるぐると絡みついていた。
「……なにこれ」
喉がひくっとひきつる。状況を整理しようと、必死で思考を回転させる。
「え」
気がつけば、左手首にも蜘蛛の糸が巻き付いていた。しゅうしゅうと、軽やかな音を奏でて、どんどん僕の左手を埋め尽くしていく。
ぐいぐいと手足を動かしても、無事な手で引きちぎろうとしても、糸はびくともしない。
ふと床に目をやったが、蜘蛛の巣はない。その事実にほっとしたが、だからといって自分の安全が保証されたわけじゃないのだ。
「浪川君」
翼の声だ。正面から声が聞こえた。
暗闇が晴れて、翼の――三峰先輩の姿を見つけられた。
彼は古びたパイプ椅子に背筋を伸ばして座って、手足からだらっと力を抜いている。
「翼……うそ……」
僕の全身から、血がさっと引いた。
目の前の翼は笑っている。三峰先輩の顔で。
でも、裂けるんじゃないかってほど歪む微笑は、人間のする表情じゃない。
人間として赤点レベルの三峰魁だって、そんな笑顔はできない。
翼の周囲に、絹のような糸が無数張り巡らされている。それは翼が操っているようにも見えるし、翼を守っているようにも、閉じ込めているようにも見える。
糸の一つ一つから、フィルムみたいなものが現れて、記憶のワンシーンが流れてくる。
暗闇の中の映写機で、映画を観てるみたいに、ありもしない思い出がどんどん再生される。
「浪川君は、僕との思い出をたくさん作って欲しいな。今までも、これからも……」
静かに喋る翼の声が、すーっと耳に入ってくる。耳の中に水が入ったみたいな不快感だ。
「きみは、僕の親友だから……きみがいてくれれば、いいんだ」
「っ、何言ってんだか意味わかんないんだけど! おれはあんたの親友なんかじゃないし、これまでも親友じゃなかった!
これはあんたの作り上げた、アリもしない妄想だ!!」
蜘蛛の糸に、蜘蛛の巣に、巨大な蜘蛛と、白い蝶。存在しないはずの記憶。
昼間の学校の時間は誰も気にとめなかった。いや、それが異質であることを誰も認識しなかった。学校には必ず先生と生徒がいるのを、誰が疑問に思うのだろう。そんな感じ。
でも、目の前の翼は、蜘蛛の糸も記憶も、すべて理解した上で僕に話している。
なら、ここで、この世界がおかしいと気づいていることを隠すことはしなくてもいい。
そう思ったら、いくらでも叫ぶことができた。苦し紛れだけど。
「ううん、今までもこれからも、ずっとずっと、ずっとずっとずっと親友だよ。だって、そういうものだから」
「それがでっち上げだって言ってんだ!」
体の奥に、熱が灯る。僕の魁無の顔で、声で、ありもしない妄想にすがる翼に、もう好感なんて持てない。
「おまえは何者なんだ、竹岡翼! 蜘蛛の巣の噂を作って、おれの友達を標本にしようとして、みんなに偽物の記憶をうえつけて!
そして、おれの大切なひとを残酷な形で奪って!!
一体なにが目的だ!!」
力いっぱい叫んでしまった。しゅうしゅうと、巨大蜘蛛の吐息が耳にまで近づいているのに、僕ときたら勇ましい。 翼は心底悲しそうに、眉尻を下げる。まるで僕が傷つけたみたいに。
「だって……こうすることが、みんな幸せになることなんだもの」
「誰がそんなこと言うんだよ!」
「僕のおとうさん」
翼はゆっくりと、しっかりと答えた。
おとうさん? おとうさんって誰だ。
この学校に、おかしな世界をねじ込んだ人物だっていうの?
「それは、だれだ」
「やだなあ。浪川君はすでに会ってるじゃないか」
「……は?」
翼が、だらりと垂らした手を上げ、僕の後ろの方へと指をさす。
後ろにだれかいる? この場には、僕と翼の他には、あのおぞましい巨大蜘蛛しかいないと思ってた。
僕の知ってる人? 知らない人? 恐る恐る、僕は床を這ったまま、振り向いた。
ぼんやりと薄暗い空間で、いつの間にか現れた無数の白銀の蝶があたりを照らす。
人の顔が一瞬見えた。その顔には見覚えがある。誰であるかもすぐにわかった。
でも、頭が理解を拒んだ。いや、パズルのピースをつなげることができなかった。
僕の指先が急激に冷えて、心臓が皮膚から突き破るくらいに飛び出る。
「松前……先生……」
