弾む足取りの翼についていく。旧校舎二階つきあたり。
砂嵐のスマホは、かろうじて十六時を指している。
とっておきの部屋――僕にとっては開かずの部屋。
巨大蜘蛛が、空っぽの生徒から記憶を啜っていたあの光景を思い出す。
そんなところに連れて行くなんて、翼は何を考えているんだろう?
堂上先生の持っていたはずの鍵で、翼は扉を開く。たてつけの悪い戸を引くと、薄暗くて涼やかな空気が広がる。
そこに蜘蛛はいないけど、花の蜜のような余ったるい香りが、僕に警告する。
翼は迷いなく開かずの部屋へと入り、奥へと進む。
僕はふと、部屋の中央に置かれた長台に気づいた。けが人を運ぶときの担架というか、手術台みたいにも見えた。
「浪川君」
翼が呼ぶ。僕の足が、勝手に動いた。
翼は手術台のうえに寝そべると、僕の方へと手を伸ばす。
「手を、握っててほしいんだ。終わるまで」
「終わる……? 何が……?」
「大切な、注入が」
何それ。言葉の意味がよくわからない。
急に、頭の中に警鐘がガンガン鳴り響く。逃げろ、今ならまだ引き返せるぞって言ってくる。
その警告に従わなかったのは、足が床に根を張ったからなのか、翼のすがるようなまなざしに三峰先輩を重ねたからなのかはわからない。
ここで翼の気持ちに応えてあげなければ、とりかえしのつかないことになっていただろうから。
僕は差し出された右手を、そっと包む。いつの間にか、翼の体が、黒いバンドでぎちぎちに固定されていた。様子がおかしい。
うすら寒さが、極寒に豹変する。甘ったるい匂いが消えて、代わりに生臭さが鼻につく。
消え入るような翼が、ひとつせき込んだ。大丈夫? と空気を吸い込もうとした瞬間、翼の首に大きな黒い何かが突き刺さった。
鋭くてぎらつくそれは針でもなんでもなかった。おそるおそる視線をたどると、生物の爪だ。見覚えがある。これは、これは。
「……あ、ぁ」
僕は口をぱくぱくさせて、翼に爪を刺したモノがあの巨大蜘蛛だとようやく理解した。
全身に、ぶわっと冷や汗が噴き出た。見間違えるはずがない。あれは僕のよく知る蜘蛛だ。頭部に貼りつく少年の顔が、それを物語っている。
「ぐ、かは、あ、」
翼の乾いたうめき声がする。首に突き刺さった爪から、白銀の糸が少し漏れ出ている。
僕の目が見抜いた。爪を通じて、翼に糸を注ぎ込んでいる。捕まえた生徒から奪った記憶の糸だ。
注射みたいに糸を注入された翼の体が、魚みたいに跳ね上がる。痛いのか、苦しいのか、怖いのか、そのどれもなのか。
翼が顔を青くして、ぜいぜいと呼吸にもならない呼吸を繰り返す。黒い目をかっと開いて、苦悶に顔をゆがめて、糸が体のなかへと侵入していくのをただ受け入れるしかできない。
僕の手を、潰す勢いで握りしめる。
僕はただ、恐怖で足がすくんで、喉が震えて、何もできなかった。宙に散らばる糸の欠片が虹みたいにきらきらして、生徒と生徒の記憶が一瞬だけ映る。
「うぅ……あ、か、あぁぁ……っっ」
翼の手が、僕の手を強く握りしめる。骨がみしみしとうめいて、もしかしたらヒビが入ったかもしれない。
跳ね上がる手足は、黒いバンドでがっちりと拘束されて逃げることも許されていない。どんなに苦しくても、この仕打ちに耐えなければならないのだと、僕はようやく気付く。
でも、一体だれが……? どうして、三峰先輩の体にそんなことを。
僕は翼へ声をかけることもできなかった。
ずぶっと爪が引き抜かれた。深く突き刺さっていたはずの首からは、血の一滴も流れなかった。
砂嵐のスマホは、かろうじて十六時を指している。
とっておきの部屋――僕にとっては開かずの部屋。
巨大蜘蛛が、空っぽの生徒から記憶を啜っていたあの光景を思い出す。
そんなところに連れて行くなんて、翼は何を考えているんだろう?
堂上先生の持っていたはずの鍵で、翼は扉を開く。たてつけの悪い戸を引くと、薄暗くて涼やかな空気が広がる。
そこに蜘蛛はいないけど、花の蜜のような余ったるい香りが、僕に警告する。
翼は迷いなく開かずの部屋へと入り、奥へと進む。
僕はふと、部屋の中央に置かれた長台に気づいた。けが人を運ぶときの担架というか、手術台みたいにも見えた。
「浪川君」
翼が呼ぶ。僕の足が、勝手に動いた。
翼は手術台のうえに寝そべると、僕の方へと手を伸ばす。
「手を、握っててほしいんだ。終わるまで」
「終わる……? 何が……?」
「大切な、注入が」
何それ。言葉の意味がよくわからない。
急に、頭の中に警鐘がガンガン鳴り響く。逃げろ、今ならまだ引き返せるぞって言ってくる。
その警告に従わなかったのは、足が床に根を張ったからなのか、翼のすがるようなまなざしに三峰先輩を重ねたからなのかはわからない。
ここで翼の気持ちに応えてあげなければ、とりかえしのつかないことになっていただろうから。
僕は差し出された右手を、そっと包む。いつの間にか、翼の体が、黒いバンドでぎちぎちに固定されていた。様子がおかしい。
うすら寒さが、極寒に豹変する。甘ったるい匂いが消えて、代わりに生臭さが鼻につく。
消え入るような翼が、ひとつせき込んだ。大丈夫? と空気を吸い込もうとした瞬間、翼の首に大きな黒い何かが突き刺さった。
鋭くてぎらつくそれは針でもなんでもなかった。おそるおそる視線をたどると、生物の爪だ。見覚えがある。これは、これは。
「……あ、ぁ」
僕は口をぱくぱくさせて、翼に爪を刺したモノがあの巨大蜘蛛だとようやく理解した。
全身に、ぶわっと冷や汗が噴き出た。見間違えるはずがない。あれは僕のよく知る蜘蛛だ。頭部に貼りつく少年の顔が、それを物語っている。
「ぐ、かは、あ、」
翼の乾いたうめき声がする。首に突き刺さった爪から、白銀の糸が少し漏れ出ている。
僕の目が見抜いた。爪を通じて、翼に糸を注ぎ込んでいる。捕まえた生徒から奪った記憶の糸だ。
注射みたいに糸を注入された翼の体が、魚みたいに跳ね上がる。痛いのか、苦しいのか、怖いのか、そのどれもなのか。
翼が顔を青くして、ぜいぜいと呼吸にもならない呼吸を繰り返す。黒い目をかっと開いて、苦悶に顔をゆがめて、糸が体のなかへと侵入していくのをただ受け入れるしかできない。
僕の手を、潰す勢いで握りしめる。
僕はただ、恐怖で足がすくんで、喉が震えて、何もできなかった。宙に散らばる糸の欠片が虹みたいにきらきらして、生徒と生徒の記憶が一瞬だけ映る。
「うぅ……あ、か、あぁぁ……っっ」
翼の手が、僕の手を強く握りしめる。骨がみしみしとうめいて、もしかしたらヒビが入ったかもしれない。
跳ね上がる手足は、黒いバンドでがっちりと拘束されて逃げることも許されていない。どんなに苦しくても、この仕打ちに耐えなければならないのだと、僕はようやく気付く。
でも、一体だれが……? どうして、三峰先輩の体にそんなことを。
僕は翼へ声をかけることもできなかった。
ずぶっと爪が引き抜かれた。深く突き刺さっていたはずの首からは、血の一滴も流れなかった。
