カイナのことは、ミカにしか見抜けない

 竹岡翼と名乗った生徒は、邪気のない微笑みを浮かべ、静かで控えめな声で語る。
「しばらく病院にいたのですが、晴れて退院となりました。少しでも早く授業に追いつきたいと思います。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
 白いふわふわの髪が揺れる。教室の中央に置かれた席へと静かに着くと、周囲の生徒たちがこそこそと話しかけていった。
「教科書ある?」
「ノート見せてあげよっか?」
「お昼一緒にたべよーよ」
 何とも微笑ましい会話だ。僕は自分の目の前の現実が信じられなくて、それどころではないというのに。
「きみたち、静かに。そういう談笑は休み時間にやりなさい」
「はーい」
 SHRもそこそこに、一限目の授業が始まる。
 授業中、それとなく竹岡翼の後ろ姿を観察してみたが、三峰魁だったころの名残が何一つ見当たらない。
 シャーペンをカチカチ鳴らすしぐさも、考え事をするときにお行儀よく唇に手を添えることも、ピンと伸ばした背筋がときどきくたっとする無防備さも。
 そんなもの、魁先輩は持っていなかった。機械のようにきびきびした動作と完璧な笑顔で王子様みたいに振舞っていたのに、今の彼は儚い病弱な少年のように庇護欲を掻き立てる。
 休み時間ではクラスメートたちに囲まれて、何かと世話を焼かれる。
 ノートのコピーを取ってきたとか、食堂の日替わりがおすすめとか、飲みたいものはなにかとか、いつごろ部活には戻れるかとか。
 次から次へとやってくる労りの言葉に、翼は目を丸くして困っていたようだけど、その苦笑が嫌悪感からくるものではないとわかる。
「ありがとう、みんな。とっても助かるよ」
 三峰先輩の声だが、喋っているのは三峰先輩じゃない。皆に愛され、皆の助けを借りる竹岡翼のものだ。
 こんな穏やかで穢れのなさそうな声色で喋るような人じゃなかった。三峰魁という魔法使いは。
(あんたは、計算し尽くしたかのようにさわやかな声を使う王子様で、おれに威圧的で冷たい声で命じる魔法使いで、迷子になっておれを探す子どもみたいに危なっかしい声を出す魁無だろうが)
 声を耳にしていると、自然と苛立ちが募る。同時に、背中に冷たい汗があふれる。
 この世界はおかしい。目の前にいる竹岡翼は、本当は三峰魁なのに。
 おかしいと認識しているのは、この学校で僕だけだ。
「浪川君」
「……え」
 数学のノートにガリガリと意味のない語彙を書きなぐっていた僕に、翼が話しかけてきた。間近で見ると明らかに三峰先輩だとわかるのに、その精神は竹岡翼。
 翼は柔和に微笑んで、下心もなく僕に近づいてくる。
「お昼、よかったら一緒にどうかな」
「あ、ああ……え、と……」
「もし用事があるなら、無理にとは言わないんだけれど」
 困ったように眉尻を下げると、断ろうとするこっちが悪いように思えてくる。
 特に用事もない。かといって今の三峰先輩を……翼を前にして、冷静でいられる自身はなかった。
「いや、大丈夫。一緒にたべよ」
 無理矢理笑顔を作って答えると、翼はぱあっと表情を輝かせた。
 あの人は、こんな風に輝く笑顔を作らない。
 昼休みまでの授業中、僕は先生の話をそっちのけで、翼の背中を見ていた。ぴしっと背筋を伸ばして、ときどき考えごとをするように、シャーペンのカチカチするところで前髪を掻き上げる。
 時々、机の上の教科書やノートに目を落とすけど、いつも先生の話を真剣に聞いている。 外見は三峰先輩のままだから、ほんの少しの仕草一つが違和感であふれている。
 先輩と比べてしまう。
「浪川君」
 昼休みが、きてしまった。体育のマラソン大会のときと同じくらい、こなくていいと心から思った。
 僕はこっそり深呼吸して平常心を保つ。
「購買限定のハーブティ、まだ残ってるかな。学校を休む前も飲んでて、思い入れがあるんだよね」
「コーヒー牛乳じゃなくていいの。ハーブティは競争率高いし」
「んー、それちょっとニガテで……」
 三峰魁の、あと少しで芽生えそうな嗜好が、簡単に塗りつぶされた。