カイナのことは、ミカにしか見抜けない

 コーヒー牛乳まみれの部屋を掃除する。ラグやシーツやシャツはランドリーに突っ込んで、あとで取りに行こう。一時間くらいかかる。
 タイマーをかけて、まずは掃除だ。
 べちゃべちゃの床をモップで拭いて、ひとまず元通りになった。
「ごめんなさい、先輩」
「構わないよ。僕こそ、すまなかった。きみの気持ちを考えられず」
「もう、気にしてないですよ」
 先輩には勉強椅子に座ってもらい、僕はお茶を淹れた。緑茶の苦い香りが漂う。
 温かい緑茶をちびちび飲んだ先輩の表情は、もう少しだけ緩んでくれた。
 先輩は、何も言わない。
 僕は竹岡翼のことを話したかったが、それより聞きたいことがあった。
「先輩、毎日やってるあのおまじないのこと、聞いてもいいですか」
「ん? ああ、あれ……何か気になることでも?」
「前に、これをやらないと死ぬって言ってたから……」
 先輩は一つまばたきして、緩やかに微笑んだ。
「強い言葉で、少し誤解をさせてしまったな。あれは、一度でも怠ると死ぬわけじゃない。副次的なものでね、師匠に殺されるんだ」
「……え」
「鏡の問いかけに答えられなかったら、自我をなくしたとみなされる。自分を失った僕は、ただの空っぽの器とそう変わらない」
「先輩のお師匠って……どんな人……?」
「普通だと思う。周囲の人は厳しいとか怖いとかいうけれど、むしろ優しい方だよ。自我をなくしかけた僕を弟子入りさせてくれたんだから」
 先輩の言葉は続く。
「師匠に拾われたのは、十年くらい昔だったかな。僕の家が、もともと認識阻害と変身に秀でていた血筋でさ、物心ついたころから、ずっと変身していた」
「変身して、何するんですか」
「いろんなことを。富豪になりすまして財産を頂戴したり、死んだ人になりすまして遺族の心につけこんだり、偉い人になりすまして家に取って有利な書類をしたためたり……
 何にでもなったよ。家の求める者には何にだって。そうして僕のいたところはどんどん富を肥大化させていった。誰かの財産と心に寄生して、富と名誉を手に入れていった」
「変身って、自我が曖昧になるんじゃないんですか」
「なるとも。変身魔法の過剰行使は推奨されていない。家の人たちはそれをよくわかっていた。だからかな、まだ小さくて、分別もついていない僕にすべてを求めた」
 何も言えない。
「変身魔法の優れたところを知っていると同時に、副作用も理解していた。だから自分たちで変身魔法を使うことを最大限避けたのさ」
 先輩は、なんてことのないように言うけど。僕には、理解しがたい。
 だって、先輩はまだ子どもだったじゃないか。
「ただね、あまりにやりすぎたから、秩序の魔法使いたちに目をつけられた。そして滅んだ」
 簡単に言う。
「師匠に出会ったのもその時だ。本当は僕も処分されるはずだったんだけど、まだ小さかったというのと、変身魔法の有効活用を見出すために、僕だけ引き取られた。
 三峰魁という名も、師匠につけてもらった」
「……ん? じゃあ、元の名前は何なんですか」
「覚えてないんだ。変身しすぎて、自分の名前も忘れてしまった」
 先輩はまだ温かいお茶を飲む。
「師匠に名前を与えられたとき、僕の心に杭が打たれたんだ」
「……くい?」
「自我の曖昧な僕を固定するためのモノだ。そして命じられた。毎朝毎晩、鏡の前で問いかけ、答えろと。
 それができなくなったら、憐れなお前を虹の橋へと送り出すとね」
「……」
「師匠がここに送り込んだのも、僕の自我を固着させるためのひとつの手段だ。外側から僕を定義する存在があれば、それだけ自我も保ちやすい。
 僕にとっては、自我を確立することは、何よりの願いなんだ。そうすることで生きれるし、死ななくて済む。そして……僕は僕であるという芯がひとつ、できる気がするんだ」
 お茶を片手にぽつぽつと話す先輩は、まだ見たことのない表情をしている。
 生徒や先生に求められる王子様でも、僕にしか見せない最低の魔法使いでもない。
 自分の拠り所を探し求める迷子だ。
 その表情は、期待される仮面をすべて取り払った、まっさらな『彼』そのもの。
 この人は、出口のない迷路を、ずっと彷徨ってるんだろう。
 小さい頃は、大人の都合に振り回されて、三峰魁になってからは、与えられた名前に必死にしがみついて。
 誰も、彼の本当の素顔が見えていない。
 彼が見せようとしなかったのかもしれないけど、誰にも安心して見せられなかったんだ。
 僕の左手のひらが、ずきずきと痛む。もっと痛みが欲しくて、爪を立てた。
「……せんぱいは」
「うん?」
「なんて言えばいいんだろ……なんだか……かわいそうだ」