カイナのことは、ミカにしか見抜けない

   *

「行こうか」
 三峰先輩の、おっとりした微笑みが、僕の心に貼りついてはがれなかった。
 先輩に大人しくついていく僕の頭の中は、朝のできごとを必死で思い出していた。授業は午後からだと言って昼まで寝ているくせに、僕が学校へ行こうとすると起きて「いってらっしゃい」とにこやかに送り出してくれた姉の笑顔が蘇る。父さんも母さんも仕事人間で、「行ってらっしゃい」「おかえり」という姉の言葉が、僕には何よりの宝物の一つなのだ。
 あの笑顔は、あの言葉は、決して嘘なんかじゃない。
 でも、今朝聞いた白銀の蝶のうわさに、先生の抑揚のない連絡、そして三峰魁という異物の存在。
 どれだけ自分が異変を訴えても、周囲の人は誰ひとりとして僕の言葉を受け入れない。
 まるで、僕の方がおかしいみたいに。
 夢を見ているのだろうか? これが夢なら、早くさめてくれ。
 僕の足はおぼつかなくて、根無し草のようにふらふらしている。何かがおかしい、自分は何もおかしくないと気を強く持っていないと、今にも渡り廊下の床に頽れそうだった。
 特別棟を通って教室棟へ。道中、誰ともすれ違わなかった。窓から差し込む夕日の光が眩しく、そしてどこかうすら寒い。
「……浪川愁君」
「…………なんですか」
 先輩の足が、ぴたりと止まる。つられて僕も止まる。くるりと踵を返して、先輩は僕におっとりとした微笑みを向けてくる。
「君は、僕の髪が何色に視える?」
「は?」
「何色に視える?」
 先輩の声は穏やかだったが、有無を言わさぬ強さが潜んでいた。僕はその言葉に、答える。
「……白、でも、銀色に視える、かも」
 一瞬、三峰先輩の青紫の目が、揺らいだ気がする。
 先輩が、僕の肩をそっと掴んで、廊下の壁に押しつけてきた。痛みも衝撃もなく、自然な流れで僕は三峰先輩に押さえつけられるのが、いっそ不気味だ。僕の顔の横に、先輩の手がついている。まるで逃げ道を塞がれているように。
「驚いた」
 先輩がぽろりと零す。その瞬間、僕の背中から脳天へと、強い悪寒が走り抜けた。全身から汗がぶわっと噴き出して、瞬きさえできなくなる。
 さっきまでのおっとりした雰囲気がガラッと変わった。微笑んではいるが、心は笑っていない。標的を見つけた狩人のような、ツワモノの眼差しで僕の目をまっすぐ見る。
「僕の魔法がまるで効いていない。学校全体を覆うように、けっこう強めの認識阻害の膜を張ったのに、きみはその膜から免れている」
 先輩の指が、僕の頬に触れた。氷のように冷たくて、血が通ってないんじゃないかとさえ思った。
「きみ自身は、魔法とは無縁の、純粋な人間のようだ。魔法除けがかかっているわけでもなさそうだし……本当にただの無害で無力な人なんだね」
「さっきから、何言って……! 認識阻害ってなんだよ! おれは寮暮らしじゃないし、あんたのことなんて知らない!!」
 震える声で、それでも気丈に言い返しても、三峰先輩には効果がなかった。それどころか、微笑みを深めて、喉を鳴らすように声をこらえている。
「興味深い」
 先輩の顔が、僕に近づく。鼻先がくっつきそうだ。先輩が近づくと、ふわっと花の蜜のような、甘い匂いが漂った。朝にすれ違ったときと同じ匂いだ。
「僕の魔法にかからなかった無力な人間は、きみが初めてだ」
 先輩が、耳元でわざとらしく囁いてくる。喉も手も震えて、彼を突き返せない。
「標本調査ができればいいと思っていたけれど……気晴らしも必要だろう。その気晴らしに、君を使ってあげる」
「……な、に」
「きみが視ているもの、きみの周囲で起こっているもの、きみの目の前にいるもの。
 すべて、教えてあげよう」
 先輩と僕を隔てるように、青い蝶がひらひらと舞った幻を見た。
 僕と三峰魁の出会いは、最悪だった。