カイナのことは、ミカにしか見抜けない

 部屋の前まではあっという間に到着した。ノブを回すのも、ノックをするのも、本当はこわい。
 立ち尽くす僕の左手の平が、ズキッと疼いた。部屋の鍵を突き刺した痕が、白く残っている。
 鍵は空いてる。ノックをしたが、手が震えてうまくたたけなかった。
 僕はそっと、扉を開く。部屋は薄暗かった。カーテンを閉め切って、外の光を拒絶している。
 薄闇のなかで電気ボタンを探す中、コーヒー牛乳の余ったるい匂いと、花の蜜の香りと、お香の焦げついた匂いが混じって鼻をおかしくさせる。
 エアコンの凍えるような空気が肌を刺す。時計の秒針にかくれて、三峰先輩のかすかな呼吸音が聞こえた。
 灯りをつけると、下段ベッドに膝を抱えてうずくまってる先輩を見つけた。スマホをぎゅっと握りしめて、こぼしたコーヒー牛乳まみれの部屋で、カタカタ震えてる。
 彼の輪郭が二重三重にブレて、今は誰の姿になろうとしているのかもわからない。
 でも、誰の姿を取っていても、僕には彼が三峰魁だとわかる。
「……せんぱい」
 震える肩にそっと触れると、一瞬だけびくっとしてた。
 おそるおそる顔をあげた先輩は、まさしく三峰魁だ。
 青紫の目を僕に向けて、すごくホッとしたように顔が緩んでいた。
「もどって、きて、くれた」
 コーヒー牛乳の惨状を片づけるよりも、僕は先輩の隣に腰を下ろす。
「……あの、ごめんなさい。コーヒー牛乳ぶつけて。傷つけてしまって……」
 先輩の目を見る。ごめんなさいを言うときは、ちゃんと相手の目を見るんだよと、夏菜姉ちゃんに教わった。
 先輩は首を横に振る。
「きみを、怒らせてしまったことはわかったんだ。でも、理由がわからない。僕はどうして失敗したのか、わからないんだ……」
 先輩の声は、今にも消え入りそうだった。
「夏菜姉ちゃんになったのって、おれをからかうつもりでやったわけじゃないでしょう?」
 先輩は頷く。
「僕が魔法の過剰行使で摩耗したとき、助けてくれたから……お礼がしたくて……」
「でも、それなら何も姉ちゃんに変身する必要なくないですか?」
「きみは、僕が嫌いだろう? 嫌いなやつから感謝の言葉を受けてもうれしくも何ともないはずだ。でも……浪川夏菜の姿なら、受け取ってくれると思って……」
 僕は、なんというか、どう言葉をかければいいかわからなかった。
「ほんとに、それだけなんだ。どうしたらきみが喜んでくれるか、きみが笑ってくれるか、それしか考えられなかった。
 嫌いな僕でも、きみを喜ばせたくて……でも、方法がわからなくて……僕には、これしかわからないから……」
 三峰魁は、魔法使いで、僕――ただの人間でしかない浪川愁とは、決定的に価値観がちがう。
 僕のことも、最初はただの都合のいい道具くらいにしか考えてなかっただろう。それがどう転んだのか、僕を特別だと認識した。
「おれが、姉ちゃんのこと大事なひとだって言ったから?」
 先輩はうなずく。
「姉ちゃんにありがとうって言ってもらったら、おれも喜ぶって考えた?」
 また頷いてくれる。
「スマホで姉ちゃんのことをしきりに聞いたのって、より姉ちゃんに似せるため?」
 ゆっくり頷いてくれた。
「そっか」
 まったくの善意だったんだろう。僕にお礼を言いたくて、こんな遠回しなことをした。
 変身魔法が得意な三峰先輩は、夏菜姉ちゃんに変身した。
 ――ここからは、たぶん、想像だけど。
 きっと、鏡の前で、確かめたんだろう。浪川夏菜という存在になりきれているか。
 不安と期待が心に入り交じっていただろう。助けてくれた僕にお礼をしたいから、自分にできる最大限の力を使って「ありがとう」って言おうとしたんだ。
 結果、僕の踏み込まれたくない領域を踏みにじってしまった。
 僕に拒絶されたとき、先輩はどんな気持ちだったのだろう。
「……きみの姉がうらやましい」
「え?」
 先輩が、部屋の時計を眺める。
「浪川夏菜に変身したとき、彼女の記憶も共有された。記憶を通して見るきみは、いつも笑っていて……僕がどれほど欲しいと思っても、きみの笑顔は僕には得られないものだから……だから……浪川夏菜になれば、きみも笑ってくれると思ってた」
「……でも、おれの笑顔は姉ちゃんに向けられたものであって、先輩自身に向けたものじゃなかったかもしれない。それでもですか?」
「それでも。それでも……きみの微笑みが見れるのなら……かまわなかった。自分に向けられた笑顔でなくても、そんなのいつものことだから」
 先輩の眉が、くしゃくしゃになる。コーヒー牛乳をこぼしてシミを作ったシャツを、ぐしゃっとかきむしる。
「おかしいんだ。不調が続く……きみを見てると、いつも心がざわざわする。僕に流れる魔力がざりざりって音を立てて、うまく魔法を使えない」
「それって……」
「変身魔法や攻撃魔法に影響はない。でも、きみのそばにいると、魔法を使う手が震えるんだ。鏡を見て、毎朝毎晩のおまじないもうまくいかない」
 先輩は、前髪を掻き上げる。声が震えてる。
「これも、きみの魔法のせいなのだろうか。……今まで、誰にも教えてもらわなかった。胸が苦しい、息も苦しい、頭の中がきみのことばかりで、行動すべてがきみの基準で考えられていく……」
「先輩……」
 先輩の手が、僕の肩を掴む。そして、いつの日だったかのように、僕をベッドへ押しつけた。
「浪川夏菜になったとき、古市兼広(フルイチカネヒロ)になったとき、堂上毅(ドウジョウツヨシ)になったとき……彼らの記憶を通じて、きみの笑顔も戸惑いも涙も知った。
 僕には、決して見せない顔を、彼らはいくつも知ってる」
 先輩の手が、肩に食い込む。痛いけど、僕の目は先輩から離せない。
「そんなもの、最初はべつに欲しくなかったのに」
 花の蜜の匂い、お香の焦げた匂いがぐしゃぐしゃに混じる。
「記憶を通じてきみを知れば知るほど、胸が潰れる……魔法を使う手が震える……自分がわからなくなる……僕だってきみをもっと知りたい、どんなに変身しても必ず見抜いてくれるきみが、どうやったら笑ってくれるかずっとずっとずっと考えてた……
 おねがいだから……
 僕の知らないきみを、これ以上見せないで」