カイナのことは、ミカにしか見抜けない

「マジで〜?」
「教師が標本とか久々じゃん」
 クラスメートが口々にこぼしている。先生たちもカラオケ行くんだ、みたいな気軽すぎるノリで、この非常事態を受け止めている。というか、全然疑問にも思っていない。
 そんな軽率な返し方で片づくもんじゃないだろう? だけどそう思っているのは、この学年では僕一人だけだ。
「あ、あの……松前先生……」
「どうかしましたか、浪川君」
 震える手を挙げたけど、不審に思われなかっただろうか。
「せ……せんせいも標本になるんですか……? 生徒だけじゃなく……?」
 松前先生は、目をぱちくりさせていた。教壇のうえに置いたプリントを生徒たちに配り始める。
「もちろん。標本になるのは何も生徒だけじゃぁないんですよ」
「最近は生徒ばっかだったもんね」
「今度は教頭先生かなあ」
 プリントを受け取りつつ、クラスメートは軽口を叩く。教室で静かに笑い声が聞こえるけど、僕にとっては笑いごとじゃない。
「松前せんせ〜、世界史はしばらくお休みですか〜?」
 と、後ろの席の宇田が訊ねる。
「幸運なことに、世界史は二年の先生が引き受けてくれるよ。よかったな」
「え〜〜!」
 教室内の大ブーイングに、僕は薄ら寒さを覚える。
 人ひとり蜘蛛の犠牲になったというのに、それよりも授業の心配?
 三峰先輩の認識阻害魔法の効果とはいえ、あまりに軽々しすぎやしないか?
「……浪川君?」
 松前先生が僕を覗き込む。黒黒とした目はどこか落ち窪んでて、じっと見つめられると底なし沼に引き込まれそうな気がした。
「……いえ、少し寝不足で」
「そうか。期末も近いので、無理はしないように」
 プリントが回ってきた。小テストらしい。
 解く気にもなれない。クラスメートたちはぶつくさ文句を言いながら、用紙に答えを書き込んでいる。紙と机の上を走るペンのコツコツした音がやけに鮮明で、耳がおかしくなりそうだ。
 小テスト用紙に目を落とす。シャーペンをカチカチノックして名前を書こうとした瞬間。
 真っ白なプリントに、赤いシミがボタボタと浮かび上がってきた。
 突然のことにフリーズしていた僕に、プリントは赤く染まり上がり、さらに赤色を追加して人の顔を描き出した。
 僕は叫び声を出しそうになって、すぐさま口を手でふさぐ。手汗がにじんでいるのに、唇を覆う感覚は冷たい。
 顔はやがて真っ黒な目を僕に向ける。にまりと微笑むその顔に、僕は覚えがあった。
(蜘蛛の……顔……)
 旧校舎の音楽室で遭遇した、巨大な蜘蛛を思い出す。
 青葉を捕まえて、幸せな記憶をじゅうじゅう啜ってた蜘蛛のに貼り付いていた、少年の顔。忘れようと頭を振っても、彼はずっと追いかけてくる。
(見えてるのは、僕だけか?)
 プリントに異変があるのは僕だけなのだろうか? それとなくこっそりと周囲をうかがってみると、信じられないことに、みんな同じことになっていた。青葉も羽室も、となりの席のみんなも、何も気にせずプリントにペンを走らせている。驚く人も怖がる人もいない。それどころか微笑ましそうに、紙に浮かぶ顔と心のなかで会話しているようでさえあった。
 信じられない。わけがわからない。これも三峰先輩の認識阻害か?
 僕の手は動かない。目もそらせない。震えて、プリントに答えを書くどころじゃない。
『書かないの?』
「……!?」
 僕の息が、止まった。
『答えがわからないのかな? 適当でもいいから、解答欄を埋めちゃおう』
 頭の中に響くような、少年の声だ。誰かが僕に話しかけているのか? でも、みんなテストに集中している。
『もうすぐ終了だよ。せめて名前は書かなきゃ!』
 ――誰? お前は誰なんだよ。
 僕につきまとうお前はなんなんだ。
『ほら、ちゃんと書こうよ。
 【浪川愁】って』
 心臓が止まるかと思った。背中が薄氷に変わったみたいに、凍りついた。体がふわふわして、座ってなきゃ自分を支えることもできない。
『大丈夫? 具合が悪いのかい? きみならこれくらいの問題、なんてことないはずだよ』
 ――問題を解くどころじゃないんだよ、おかげさまで!
 かすかな苛立ちさえ覚える。
 コツコツ。コツコツ。ペンの音がやかましい。
 くすくす。くすくす。どうして笑ってられるんだ?
 一つ一つの静かな音が、僕の耳に無理やりねじ込まれて、冷静さを奪う。
 この時間が、永遠のように感じる。
 これが夢ならどんなに良かったか。
『ほら、がんばろう?』
 プリントに滲んでいる少年が、手を伸ばしてきた。その手は紙からゆっくりと浮かび上がり、黒い霧のように僕の手に迫る。腐った生臭さを伴いながら。
 ――来るな!
 心が必死に叫ぶ。しかし虚しく手は少しずつ迫ってくる。
 中指の爪が、僕の左目に触れようとした。
「そこまで」
 松前先生の声で、僕は我に返った。