重たい意識が、僕の中へ浮かんでくる。さっきまで、暗い世界のなかに閉じこもっていた思考が、少しずつ僕にぴったりと重なった。
まぶたを上げる前に、二つの匂いが鼻に絡みついてきた。
消毒液のスッとした匂いと、何かが焼けるような焦げつく匂い。
背中と後頭部に、ふかふかした感触がくっついてる。ベッドだ。僕はベッドに寝ているのだ。
時計の、チッチッという秒針の音に紛れて、誰かの呼吸音と、ペンの走る音がする。
答え合わせをするように目を開くと、僕の視界に入ったのは真っ白い天井と、薄いカーテンだった。
あんなに気分が悪くて歩くこともままならなかったのに、目と頭だけはすっきりと冴えている。体の動かなさは相変わらず最悪だ。起き上がろうとして起き上がれず、いまだに鈍った腕で体重を支えなければここから出ることもできない。
「目が覚めましたか?」
カーテンをゆっくりと開くのは、保健室の御紀先生――に変身した三峰先輩だった。
白衣に青いシャツの彼女(というより彼?)は、にこやかにこちらを見下ろしてくる。
「横になったままで結構ですよ」
先輩は僕の手首を取り、脈に指を当てた。ポケットのなかの懐中時計と手首で視線を行き来させている。
「脈は正常ですね。熱は……」
先輩は僕の額に手を当て、頬と首筋にも指先を這わせた。体温を測るのにここまで必要なのか?
「うん、平熱のようです」
そう言うと、先輩は僕の背中に腕を滑らせて、そのまま上体を抱き起こしてくれた。
先生の薬っぽい匂いに紛れて、先輩の焦げた匂いが漂っている。
先生のフリは完璧だ。僕の記憶の先生と何一つ変わらない。
でも、僕の目は、それが偽物だとわかる。匂いのせい? いや、匂いがなくても、この目は見抜けるだろう。それがどういう理屈なのか分からないけど。
「あなたが廊下で倒れていたのを、青葉くんが見つけてここまで運んでくれたのですよ」
「……」
「良きお友達を持ちましたね、浪川くん」
白々しい。全部わかっていたくせに。
わかっていながら、こんな茶番を続けるっていうのか?
「……ふざけんな」
「はい?」
「全部わかってて……おれがクラスメートの存在しない記憶に打ちのめされるってわかっててあんなことを!」
先生に変身した三峰先輩は、目をぱちくりしている。
「みんな……みんな、おれの知らない記憶を共有してる……いつの間にかおれもその記憶の中に生きてる……全部あんたの仕業なんだろう!!」
僕は半狂乱になって、先生の白衣の襟をつかんだ。
青葉と遊んだ記憶は本物のはずだ。電車に乗ったことも、店で買い物したことも、海を眺めたことも、ちゃんと覚えてる。写真だっていっぱい撮った。
「あんたが記憶を塗り替えたんだ! おれの思い出を! 青葉との思い出を踏みにじったんだ!!」
先生は黙っている。僕の八つ当たりを静かに受けとめるだけだ。
それは好都合でもあったが、僕の心に不安の種がひとつ植えつけられた。
「いや……いや……? おかしいのはおれの方……? 青葉と遊んだことも、姉ちゃんに話したことも全部おれの妄想で、本当は……
なんでだよ……もう、何も信じられないよ……何を信じたらいいんだよ……」
言いたい放題しているうちに、自分に自信がなくなってきた。
本当は、自分が幻を見ていただけで、現実は彼らの方だったんじゃないか?
もしかしたら、姉も青葉との思い出もすべて都合のいい妄想で、僕こそがこの学校の異物なんじゃないか?
不安は急速に成長していき、最後には、僕から希望の種一粒を摘み取りひねりつぶした。
もう、何も言えなかった。
時計の秒針の音が、大きく聞こえる。自分の荒れた吐息も、うっとうしいほど聞こえた。
「おかわいそうに」
先生の手が、僕の手を包む。今の僕に負けないくらい、冷たかった。
「今まで信じていたすべてが、崩れ去ってしまったのですね」
先生の声で、三峰魁はしゃべる。その冷たい手は僕の頬を包んで、顔を上げさせる。保健室の御紀先生の慈しむような目が、僕を見つめていた。
もしかしたら、三峰魁も僕のまぼろしだったのだろうか?
そう思った。
「……ですが、それは嬉しいかぎりです。
何せあなたの目は、確かに私という異物だけを確実に見てくれているのですから」
背中に、薄氷が滑った。先生の声は少しずつ三峰魁に変わっていく。先生の姿に時々ザザッとしたノイズがかかる。
先生の姿が三峰先輩に一瞬だけ変わって、また先生に戻る。また、あの匂いだ。何かが焦げつく匂い。
「みつみね、かい……せんぱい……」
「ねえ、浪川くん?」
「……先生?」
「きみ。僕だけの目」
先生の姿が、三峰先輩に戻る。ふわふわの白い髪と、青紫の目は、間違いなく三峰魁のものだ。
「ずいぶん打ち据えられたみたいだね。かわいそうに」
「あんたに同情されんの、すっげーヤなんですけど」
「おや、本当に? 何かにすがりたくて仕方がないような、かわいい顔をしていたのに」
「口が減らないな」
「的を射た言葉だな。……だが、一つだけ訂正させていただこう。きみのクラスメートの記憶を改ざんしたのは、僕ではない」
「……え?」
先輩の声が、真面目になった。
「認識阻害の魔法を、学校全体に僕が敷いているのは事実だ。その延長として、生徒たちの認識も調整している。
だが、きみの記憶を弄るような、特定個人に関する詳細な調整はしていない。僕はまだそこまでの才はないんでね」
先輩の言っていることは事実だ。嘘だと突き放したいけれど、僕の目は彼の言葉が本当だと理解している。
そして嫌悪感もすくすくと育つ。この男は、才能が成長していれば僕に関する記憶をいじくりまわすと言っているのだから。
軽蔑を込めて睨み、そして訊ねる。
「じゃあ、青葉たちの記憶がおかしくなってるのって、あの蜘蛛が関わってるってこと?」
「可能性は高い。あれほど高度に記憶を工作するのは、並大抵のことではない。蜘蛛の裏にいる魔法使いは、きっと強い力を持っている。……おそらく、僕の師匠以上に」
柔和に微笑むその顔がイラつく。
「そんなことよりも、きみ」
僕の体が、ベッドに押し戻された。お香の焦げつく匂いと、花の蜜のような甘ったるい香りが混じって鼻につく。
「冷えているね。震えている。怖いのかな? でも勇ましさも感じる」
ザザッと、砂嵐の音が聞こえる。三峰先輩が、ノイズの音を伴って、僕にかぶさった。彼と僕の心臓の音が重なる。
「今、きみを抱いているのは僕で、それは真実だ。この世界がどれほどきみを否定しても、僕だけはきみを信じてあげる」
「……最悪なプロポーズ過ぎ」
「ふふ……く、はは……っ」
喉を鳴らして、先輩はひそやかに嗤う。
「最悪、か……光栄の極みだ。その最悪が、きみの現実を確かなものにするなんて滑稽だと思わないか?」
先輩は前髪をぐしゃっと掻き上げた。輪郭がゆがんで、先生と先輩、二つの輪郭をいったりきたり。焦げた匂いと甘い匂いもいったりきたり。ふうっと息をはいて、「あまり見るな」と命令する。
でも、数秒もすればいつもの意地悪な笑顔を取り戻した。
「きみの信じるすべては僕が保証しよう。
だから……きみはその目で僕を見ていなくてはだめだよ」
まぶたを上げる前に、二つの匂いが鼻に絡みついてきた。
消毒液のスッとした匂いと、何かが焼けるような焦げつく匂い。
背中と後頭部に、ふかふかした感触がくっついてる。ベッドだ。僕はベッドに寝ているのだ。
時計の、チッチッという秒針の音に紛れて、誰かの呼吸音と、ペンの走る音がする。
答え合わせをするように目を開くと、僕の視界に入ったのは真っ白い天井と、薄いカーテンだった。
あんなに気分が悪くて歩くこともままならなかったのに、目と頭だけはすっきりと冴えている。体の動かなさは相変わらず最悪だ。起き上がろうとして起き上がれず、いまだに鈍った腕で体重を支えなければここから出ることもできない。
「目が覚めましたか?」
カーテンをゆっくりと開くのは、保健室の御紀先生――に変身した三峰先輩だった。
白衣に青いシャツの彼女(というより彼?)は、にこやかにこちらを見下ろしてくる。
「横になったままで結構ですよ」
先輩は僕の手首を取り、脈に指を当てた。ポケットのなかの懐中時計と手首で視線を行き来させている。
「脈は正常ですね。熱は……」
先輩は僕の額に手を当て、頬と首筋にも指先を這わせた。体温を測るのにここまで必要なのか?
「うん、平熱のようです」
そう言うと、先輩は僕の背中に腕を滑らせて、そのまま上体を抱き起こしてくれた。
先生の薬っぽい匂いに紛れて、先輩の焦げた匂いが漂っている。
先生のフリは完璧だ。僕の記憶の先生と何一つ変わらない。
でも、僕の目は、それが偽物だとわかる。匂いのせい? いや、匂いがなくても、この目は見抜けるだろう。それがどういう理屈なのか分からないけど。
「あなたが廊下で倒れていたのを、青葉くんが見つけてここまで運んでくれたのですよ」
「……」
「良きお友達を持ちましたね、浪川くん」
白々しい。全部わかっていたくせに。
わかっていながら、こんな茶番を続けるっていうのか?
「……ふざけんな」
「はい?」
「全部わかってて……おれがクラスメートの存在しない記憶に打ちのめされるってわかっててあんなことを!」
先生に変身した三峰先輩は、目をぱちくりしている。
「みんな……みんな、おれの知らない記憶を共有してる……いつの間にかおれもその記憶の中に生きてる……全部あんたの仕業なんだろう!!」
僕は半狂乱になって、先生の白衣の襟をつかんだ。
青葉と遊んだ記憶は本物のはずだ。電車に乗ったことも、店で買い物したことも、海を眺めたことも、ちゃんと覚えてる。写真だっていっぱい撮った。
「あんたが記憶を塗り替えたんだ! おれの思い出を! 青葉との思い出を踏みにじったんだ!!」
先生は黙っている。僕の八つ当たりを静かに受けとめるだけだ。
それは好都合でもあったが、僕の心に不安の種がひとつ植えつけられた。
「いや……いや……? おかしいのはおれの方……? 青葉と遊んだことも、姉ちゃんに話したことも全部おれの妄想で、本当は……
なんでだよ……もう、何も信じられないよ……何を信じたらいいんだよ……」
言いたい放題しているうちに、自分に自信がなくなってきた。
本当は、自分が幻を見ていただけで、現実は彼らの方だったんじゃないか?
もしかしたら、姉も青葉との思い出もすべて都合のいい妄想で、僕こそがこの学校の異物なんじゃないか?
不安は急速に成長していき、最後には、僕から希望の種一粒を摘み取りひねりつぶした。
もう、何も言えなかった。
時計の秒針の音が、大きく聞こえる。自分の荒れた吐息も、うっとうしいほど聞こえた。
「おかわいそうに」
先生の手が、僕の手を包む。今の僕に負けないくらい、冷たかった。
「今まで信じていたすべてが、崩れ去ってしまったのですね」
先生の声で、三峰魁はしゃべる。その冷たい手は僕の頬を包んで、顔を上げさせる。保健室の御紀先生の慈しむような目が、僕を見つめていた。
もしかしたら、三峰魁も僕のまぼろしだったのだろうか?
そう思った。
「……ですが、それは嬉しいかぎりです。
何せあなたの目は、確かに私という異物だけを確実に見てくれているのですから」
背中に、薄氷が滑った。先生の声は少しずつ三峰魁に変わっていく。先生の姿に時々ザザッとしたノイズがかかる。
先生の姿が三峰先輩に一瞬だけ変わって、また先生に戻る。また、あの匂いだ。何かが焦げつく匂い。
「みつみね、かい……せんぱい……」
「ねえ、浪川くん?」
「……先生?」
「きみ。僕だけの目」
先生の姿が、三峰先輩に戻る。ふわふわの白い髪と、青紫の目は、間違いなく三峰魁のものだ。
「ずいぶん打ち据えられたみたいだね。かわいそうに」
「あんたに同情されんの、すっげーヤなんですけど」
「おや、本当に? 何かにすがりたくて仕方がないような、かわいい顔をしていたのに」
「口が減らないな」
「的を射た言葉だな。……だが、一つだけ訂正させていただこう。きみのクラスメートの記憶を改ざんしたのは、僕ではない」
「……え?」
先輩の声が、真面目になった。
「認識阻害の魔法を、学校全体に僕が敷いているのは事実だ。その延長として、生徒たちの認識も調整している。
だが、きみの記憶を弄るような、特定個人に関する詳細な調整はしていない。僕はまだそこまでの才はないんでね」
先輩の言っていることは事実だ。嘘だと突き放したいけれど、僕の目は彼の言葉が本当だと理解している。
そして嫌悪感もすくすくと育つ。この男は、才能が成長していれば僕に関する記憶をいじくりまわすと言っているのだから。
軽蔑を込めて睨み、そして訊ねる。
「じゃあ、青葉たちの記憶がおかしくなってるのって、あの蜘蛛が関わってるってこと?」
「可能性は高い。あれほど高度に記憶を工作するのは、並大抵のことではない。蜘蛛の裏にいる魔法使いは、きっと強い力を持っている。……おそらく、僕の師匠以上に」
柔和に微笑むその顔がイラつく。
「そんなことよりも、きみ」
僕の体が、ベッドに押し戻された。お香の焦げつく匂いと、花の蜜のような甘ったるい香りが混じって鼻につく。
「冷えているね。震えている。怖いのかな? でも勇ましさも感じる」
ザザッと、砂嵐の音が聞こえる。三峰先輩が、ノイズの音を伴って、僕にかぶさった。彼と僕の心臓の音が重なる。
「今、きみを抱いているのは僕で、それは真実だ。この世界がどれほどきみを否定しても、僕だけはきみを信じてあげる」
「……最悪なプロポーズ過ぎ」
「ふふ……く、はは……っ」
喉を鳴らして、先輩はひそやかに嗤う。
「最悪、か……光栄の極みだ。その最悪が、きみの現実を確かなものにするなんて滑稽だと思わないか?」
先輩は前髪をぐしゃっと掻き上げた。輪郭がゆがんで、先生と先輩、二つの輪郭をいったりきたり。焦げた匂いと甘い匂いもいったりきたり。ふうっと息をはいて、「あまり見るな」と命令する。
でも、数秒もすればいつもの意地悪な笑顔を取り戻した。
「きみの信じるすべては僕が保証しよう。
だから……きみはその目で僕を見ていなくてはだめだよ」
