カイナのことは、ミカにしか見抜けない

「…………え?」
 僕の中の時間が、数秒止まる。
 とっておきの部屋? 【あいつ】? テスト勉強?
「えーっと、テスト勉強って、いつの? 先月の?」
「そうそう。お前忘れっぽいな」
 けらけらと青葉が笑う。その笑い声が、不気味に聞こえた。
「お前の他にさ、俺と羽室と新堂と~、女子もいたぞ。えーと黒沢と駒川もだったかな」
 な! と、青葉が葉室と黒沢に声をかける。すると二人ともこちらに寄ってきて、そのときの思い出話を語り出す。
「あーあったねー。あの子がとっておきの部屋教えてくれて。浪川君、部屋のソファが心地よかったみたいで、すやすや寝ちゃってたんだよ」
「は……?」
「浪川君、毎日夜遅くまで天文部の校外活動してて疲れてるからって、ブランケットかけてくれてたんだよ。やさしーなーって」
「そうそう優しいんだよな! 文化祭の時、クラスの売店でてんやわんやしてたときもアイス差し入れてくれてたし」
「秋で涼しかったけど美味かったよな! めっちゃ忙しかったからみんな汗だくで」
「あったあった~」
 次々と、僕と青葉の周囲にクラスメートが集ってくる。入れ替わり立ち替わり、みんな【あいつ】【あの子】のことを語り出す。
 その会話を耳で追えば追うほど、僕の背中に大きな氷みたいな寒気がじりじりと伝った。
 僕の顔から、さあっと血の気が引いていく。彼らが何を言ってるのか本気でわからない。
 おかしい。中間テストの時、僕は確かに図書室にこもって理科の問題を解いていた。とっておきの部屋なんて知らない。試験期間中、僕は図書室と家の往復しかしていない。
「あ、あ、あの……と、とっておきの部屋……って……どこ、だっけ」
 僕が震える声で訊ねると、青葉はけらけらと笑った。その笑い声は笑えない。クラスメートの微笑ましい思い出話は、僕にとって未知の脅威でしかなかった。
「あははっ、相変わらず忘れっぽいんだから!」
「旧校舎二階の空き教室だよ~、浪川君もお気に入りって言ってたでしょ?」
「ちょっと埃っぽかったから、みんなで掃除したよね」
「机並べて、勉強終わったらポーカーとか大富豪とかしたよな~」
 ――ついていけない。
 頭の中が、ざわざわする。ペンを持つ指先が震えて、ちゃんと字も書けない。教科書とノートを抑えるもう片方の手から力が抜けていく。人間の重みがなくなって、人形みたいに体がいやなくらい軽くなっている気がする。
「部屋見つけたの、四月の終わりくらいだったっけ。そのあとゴールデンウィークであいつと遊びに行ってさ」
「ま、待って! ゴールデンウィークは僕と出かけてただろ! 電車で遠出して、ボウリング行ったり、双眼鏡買ったり……か、帰りの電車で海を眺めたりしてた!」
 目の前の青葉は、首を傾げる。でも、この記憶は本物だ。入学してすぐ仲良くなった青葉とは、しょっちゅう出かけるようになった。
 ゲーセンでキーホルダーを貰ったり、連休は二人で遠いところへ遊びに行ったり。入学して初めての友達だったから、思い入れも深く、家に帰って姉にたくさん話した。
 新しい友達ができたよって。このキーホルダーは宝物なんだって。僕の下手な喋りを、姉はにこにこしながら聞いてくれていた。
 青葉だって、「楽しかった!」「また来ような」「次はここに行こうぜ」って、僕に話してくれていたじゃないか。
 それを忘れるわけ……ないよな……?
 祈る気持ちで、青葉に放った。教室が一瞬、しんと静まる。全身氷のように冷えているのに、心臓の鼓動が激しく鳴り響いて、額から汗がにじむ。
「ああ、それ、【あいつ】と観た映画のシーンだろ。お前、現実と映画がまじっちゃってるぞ」
 クラスメートの笑い声が、どっと沸きあがった。
 からかってる? 違う。本気でそう言ってる。
 青葉と過ごした、僕の思い出は、いつの間にかすり替えられていた。ささやかだけど、僕にとっては大切な思い出なんだ。青葉と過ごした時間は、僕を満たしてくれていたんだ。
 なのに……ほかでもない、青葉自身が、それを否定した。
 僕の思い出は……踏みにじられていた?
(どうして……)
 おかしいのは、僕の方なのだろうか。僕が夢を見ているだけ? 三峰先輩というひとも幻で、僕の頭はおかしくなってしまったのだろうか?
 左手のひらが、ずきんと痛む。そこに傷はないのに、鍵で突き刺したときの記憶と、三峰先輩の舌が這った感触が蘇る。
(……そうか)
 僕は、ここでようやく理解した。三峰先輩が、クラスメートと会話しろと指示した本当の目的。
 ――情報収集をしろと言っているんじゃない。
 ――お前のすがる現実は脆いものだと、突きつけるための指示だったんだ。
 クラスメートの声が、遠くに聞こえる。よく響いて、でもくぐもって聞こえる。目の前の青葉も、葉室も、みんなも、モノクロになった視界でぼやけていく。
 ここは現実なのか、夢なのか。
 わからない。わかんないよ。
 僕は勢いよく席を立つ。たいそう不思議そうな顔をして、青葉が見上げてきた。
「どした? 具合悪いん?」
「ごめん保健室行ってくる。吐きそう」
 ノートも教科書も席もそのままに、僕は逃げるように教室を出た。
 保健室は教室棟一階。ここからは階段を下って十メートルほどの近い距離だが、廊下を歩いている時間は永遠のように思えた。
 ふらふらと足がおぼつかない。力が入らなくて、自分の体重さえ支えられない。
 壁に手をついて、鉛を仕込まれたみたいに重たい体を引きずっていく。指先に血が通わなくなって、自分でもわかるくらいに冷えている。
 吐き気はないが、心の奥からわけのわからない何かがこみあげてくる。視界がゆがんで、目がぐるぐる回る。これも夢なんだろうか。
 もう一歩何とか踏み出した僕の目の前が真っ暗になって、頭の中がぐわんぐわんと掻きまわされて、立っていられなくなって、目を開いてもいられなくなって。
 そのまま、廊下に倒れ込んだ。