カイナのことは、ミカにしか見抜けない

「うーん……」
「青葉!」
 青葉はくわっとあくびして、ようやく目をあけた。
「あれ? 浪川?」
「青葉っ」
 さっきまで蜘蛛に囚われて、危うく顔も記憶も失うところだったとは思えないくらいのんきだ。
「てか、やべ。音楽室の掃除して寝落ちしたのか」
「……お前、隙あらば寝るもんな」
 とりあえず話を合わせる。
「じゃあ、帰んないとな。部屋に戻って課題やんねえと。……あれ?」
 青葉の目線は、僕の後ろに注がれる。背後にいるのは、もちろん三峰先輩だ。
「三峰先輩じゃん。こんな遅くまで、浪川と部活ですか?」
「こんばんは、青葉君」
 三峰魁は、瞬時に誰もが望む【三峰魁先輩】の仮面を被った。その微笑は、僕にはいっそ不自然なほどに完璧すぎる。
「浪川くんと備品を取りに来たんだけど、音楽室できみが居眠りしているのを見つけたんだ。気持ちよさそうに寝ていたから、起こすのも忍びなかったけれど。時間が時間だし」
「そうだったんですか〜。気ぃ使わせちゃってすんません」
「構わないよ。さあ、帰ろうか。送るよ」
「いや、そこまでしてもらうのも申し訳ないんで、このまままっすぐ寮に戻ります。ありがとうございました!
 浪川も早く帰るんだぞ〜部活熱心なのはいいことだけど!」
 言うと、青葉はそのまままっすぐ教室を出た。あの蜘蛛にまた出くわさないかと心配だったが、三峰先輩が僕の肩を強くつかんだ。青葉のほかにつかまっていた生徒たちはひとりでに起き出して、ふらふらと危なっかしい足取りで教室を出ていった。僕らに見向きもしない。というか気づいてない。
「彼らは何事もなく自室へ戻る。あの蜘蛛に見つからないよう、魔除けをかけた」
「……信じていいんですか」
 三峰先輩は何が? とでもいうように首をかしげる。ついさっきまで、生徒を犠牲にしようとしていたひとのする仕草ではない。
「生徒たちを捨て置いても、蜘蛛は現れない。痛手を負わせた僕がいる以上はね。それよりも、帰還してうわさ話を吹聴してもらったほうが、何倍もの利益を生む。うわさを聞いて好奇心で旧校舎に向かう生徒を増やせる」
「……やっぱあんた最低」
「選択と集中に秀でると評してもらいたいものだね。そんなことよりも、きみ」
 三峰先輩はのっぺら坊みたいな表情で、僕の左手首を掴む。強く掴んでくるからか、僕は無意識に顔をしかめた。鍵で突き刺した手のひらの血は、もうカピカピに固まっている。
「きみは、なにをした?」
「何をって何?」
「きみには服従のために僕の魔力を与えた。それを破ることはできない。抗えるのは、僕よりも高位にいる魔法使いだけだ」
 僕の傷をじいっと見つめる先輩は、何かをブツブツとつぶやいている。「何が原因だ?」「自傷に使ったのは日常の道具だ」「付属物の問題か?」などなど、何を言ってるかわからない。
 ひとしきり考えて満足したのか、先輩は僕の手のひらをべろっと舐め上げた。
「ひぇっ」
 傷口から引きずり出された神経を、直接舌で撫で上げられる奇妙な感覚だ。ぞわっとうなじが震える。
 手のひらにぱちぱちと火花が散ったような痛みがある。でも数秒すると火花は消え、ズキズキした痛みも遠くへ消えていった。
 血を拭われた左手のひらの傷が、消えた。
「治ってる……?」
「魔力で傷口を覆って、自然治癒力を促進させた。明日には完全に元の左手に戻る」
 あれ? 助けてくれた?
「ありがとう……ございます」
「貴重な目を持つきみに、不要な傷を負わせたくないだけだ」
 三峰先輩が、手を離した。
「さあ、帰ろう。今日のところはここまでだ」
 言うと、三峰先輩は僕の方を見もせず、そのままさっさと音楽室を出ていこうとする。僕は慌てて、先輩の背中を追う。
 旧校舎から寮室へ戻る道中、僕らは何も話さなかった。白い蝶にもさまよう生徒にも出会わず、蜘蛛の糸も蜘蛛自身もいない、いたって平和な道だ。
 でも、脳髄から脊髄に流れるような恐怖と違和感は消えない。白銀の蝶を見た生徒は、蜘蛛に記憶と顔を奪われて、最後は餌。
 そんなうわさが、実際に起こっている。
 蜘蛛を退けて青葉を助け出したとしても、根本的な解決はしていないのだ。
 この、生理的嫌悪の残る学校という世界はまだ続くのだ。
「夕食は残っていないだろうか。部屋の残り物を食べようか。帰ったらお茶を淹れてくれ、浪川愁」
「……」
 ――三峰魁が、噂の解明にたどり着くまでは、ずっと。