カイナのことは、ミカにしか見抜けない

 全身を縛っていた冷たい鎖が、ほどけた気がする。手のひらにじくじくした痛みが走るが、代わりに体が軽くなった。鉛のような足も羽根みたいな軽さに生まれ変わって、僕を動けなくするものは何もなくなった。
 蜘蛛の巣は天井に近いくらいの高さにあるが、僕は助走をつけて飛び乗れた。自分も蜘蛛の巣の中に捕まったもんだけど、構いやしない。
 糸は体に触れると接着剤みたいにべっとり貼り付く。動けば動くほど糸が体じゅうにまとわりついてくる。
 足に絡みつく糸を無視して、なんとか青葉のところまでたどり着けた。眼前には、少年の顔を張り付けた蜘蛛がいて、あっけにとられたのかびっくりしたのか、さっきのニンマリ笑いは消えている。
「青葉!」
 少し顔が薄くなっているが、青葉で間違いない。僕にはわかる。
 ぐったりと眠る青葉の肩をつかんで、強く揺さぶる。
「青葉! 起きろ! こんなとこで寝てたら風邪ひいちやうぞ!」
 風邪どころの話じゃないが、青葉を起こすなら何でもいい。
 巣の上を這うように、青葉の肩を揺さぶったり、頬をぺちぺちと叩いたり、大声で叫んだり。でも青葉は目覚めない。左胸に耳を当てて、鼓動がかすかに聞こえてしんそこホッとした。
「青葉、青葉!!」
「勝手な行動は慎め、浪川愁!」
「うるさい! 青葉を放っておけるかよ!!」
 三峰先輩に、怒鳴ってしまった。彼が青葉も生徒も助ける気がないなら、僕が動くしかないんだから。
 左手のひらの痛みが、僕を奮い立たせてくれる。右手に握りしめていたままの鍵が、チャリっと音を立てた。
 黒猫のキーホルダーは、青葉ともっと仲良くなったときの大切な思い出だ。それさえ奪われたなんて冗談じゃない。
「青葉! 起きろ! なあ、ゲーセン一緒に行くって約束したじゃん、今度は一緒に太鼓叩こうって! お菓子取るゲームでスゴ技見せてくれるって話してくれたじゃん!!」
 青葉は眠ったまま。後ろでは、微かに火の燃えるパチパチ音が聞こえる。
「寝るな起きろ! 遅刻するぞ! 帰りにアイス奢ってやるから!!
 起きてくれよ!! 青葉!!!」
 一瞬、青葉のまぶたがぴくっとした気がする。見間違いなんかじゃないと、自分に強く言い聞かせる。
「ぅん……」
「青葉……!」
 わずかに唸った声と、震える瞼。青葉が、目を覚まそうとしてる。
 胸が熱くなりかけた瞬間、目の前で聞いたこともないような雄叫びが響いた。
 耳がちぎれそうな大きな音で、獣とも虫とも人間とも判別のつかない、巨大な蜘蛛の叫び声だ。
 少年の顔が不機嫌に歪んで、僕の方を睨んでいる。前脚を振り上げて、その鋭い爪を明らかに僕の方へと向けていた。
 餌を取られて怒り狂ってる。そりゃそうだ。僕は友達を助けようとしただけだけど、蜘蛛にとってはいきなり異物が自分の家に踏み込んで餌泥棒してるんだから。
「青葉っ!」
 僕はとっさに、蜘蛛に背を向けるようにして、青葉を抱きしめた。青葉をこれ以上傷つけたくない一心だった。
 蜘蛛の爪って痛いんだろうか? 爪に毒があったら、どうしよう? 顔と記憶を奪われるんじゃなくて、そのまま餌となった場合、末路はもっと怖いのだろうか?
 そんな思いが頭をぐるぐる巡る。難しいことなんてわからない。ここで、僕は死ぬのだろうか?
 恐怖を押さえつけるために、青葉を庇う腕に力を込める。
 空を切る爪の音が自分に迫ってきた。
「あ"あアァァァァッッ!!」
 次に聞こえたのは、苦しそうな悲鳴だ。今度は人間のような声。
 おそるおそる視線を向けると、蜘蛛の頭部にマグマのような炎が灯っていた。少年の顔の半分にまで侵食したそれは収まることを知らず、蜘蛛の顔から広がってどんどん焼き尽くしていこうとする。僕にもその熱さが伝わってくる。焼け焦げる匂いが鼻を突く。
 ぱっと振り返ると、右手をこちらにかざし、静かに睨み上げる三峰先輩がいた。右手のひらがオレンジ色の光に包まれている。
「先輩……っ」
 三峰先輩は何も答えず、じっと蜘蛛を観察している。
「ウゥゥゥ……」
 蜘蛛が苦しそうに唸った直後、蜘蛛の姿が黒い霧に変化した。砂のようにサラサラ溶けて、やがて消える。
 蜘蛛の巣が緩やかにほどけ、僕らも机もピアノも、床にふわりと落ちた。
「蜘蛛を倒した……の……?」
「深手を追わせただけだ。あれは一時撤退したにすぎない」
 先輩の声が、僕の血管に広がっていく。三峰先輩の魔法の効果が、僕の体のなかに戻ってきた。