__2025年10月24日
校内が浮足立った空気に包まれる文化祭。
廊下には手作りの装飾があふれ、普段は勉強一色の同級生たちも、今日ばかりは高校生らしい顔をして笑いあっている。
けれど俺の耳元では常に、見えない秒針が音を立てていた。
クラスの出し物である喫茶店の片隅で、俺はエプロン姿のままポケットに隠した単語帳を指でなぞる。
「櫻井、こんな時まで勉強かよ」と笑う中村の目は、どこか呆れたような、それでいて同情するような色を湛えていた。
俺にとってこの祭りは楽しみではなく、ただの勉強時間を奪う障害物に変換され始めていた。
「玲音! その格好、似合わなすぎだろ」
準備室の裏で、恭汰と鉢合わせた。
恭汰のクラスはライブステージの設営担当らしく、少し汚れたツナギを着て、首にはタオルを巻いている。その無骨な姿が、今の俺にはたまらなく眩しかった。
「……恭汰こそ、それじゃただのガテン系だろ」
「いいんだよ、これが一番動きやすいんだから。ほら、これやるよ」
恭汰が差し出したのは、文化祭の模擬店で買ったらしい琥珀色のべっこう飴。
「お前、最近顔色がずっと白いから。糖分摂れよ」
口に含むと、べっこう飴は熱を帯びた甘さで舌を焼いた。
あの日、プールの水底で感じた冷たさとは正反対の、夕暮れのような甘み。
準備室の窓から差し込む秋の斜光が、恭汰の瞳を琥珀色に染めている。
「……なあ、恭汰。文化祭、終わらなきゃいいのに」
俺の吐き出した本音は、喧騒にかき消されて、恭汰の耳には届かなかった。
____2025年11月20日
文化祭が終わり、季節が急ぎ足で冬へと向かう。
模試の判定が「A」から動かないことに、安心ではなく恐怖を感じるようになった。
1位でいなければならない。1位でなければ、恭汰の隣にいる資格さえないような気がして。
夜、塾からの帰り道。街路樹の銀杏が、まるで腐りかけの金貨みたいに地面を埋め尽くしている。
「……っ、は、」
急に息が苦しくなって、俺は立ち止まった。
肺に吸い込む空気は冷たく乾燥していて、どれだけ深く吸っても、身体の隅々まで酸素が行き渡らない。
自分の指先を見ると、あの日、おにぎりを掴んだ時の温もりはどこにもなく、ただ白く、無機質な骨の形が浮き出ていた。
毎週木曜日。俺は変わらず、橋を渡って恭汰の部屋へ向かう。
恭汰は少しずつ、俺が教えなくても難問を解けるようになってきていた。
「玲音、ここ、お前が言ってた解き方でやったら解けたぞ!」
嬉しそうに笑う恭汰を見て、俺は心のどこかで、言いようのない孤独を感じていた。
俺が教えた知識で、恭汰は自らの足で歩き始めている。
いつか恭汰が俺を追い越して、俺の手が届かない、光の当たる場所へ行ってしまうのではないか。
「……上手くなったな、恭汰」
俺は恭汰の髪を撫でる。
指先に絡まる髪の柔らかさだけが、俺をこの世界に繋ぎ止める最後の未練だった。
窓の外では、欠け始めた月が、冷徹な速度で空を滑っていく。
俺たちの「自転」は、もう二度と同じ速度では回れないことを、俺だけが予感していた。
____2025年12月18日
暖房の効きすぎた進路指導室。
担任の教師と、完璧に整えられたスーツに身を包んだ母親の間に、俺は座らされていた。
「櫻井くんの成績なら、今のところ文句なしのトップです。このままいけば医学部も現実的でしょう」
担任の言葉は一見称賛だったが、その目は俺ではなく、手元の数値データだけを見ていた。
「ですが、最近少し記述問題でのミスが目立ちますね。櫻井くん、何か悩みでもある?」
先生のその問いかけは、救いではなく効率の低下を指摘するアラートに聞こえた。
「先生。この子は昔から詰めが甘いところがあるんです」
母親が即座に言葉を被せる。
「一点のミスが命取りになる世界なんです。悩みなんて持っている暇はありません。冬休みはさらにコマ数を増やして、徹底的に叩き込みますから」
先生はそれに対し「お母様がそこまで熱心なら安心ですね」と、薄く笑って頷いただけだった。
大人たちの間で、俺という人間は医学部合格という成果を出すためのシステムとして完成されていく。
「……はい。頑張ります」
そう答えるしかなかった。教室の窓に映る自分の顔が、ひどく泥のように濁って見えた。
面談の後、逃げるように恭汰の部屋へ窓を跨いだ。
恭汰はこたつを出していて、俺が入るとすぐに「入れよ、寒いだろ」と自分の横を空けた。
「……恭汰。俺、もうすぐ壊れるかもしれない」
冗談めかして言ったつもりだったのに、声が震えた。
恭汰は何も聞かずに、こたつの中で俺の手を握った。
「壊れさせねーよ。お前が壊れそうになったら、俺が窓からお前をさらって逃げてやる」
その無責任で、熱い言葉。
恭汰の手のひらから伝わる熱だけが、俺の心臓の凍結を防いでくれる唯一の不凍液だった。
「……さらってくれる? 本当に?」
「ああ。どこまでもな」
俺は恭汰の肩に顔を埋め、暗闇の中で一滴だけ涙を流した。
____2025年12月22日
期末テストを終え、冬休みを目前に控えた終業式。
俺は、ずっと考えていたことを実行に移すことにした。
「中村、この後……昼飯、食いに行かないか」
隣で帰り支度をしていた中村に声をかける。俺の真剣すぎるトーンに驚いたのか、彼は少し目を丸くして「いいよ」と頷いてくれた。
向かったのは、学校から一駅離れたファミレス。
親には「塾の冬季講習の申し込みで遅くなる」と嘘をついた。
ドリンクバーという魔法のような機械を前に、俺は子供みたいに胸を躍らせている自分を隠せなかった。
「ファミレスきたの何年振りだろ! コーラたまにしか飲めないからテンションあがるわ〜」
注ぎ込まれる褐色の泡。家の冷蔵庫にある栄養補給ゼリーや特濃牛乳とは違う、不健康で、けれど強烈に自由の味がする液体。
中村の「このご時世にそんなことある?」という呆れた声さえ、今は心地よく響いた。
席に着き、ハンバーグが届くまでの短い沈黙。
俺は、覚悟を決めて口を開いた。
「中村さぁ……隣のクラスの高野って知ってる……?」
俺の中に溜まり続けた、重くて甘い毒を少しずつ吐き出すように。
中村は「ちょっと目立ってる人だよね」と答える。
「そう、悪い奴じゃ無いんだけどね……。中学、一緒なんだ」
中村に話している間、俺の脳裏には、いつも俺を救ってくれた恭汰の姿が点滅していた。
「あいつは……俺が捨てたものを全部持ってるんだよな。馬鹿だけど、誰よりも努力してるし、本当に優しいやつなんだ」
本当は、誰にも教えたくなかった。
恭汰の良さを、あいつの隣にいる特別さを、自分だけの特等席にしていたかった。
けれど、最近の俺には分かる。俺の「自転」はもう、長くは持たない。
俺がいなくなった後、あいつが一人きりになるのだけは、耐えられなかった。
「……あいつになんかあったら、よろしく頼む」
中村の戸惑った顔。当然だ、理由も告げずに「あいつをよろしく」なんて。
ちょうど届いたハンバーグが、俺の言葉を強引に遮った。
鉄板の上で弾ける脂の音。
肉を一口食べると、また砂の味がした。恭汰の作ったツナマヨやおにぎりのような、あの鮮烈な色彩はない。
「……うん、おいしいな。これ」
嘘をつきながら、俺はハンバーグを口に詰め込んだ。
中村はそれ以上追求してこなかった。その優しさが有難くもあり、同時に気づいてくれという心の叫びを自分で握りつぶした。
俺はコップに残ったコーラを、喉が焼けるような勢いで飲み干した。
冬の陽光が差し込むファミレスの席で、俺は自分に残された時間が、このドリンクバーのコップが空になる速度よりもずっと早いことを、確信していた。
____2026年1月9日
年が明け、殺気立つ中で行われた塾主催の学力診断テスト。
俺にとっては、合格判定を出すための試験ではなく、「親を失望させないための儀式」だった。
冬の冷気と未来の受験生たちの焦燥が混ざり合い、吸い込むだけで肺が凍りつきそうになる。
数学の最終問題。
ふと、昨夜恭汰の部屋で見た、こたつの上の蜜柑を思い出した。
あの温かいオレンジ色。恭汰の笑い声。
「……ダメだ。考えろ」
俺は自分の左手を強くつねり、現実を引き戻す。
鉛筆を動かす音だけが世界を支配し、俺は再び、数字と記号だけで構成された櫻井家の最高傑作という機械に没入していく。
試験が終わった後の廊下。
手応えは完璧だった。なのに、どうしてだろう。心臓が、石でも詰め込まれたみたいに重い。
成績が上がれば上がるほど、俺と恭汰を繋ぐ普通の時間が、贅沢な罪悪感のように俺を苦しめ始めていた。
模試の自己採点結果を手に、冷え切った自室で独り、机に向かう。
記述問題の一点。採点基準のわずかなズレさえ、今の俺には死の宣告に等しい。
窓の向こう、橋を渡った先にある恭汰の部屋の明かりが、今夜はひどく遠くに見える。
行きたい。窓を跨いで、あの温かいこたつに入って、恭汰のくだらない冗談で笑いたい。
「……行っちゃダメだ。まだ、終わってない」
自分を縛り付けるのは、親の声だけじゃない。
親の期待に応えたいんじゃない。応えないと、俺の居場所がこの世界から消えてしまうからだ。
勉強を止めれば、俺は「櫻井玲音」という名前のついたただの肉塊に成り下がる。この家において、価値のない人間には呼吸する権利さえ与えられない。そんな恐怖が、俺の背中を冷たく撫でる。
廊下で母親とすれ違う。
彼女は俺の顔を見ることなく、「次の模試の対策、立てておいたから机に置いてあるわよ」とだけ言った。
____2026年1月15日
「玲音、お前……そんなにガリガリになって大丈夫か
よ」
木曜日の夜。
恭汰の部屋へ行くと、あいつは俺の顔を見るなり、持っていた漫画本を放り出した。
「飯、食ってねーんだろ。お前の母ちゃん、またなんか言ったのか?」
「……何も。ただ、期待に応えたいだけだよ」
嘘だ。応えたいんじゃない。応えないと、俺の居場所がこの世界から消えてしまうから。
俺はまだ高校生。
どれだけ模試で全国1位を取ろうが、結局、親がいないと生きていけない。食べるものも、着るものも、このペン一本でさえ、彼らの許諾なしには手に入らない。
俺が恭汰を照らす太陽ならば、親は銀河系を見回している支配人だ。
太陽がどれほど燃え盛ろうと、支配人の指先一つで、その燃焼は止められ、宇宙の塵にされてしまう。
俺の輝きは、俺自身のものではない。櫻井家というシステムの管理下で、許可された範囲内で放たれているだけの、不自由な光だった。
恭汰が心配そうに差し出したココアの温かさが、今の俺には熱すぎて、吐き気がした。
「恭汰。……俺、もし1位じゃなくなったら、お前も俺のこと、いらないって思う?」
「はぁ!? お前バカじゃねーの。1位だろうが100位だろうが、玲音は玲音だろ」
恭汰の真っ直ぐな言葉が、今の俺には残酷なまでに眩しすぎた。
その光に当てられるたび、俺の影が濃くなっていく。
「……そうだよな。ごめん、変なこと言った」
俺は恭汰に抱きついた。
この温もりを知らなければ、もっと楽に機械になれたのに。
恭汰という光を知ってしまったから、俺は自分の「自転」が歪んでいくのを止められなかった。
____2026年2月12日
学校では進級に向けたオリエンテーションが始まる。
周りが2年生での文理選択や部活の話で盛り上がる中、俺の視界はどんどん狭まっていく。
恭汰との時間。中村とのファミレス。
それらはすべて、支配人が眠っている隙に盗み出した「偽物の自由」だ。
本当の俺は、真っ暗な宇宙の淵で、ただ支配人の命令を待ち続けるだけの孤独な星でしかない。
「……恭汰、助けて」
喉の奥まで出かかったその言葉を、俺は冷たい唾液と一緒に飲み込んだ。
太陽が助けを求めたら、世界は終わってしまう。
俺は、恭汰の前でだけは、最後まで完璧な太陽のままでいなければならなかったんだ。
____2026年3月9日
廊下に張り出された、無機質な数字の羅列。
俺はそれを、どこか遠い国の出来事のように眺めていた。
1位:中村 蒼空。
……俺の名前は、そこにはない。
視線を下げても、下げても、見慣れた「櫻井玲音」という文字が見つからない。心臓の音が耳の奥でドクン、と跳ね、指先から温度が急速に奪われていく。
10位以内にも、俺はいない。
「……っ」
隣に立つ中村の気配を感じる。あいつは、どんな顔をしているんだろう。
勝者の余裕か? それとも、俺への同情か。
どちらにせよ、今の俺にはそれを確認する勇気も、中村に「おめでとう」と言うだけの酸素も残っていなかった。
「……」
何も見ないように、何も聞かないように、ただの人形になったつもりで教室へ歩く。
周りのざわめきが、全部俺を嘲笑う声に聞こえた。
「櫻井、落ちたな」「やっぱりメッキが剥げたんだ」
そんな幻聴が、耳に突き刺さる。
教室に戻り、担任から手渡された個別の成績表。
そこに印字された順位を見た瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
終わった。
脳裏に、夜な夜な俺を追い詰める声が響く。
『次はないと言ったはずだ、玲音』
『お前にいくらかけていると思っている?』
『期待を裏切るなら、お前に価値などない』
吐き気がした。
胃の底から苦いものがせり上がってくるのを、喉元で必死に抑え込む。
真っ白になった紙の端を、俺は指が白くなるまで強く、強く握りしめた。
クシャリ、と嫌な音がして、俺の価値がシワになっていく。
チャイムが鳴り、放課後の静寂が訪れる。
隣で、中村が気まずそうに俺を伺っているのがわかった。
あいつは優しい。だからこそ、その優しさが今の俺には猛毒だった。
「…俺やばいわ」
声を出そうとしたら、自分でも驚くほど掠れていた。
「……めずらしいよね…、どうかしたの…?」
中村が、慎重に言葉を選んで問いかけてくる。
「いや…特に何も無いんだけど、家帰れねぇ」
嘘だ。何もある。全部が終わりなんだ。
今日、あの家のドアを開けた瞬間、俺は俺でいられなくなる。
父さんに何をされるか。母さんにどんな顔をされるか。
考えただけで、足の震えが止まらない。
「親か…。うちくる?」
中村の提案に、一瞬だけ心が揺れた。
でも、そんなことをしても、明日の朝にはまた地獄が待っているだけだ。
中村の家は、俺にとっての逃げ場にはなれない。
俺が本当に逃げたいのは、この場所じゃない。俺を縛り付ける、この「櫻井玲音」という人生そのものなんだから。
「ははっ、お前ん家言っても解決しねぇわ、ありがとう。自分で何とかする」
俺は、精一杯の力を使って、口角を上げた。
頬の筋肉が強張って、ひどく不自然な形をしているのが自分でもわかる。
中村の瞳に映る俺は、きっと、壊れかけの機械のような顔をしているんだろう。
ごめんな、中村。
お前は、俺をライバルだと思ってくれていたのに。
俺はもう、同じ土俵に立つことすら許されないんだ。
教室を出て、誰もいない階段の踊り場に向かう。
ふと、窓の外を見た。
夕暮れに染まる校庭の向こう、隣のクラスの窓。
そこには、きっとまだ笑っている恭汰がいる。
「……恭汰」
名前を呼ぶだけで、胸の奥がキリリと痛む。
あいつだけは、俺を順位で測ったりしない。
あいつだけは、俺が「1位」じゃなくても、馬鹿みたいに笑って隣にいてくれる。
でも、今の俺が恭汰の隣に行けば、この真っ黒な絶望まであいつに染み込ませてしまう。
あいつの明るい世界を、俺の泥で汚したくない。
俺はもう一度、シワだらけになった成績表を見つめた。
そこに並ぶ数字は、俺を縛る鎖。
窓の外に広がる、どこまでも続く空。
「……全部、消えちゃえばいいのに」
呟いた言葉は、風にさらわれて誰にも届かない。
俺は、一歩一歩、死刑台へ向かうような足取りで、あの冷え切った家へと歩き出した。
玄関を開けた瞬間、空気の密度が変わった。
芳香剤の匂いと、冷え切った静寂。その奥に、獲物を待つ獣のような父の気配がある。
リビングに入ると、テーブルの上にはすでに俺の成績表が置かれていた。
ログインパスワードを共有させられているマイページから、俺が帰宅する前に印刷したのだろう。
「……説明しろ、玲音」
父の声は、怒鳴り声よりも低い、地を這うような冷徹な響きだった。
俺は一歩も動けず、ただ足元のフローリングを見つめる。
「14位……? これが、私たちがこれまでお前に注いできた結果がこれか?」
「……ごめんなさい。次は、必ず……」
「次などないと言ったはずだ!」
ドォン! とテーブルが叩かれる音が、俺の鼓膜を震わせる。
端で震えている母が、視線を逸らして泣き始めた。彼女にとって、俺の成績不振は教育に失敗した母親というレッテルを貼られることと同義なのだ。
「お前の自由が多すぎた。スマホを出せ」
「……え?」
「聞こえなかったのか。お前から、全ての不要なものを取り上げる」
有無を言わさぬ手つきで、俺の手からスマートフォンが奪い取られた。
そのまま父は、慣れた手つきで設定を開く。
「スクリーンタイムを制限する。塾の連絡と、私との通話以外は一切禁止だ。SNSも、ブラウザも、全て削除する。…それから、部屋のドアだ」
「…ドア?」
「今から鍵を外す。勉強中、お前が何をしているか、いつでも確認できるようにするためだ」
目の前が、真っ暗になった。
スマホが制限される。それは、恭汰との唯一の繋がりを断たれることだ。
部屋のドアからプライバシーが消える。それは、恭汰を思い、一人で呼吸する時間さえも奪われるということだ。
「いいか、玲音。お前は私たちが作り上げた最高傑作でなければならない。失敗作に、居場所はないと思え」
父に突き飛ばされるようにして、俺は自室に追い込まれた。
すぐに業者が来たのか、父自身がやったのか、ガチャガチャと音を立ててドアのノブが分解され、小さな隙間が空いたままの、閉じることができないただの板に変えられた。
俺は机に向かい、ペンを握る。
けれど、ノートに書き込まれるのは数式ではなく、絶望だった。
スマホが震えたような気がして、ポケットに手を伸ばすが、そこには何もない。
恭汰。
『玲音大丈夫か?』
俺、もうお前のメッセージを見ることすらできない。
窓の向こう、恭汰の部屋の明かりが見える。
あいつはきっと、俺が今こんな風に檻に閉じ込められているなんて知らずに、また笑って話しかけてくるんだろう。
その屈託のない声に応える資格が、今の俺にあるのだろうか。
制限されたスマホ、外されたドア、監視される時間。
俺を構成するパーツが、一つ、また一つと「櫻井玲音」という個性を剥ぎ取られ、ただの勉強する機械」へと作り替えられていく。
「…恭汰助けて」
声に出したつもりが、吐息しか出なかった。
監視されている。
父の足音が廊下を通るたび、心臓が握り潰されるように痛む。
俺は、震える手で参考書を開いた。
涙で文字が滲んでも、ペンを止めることは許されない。
窓の外では、月が冷たく俺を見下ろしていた。
恭汰。
頼むから、俺を見ないでくれ。
こんな、惨めで、自由も、声も、心も失っていく俺のことなんて。
____2026年3月30日
21:00
俺は監禁されているこの部屋で姿勢を変えずにデスクに向かう。
鍵の空いた窓が勝手に動いたと思ったら、
恭汰が俺の部屋に入ってきた。
「……なにしてんの?」
俺はいまこんな惨めな姿を見られたくなくて、
目線を合わせても恭汰の目は見れなかった。
「いや、返信無いし、大丈夫かと思って……」
「大丈夫だって!余計なことすんなよ、親来たらどうすんだよ」
荒らげたい声を我慢し、声を押し潰しながら言いたくないことばかり、口からこぼれる。
本当は助けてって言いたい。
抱きしめたい。
恭汰に触っていたい。
でも俺はいま自分で光る事が出来ないただの石。
支配されているだけ。
暗い顔した恭汰を無理矢理家に戻すことしか出来ない。
____ごめんね。
静かに窓の鍵を閉め、部屋の明かりを消し、デスクライトの細い光の下で、俺はペンを握っていた。
目の前には、真っ白なちぎった1枚のノート。
白すぎる紙が、何も描けない俺の未来をあざ笑っているようで、吐き気がした。
親から提示された「春休みの学習計画表」は、もはや24時間をすべて管理下に置く拷問器具のようだった。
逃げたい。けれど、逃げる場所なんてこの世界のどこにもない。
『恭汰へ』
この一文を書いただけで、視界が滲んだ。
ペンを持つ指先が震え、インクが一点、涙のように紙に滲む。
読まれるか分からない手紙を俺は何も隠さず思ったことを書き、想いを閉じ込めた。
明日、これを読み返せば、また「櫻井玲音」という仮面を被れるはずだ。
恭汰への「好き」という気持ちが、俺を人間に留めてくれる唯一の錨だった。
恭汰との思い出を残した日記の1番後ろに隠す。
ここに想いがあれば、きっと俺は頑張れる。
そう自分に言い聞かせて目を閉じた。それが、俺の人生で最後に見た、穏やかな夢だった。
____2026年3月31日
春休みの自習室。
窓の外では満開の桜が風に舞っているというのに、この部屋には春の気配など微塵もない。
俺の視界にあるのは、白黒の数字と、自分の指先からこぼれ落ちるシャーペンの芯の欠片だけだ。
ふと顔を上げると、少し離れた席に座る中村と目が合った気がした。
彼が何か言いたそうに口を動かしたのが分かったけれど、俺はすぐに視線を落とした。
今の俺には、誰かの「善意」や「心配」を受け止めるだけの器が、もう残っていない。
イヤホンの音量を一段階上げる。
激しい音楽が鼓膜を叩き、外部の音を完全に塗りつぶしていく。
これでいい。
俺は櫻井家の「最高傑作」という名の、ただの精密機械だ。
感情なんて、正確な計算の邪魔にしかならない。
鏡を見るまでもなく分かる。今の俺の顔は、闇堕ちした物語の主人公みたいに酷い有様だろう。
目の下のクマは、寝不足の証拠じゃない。俺の魂が、内側から少しずつ腐敗して、滲み出てきた色だ。
中村。ごめんな。
君が差し伸べようとしてくれたその手を、俺は自分から振り払った。
あの日、もし君が俺のイヤホンを無理やり外して、「帰ろうぜ」と笑ってくれていたら。
……いや、そんなもしもを考えることさえ、今の俺には許されない。
あんなに誓ったはずの頑張るという言葉は、夕暮れと共に灰になって消えた。
やたら月明かりが眩しく感じる夜。21:00。
本来なら木曜日ではないこの日に、俺が動くはずはなかった。
けれど、もう限界だった。
部屋に充満する期待という名の窒素に窒息しそうで、俺は初めて、スケジュールを無視して窓を跨いだ。
「……恭汰。助けて、恭汰……」
震える足で、窓の縁に立つ。
いつもなら、そこには恭汰の部屋へと続く、二人だけの透明な橋がかかっているはずだった。
どんなに暗い夜でも、恭汰の部屋の明かりが道標になって、俺を導いてくれた。
けれど、今夜の俺の目には、月明かりが邪魔してその橋が見えなかった。
「……あ、そうか。もう、ないんだ」
物理的に壊れたわけじゃない。
俺を現世に繋ぎ止めていた細い糸が、親の重圧と、自分への絶望という重みに耐えきれず、ぷつりと切れた。
心が折れた音が、世界が静止した音に聞こえた。
橋がないなら、歩くことはできない。
けれど、俺の身体は吸い寄せられるように、一歩前へ踏み出した。
そこには固い地面も、冷たいコンクリートもなかった。
ただ、深い、深い、月明かりも消えた夜の闇。
落下する瞬間、不思議と恐怖はなかった。
肺の中に、久しぶりに新鮮な空気が入り込んでくる感覚。
視界の端に、恭汰の部屋の窓が見えた気がした。
カーテンの隙間から漏れる、あの温かい光。
あいつは今、何を読んでいるだろう。俺が昨日教えた公式を、まだ覚えているだろうか。
「……バイバイ、恭汰」
ドン、という鈍い衝撃。
それが、俺がこの銀河系で放った、最後の光だった。
時計の針が、21時を告げる。
いつもなら、二人の時間が始まるはずのその時刻に、俺の時間は永遠に固定された。
俺の「自転」は止まり、ようやく、誰の期待も届かない自由な場所へ、俺は落ちていった。
校内が浮足立った空気に包まれる文化祭。
廊下には手作りの装飾があふれ、普段は勉強一色の同級生たちも、今日ばかりは高校生らしい顔をして笑いあっている。
けれど俺の耳元では常に、見えない秒針が音を立てていた。
クラスの出し物である喫茶店の片隅で、俺はエプロン姿のままポケットに隠した単語帳を指でなぞる。
「櫻井、こんな時まで勉強かよ」と笑う中村の目は、どこか呆れたような、それでいて同情するような色を湛えていた。
俺にとってこの祭りは楽しみではなく、ただの勉強時間を奪う障害物に変換され始めていた。
「玲音! その格好、似合わなすぎだろ」
準備室の裏で、恭汰と鉢合わせた。
恭汰のクラスはライブステージの設営担当らしく、少し汚れたツナギを着て、首にはタオルを巻いている。その無骨な姿が、今の俺にはたまらなく眩しかった。
「……恭汰こそ、それじゃただのガテン系だろ」
「いいんだよ、これが一番動きやすいんだから。ほら、これやるよ」
恭汰が差し出したのは、文化祭の模擬店で買ったらしい琥珀色のべっこう飴。
「お前、最近顔色がずっと白いから。糖分摂れよ」
口に含むと、べっこう飴は熱を帯びた甘さで舌を焼いた。
あの日、プールの水底で感じた冷たさとは正反対の、夕暮れのような甘み。
準備室の窓から差し込む秋の斜光が、恭汰の瞳を琥珀色に染めている。
「……なあ、恭汰。文化祭、終わらなきゃいいのに」
俺の吐き出した本音は、喧騒にかき消されて、恭汰の耳には届かなかった。
____2025年11月20日
文化祭が終わり、季節が急ぎ足で冬へと向かう。
模試の判定が「A」から動かないことに、安心ではなく恐怖を感じるようになった。
1位でいなければならない。1位でなければ、恭汰の隣にいる資格さえないような気がして。
夜、塾からの帰り道。街路樹の銀杏が、まるで腐りかけの金貨みたいに地面を埋め尽くしている。
「……っ、は、」
急に息が苦しくなって、俺は立ち止まった。
肺に吸い込む空気は冷たく乾燥していて、どれだけ深く吸っても、身体の隅々まで酸素が行き渡らない。
自分の指先を見ると、あの日、おにぎりを掴んだ時の温もりはどこにもなく、ただ白く、無機質な骨の形が浮き出ていた。
毎週木曜日。俺は変わらず、橋を渡って恭汰の部屋へ向かう。
恭汰は少しずつ、俺が教えなくても難問を解けるようになってきていた。
「玲音、ここ、お前が言ってた解き方でやったら解けたぞ!」
嬉しそうに笑う恭汰を見て、俺は心のどこかで、言いようのない孤独を感じていた。
俺が教えた知識で、恭汰は自らの足で歩き始めている。
いつか恭汰が俺を追い越して、俺の手が届かない、光の当たる場所へ行ってしまうのではないか。
「……上手くなったな、恭汰」
俺は恭汰の髪を撫でる。
指先に絡まる髪の柔らかさだけが、俺をこの世界に繋ぎ止める最後の未練だった。
窓の外では、欠け始めた月が、冷徹な速度で空を滑っていく。
俺たちの「自転」は、もう二度と同じ速度では回れないことを、俺だけが予感していた。
____2025年12月18日
暖房の効きすぎた進路指導室。
担任の教師と、完璧に整えられたスーツに身を包んだ母親の間に、俺は座らされていた。
「櫻井くんの成績なら、今のところ文句なしのトップです。このままいけば医学部も現実的でしょう」
担任の言葉は一見称賛だったが、その目は俺ではなく、手元の数値データだけを見ていた。
「ですが、最近少し記述問題でのミスが目立ちますね。櫻井くん、何か悩みでもある?」
先生のその問いかけは、救いではなく効率の低下を指摘するアラートに聞こえた。
「先生。この子は昔から詰めが甘いところがあるんです」
母親が即座に言葉を被せる。
「一点のミスが命取りになる世界なんです。悩みなんて持っている暇はありません。冬休みはさらにコマ数を増やして、徹底的に叩き込みますから」
先生はそれに対し「お母様がそこまで熱心なら安心ですね」と、薄く笑って頷いただけだった。
大人たちの間で、俺という人間は医学部合格という成果を出すためのシステムとして完成されていく。
「……はい。頑張ります」
そう答えるしかなかった。教室の窓に映る自分の顔が、ひどく泥のように濁って見えた。
面談の後、逃げるように恭汰の部屋へ窓を跨いだ。
恭汰はこたつを出していて、俺が入るとすぐに「入れよ、寒いだろ」と自分の横を空けた。
「……恭汰。俺、もうすぐ壊れるかもしれない」
冗談めかして言ったつもりだったのに、声が震えた。
恭汰は何も聞かずに、こたつの中で俺の手を握った。
「壊れさせねーよ。お前が壊れそうになったら、俺が窓からお前をさらって逃げてやる」
その無責任で、熱い言葉。
恭汰の手のひらから伝わる熱だけが、俺の心臓の凍結を防いでくれる唯一の不凍液だった。
「……さらってくれる? 本当に?」
「ああ。どこまでもな」
俺は恭汰の肩に顔を埋め、暗闇の中で一滴だけ涙を流した。
____2025年12月22日
期末テストを終え、冬休みを目前に控えた終業式。
俺は、ずっと考えていたことを実行に移すことにした。
「中村、この後……昼飯、食いに行かないか」
隣で帰り支度をしていた中村に声をかける。俺の真剣すぎるトーンに驚いたのか、彼は少し目を丸くして「いいよ」と頷いてくれた。
向かったのは、学校から一駅離れたファミレス。
親には「塾の冬季講習の申し込みで遅くなる」と嘘をついた。
ドリンクバーという魔法のような機械を前に、俺は子供みたいに胸を躍らせている自分を隠せなかった。
「ファミレスきたの何年振りだろ! コーラたまにしか飲めないからテンションあがるわ〜」
注ぎ込まれる褐色の泡。家の冷蔵庫にある栄養補給ゼリーや特濃牛乳とは違う、不健康で、けれど強烈に自由の味がする液体。
中村の「このご時世にそんなことある?」という呆れた声さえ、今は心地よく響いた。
席に着き、ハンバーグが届くまでの短い沈黙。
俺は、覚悟を決めて口を開いた。
「中村さぁ……隣のクラスの高野って知ってる……?」
俺の中に溜まり続けた、重くて甘い毒を少しずつ吐き出すように。
中村は「ちょっと目立ってる人だよね」と答える。
「そう、悪い奴じゃ無いんだけどね……。中学、一緒なんだ」
中村に話している間、俺の脳裏には、いつも俺を救ってくれた恭汰の姿が点滅していた。
「あいつは……俺が捨てたものを全部持ってるんだよな。馬鹿だけど、誰よりも努力してるし、本当に優しいやつなんだ」
本当は、誰にも教えたくなかった。
恭汰の良さを、あいつの隣にいる特別さを、自分だけの特等席にしていたかった。
けれど、最近の俺には分かる。俺の「自転」はもう、長くは持たない。
俺がいなくなった後、あいつが一人きりになるのだけは、耐えられなかった。
「……あいつになんかあったら、よろしく頼む」
中村の戸惑った顔。当然だ、理由も告げずに「あいつをよろしく」なんて。
ちょうど届いたハンバーグが、俺の言葉を強引に遮った。
鉄板の上で弾ける脂の音。
肉を一口食べると、また砂の味がした。恭汰の作ったツナマヨやおにぎりのような、あの鮮烈な色彩はない。
「……うん、おいしいな。これ」
嘘をつきながら、俺はハンバーグを口に詰め込んだ。
中村はそれ以上追求してこなかった。その優しさが有難くもあり、同時に気づいてくれという心の叫びを自分で握りつぶした。
俺はコップに残ったコーラを、喉が焼けるような勢いで飲み干した。
冬の陽光が差し込むファミレスの席で、俺は自分に残された時間が、このドリンクバーのコップが空になる速度よりもずっと早いことを、確信していた。
____2026年1月9日
年が明け、殺気立つ中で行われた塾主催の学力診断テスト。
俺にとっては、合格判定を出すための試験ではなく、「親を失望させないための儀式」だった。
冬の冷気と未来の受験生たちの焦燥が混ざり合い、吸い込むだけで肺が凍りつきそうになる。
数学の最終問題。
ふと、昨夜恭汰の部屋で見た、こたつの上の蜜柑を思い出した。
あの温かいオレンジ色。恭汰の笑い声。
「……ダメだ。考えろ」
俺は自分の左手を強くつねり、現実を引き戻す。
鉛筆を動かす音だけが世界を支配し、俺は再び、数字と記号だけで構成された櫻井家の最高傑作という機械に没入していく。
試験が終わった後の廊下。
手応えは完璧だった。なのに、どうしてだろう。心臓が、石でも詰め込まれたみたいに重い。
成績が上がれば上がるほど、俺と恭汰を繋ぐ普通の時間が、贅沢な罪悪感のように俺を苦しめ始めていた。
模試の自己採点結果を手に、冷え切った自室で独り、机に向かう。
記述問題の一点。採点基準のわずかなズレさえ、今の俺には死の宣告に等しい。
窓の向こう、橋を渡った先にある恭汰の部屋の明かりが、今夜はひどく遠くに見える。
行きたい。窓を跨いで、あの温かいこたつに入って、恭汰のくだらない冗談で笑いたい。
「……行っちゃダメだ。まだ、終わってない」
自分を縛り付けるのは、親の声だけじゃない。
親の期待に応えたいんじゃない。応えないと、俺の居場所がこの世界から消えてしまうからだ。
勉強を止めれば、俺は「櫻井玲音」という名前のついたただの肉塊に成り下がる。この家において、価値のない人間には呼吸する権利さえ与えられない。そんな恐怖が、俺の背中を冷たく撫でる。
廊下で母親とすれ違う。
彼女は俺の顔を見ることなく、「次の模試の対策、立てておいたから机に置いてあるわよ」とだけ言った。
____2026年1月15日
「玲音、お前……そんなにガリガリになって大丈夫か
よ」
木曜日の夜。
恭汰の部屋へ行くと、あいつは俺の顔を見るなり、持っていた漫画本を放り出した。
「飯、食ってねーんだろ。お前の母ちゃん、またなんか言ったのか?」
「……何も。ただ、期待に応えたいだけだよ」
嘘だ。応えたいんじゃない。応えないと、俺の居場所がこの世界から消えてしまうから。
俺はまだ高校生。
どれだけ模試で全国1位を取ろうが、結局、親がいないと生きていけない。食べるものも、着るものも、このペン一本でさえ、彼らの許諾なしには手に入らない。
俺が恭汰を照らす太陽ならば、親は銀河系を見回している支配人だ。
太陽がどれほど燃え盛ろうと、支配人の指先一つで、その燃焼は止められ、宇宙の塵にされてしまう。
俺の輝きは、俺自身のものではない。櫻井家というシステムの管理下で、許可された範囲内で放たれているだけの、不自由な光だった。
恭汰が心配そうに差し出したココアの温かさが、今の俺には熱すぎて、吐き気がした。
「恭汰。……俺、もし1位じゃなくなったら、お前も俺のこと、いらないって思う?」
「はぁ!? お前バカじゃねーの。1位だろうが100位だろうが、玲音は玲音だろ」
恭汰の真っ直ぐな言葉が、今の俺には残酷なまでに眩しすぎた。
その光に当てられるたび、俺の影が濃くなっていく。
「……そうだよな。ごめん、変なこと言った」
俺は恭汰に抱きついた。
この温もりを知らなければ、もっと楽に機械になれたのに。
恭汰という光を知ってしまったから、俺は自分の「自転」が歪んでいくのを止められなかった。
____2026年2月12日
学校では進級に向けたオリエンテーションが始まる。
周りが2年生での文理選択や部活の話で盛り上がる中、俺の視界はどんどん狭まっていく。
恭汰との時間。中村とのファミレス。
それらはすべて、支配人が眠っている隙に盗み出した「偽物の自由」だ。
本当の俺は、真っ暗な宇宙の淵で、ただ支配人の命令を待ち続けるだけの孤独な星でしかない。
「……恭汰、助けて」
喉の奥まで出かかったその言葉を、俺は冷たい唾液と一緒に飲み込んだ。
太陽が助けを求めたら、世界は終わってしまう。
俺は、恭汰の前でだけは、最後まで完璧な太陽のままでいなければならなかったんだ。
____2026年3月9日
廊下に張り出された、無機質な数字の羅列。
俺はそれを、どこか遠い国の出来事のように眺めていた。
1位:中村 蒼空。
……俺の名前は、そこにはない。
視線を下げても、下げても、見慣れた「櫻井玲音」という文字が見つからない。心臓の音が耳の奥でドクン、と跳ね、指先から温度が急速に奪われていく。
10位以内にも、俺はいない。
「……っ」
隣に立つ中村の気配を感じる。あいつは、どんな顔をしているんだろう。
勝者の余裕か? それとも、俺への同情か。
どちらにせよ、今の俺にはそれを確認する勇気も、中村に「おめでとう」と言うだけの酸素も残っていなかった。
「……」
何も見ないように、何も聞かないように、ただの人形になったつもりで教室へ歩く。
周りのざわめきが、全部俺を嘲笑う声に聞こえた。
「櫻井、落ちたな」「やっぱりメッキが剥げたんだ」
そんな幻聴が、耳に突き刺さる。
教室に戻り、担任から手渡された個別の成績表。
そこに印字された順位を見た瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
終わった。
脳裏に、夜な夜な俺を追い詰める声が響く。
『次はないと言ったはずだ、玲音』
『お前にいくらかけていると思っている?』
『期待を裏切るなら、お前に価値などない』
吐き気がした。
胃の底から苦いものがせり上がってくるのを、喉元で必死に抑え込む。
真っ白になった紙の端を、俺は指が白くなるまで強く、強く握りしめた。
クシャリ、と嫌な音がして、俺の価値がシワになっていく。
チャイムが鳴り、放課後の静寂が訪れる。
隣で、中村が気まずそうに俺を伺っているのがわかった。
あいつは優しい。だからこそ、その優しさが今の俺には猛毒だった。
「…俺やばいわ」
声を出そうとしたら、自分でも驚くほど掠れていた。
「……めずらしいよね…、どうかしたの…?」
中村が、慎重に言葉を選んで問いかけてくる。
「いや…特に何も無いんだけど、家帰れねぇ」
嘘だ。何もある。全部が終わりなんだ。
今日、あの家のドアを開けた瞬間、俺は俺でいられなくなる。
父さんに何をされるか。母さんにどんな顔をされるか。
考えただけで、足の震えが止まらない。
「親か…。うちくる?」
中村の提案に、一瞬だけ心が揺れた。
でも、そんなことをしても、明日の朝にはまた地獄が待っているだけだ。
中村の家は、俺にとっての逃げ場にはなれない。
俺が本当に逃げたいのは、この場所じゃない。俺を縛り付ける、この「櫻井玲音」という人生そのものなんだから。
「ははっ、お前ん家言っても解決しねぇわ、ありがとう。自分で何とかする」
俺は、精一杯の力を使って、口角を上げた。
頬の筋肉が強張って、ひどく不自然な形をしているのが自分でもわかる。
中村の瞳に映る俺は、きっと、壊れかけの機械のような顔をしているんだろう。
ごめんな、中村。
お前は、俺をライバルだと思ってくれていたのに。
俺はもう、同じ土俵に立つことすら許されないんだ。
教室を出て、誰もいない階段の踊り場に向かう。
ふと、窓の外を見た。
夕暮れに染まる校庭の向こう、隣のクラスの窓。
そこには、きっとまだ笑っている恭汰がいる。
「……恭汰」
名前を呼ぶだけで、胸の奥がキリリと痛む。
あいつだけは、俺を順位で測ったりしない。
あいつだけは、俺が「1位」じゃなくても、馬鹿みたいに笑って隣にいてくれる。
でも、今の俺が恭汰の隣に行けば、この真っ黒な絶望まであいつに染み込ませてしまう。
あいつの明るい世界を、俺の泥で汚したくない。
俺はもう一度、シワだらけになった成績表を見つめた。
そこに並ぶ数字は、俺を縛る鎖。
窓の外に広がる、どこまでも続く空。
「……全部、消えちゃえばいいのに」
呟いた言葉は、風にさらわれて誰にも届かない。
俺は、一歩一歩、死刑台へ向かうような足取りで、あの冷え切った家へと歩き出した。
玄関を開けた瞬間、空気の密度が変わった。
芳香剤の匂いと、冷え切った静寂。その奥に、獲物を待つ獣のような父の気配がある。
リビングに入ると、テーブルの上にはすでに俺の成績表が置かれていた。
ログインパスワードを共有させられているマイページから、俺が帰宅する前に印刷したのだろう。
「……説明しろ、玲音」
父の声は、怒鳴り声よりも低い、地を這うような冷徹な響きだった。
俺は一歩も動けず、ただ足元のフローリングを見つめる。
「14位……? これが、私たちがこれまでお前に注いできた結果がこれか?」
「……ごめんなさい。次は、必ず……」
「次などないと言ったはずだ!」
ドォン! とテーブルが叩かれる音が、俺の鼓膜を震わせる。
端で震えている母が、視線を逸らして泣き始めた。彼女にとって、俺の成績不振は教育に失敗した母親というレッテルを貼られることと同義なのだ。
「お前の自由が多すぎた。スマホを出せ」
「……え?」
「聞こえなかったのか。お前から、全ての不要なものを取り上げる」
有無を言わさぬ手つきで、俺の手からスマートフォンが奪い取られた。
そのまま父は、慣れた手つきで設定を開く。
「スクリーンタイムを制限する。塾の連絡と、私との通話以外は一切禁止だ。SNSも、ブラウザも、全て削除する。…それから、部屋のドアだ」
「…ドア?」
「今から鍵を外す。勉強中、お前が何をしているか、いつでも確認できるようにするためだ」
目の前が、真っ暗になった。
スマホが制限される。それは、恭汰との唯一の繋がりを断たれることだ。
部屋のドアからプライバシーが消える。それは、恭汰を思い、一人で呼吸する時間さえも奪われるということだ。
「いいか、玲音。お前は私たちが作り上げた最高傑作でなければならない。失敗作に、居場所はないと思え」
父に突き飛ばされるようにして、俺は自室に追い込まれた。
すぐに業者が来たのか、父自身がやったのか、ガチャガチャと音を立ててドアのノブが分解され、小さな隙間が空いたままの、閉じることができないただの板に変えられた。
俺は机に向かい、ペンを握る。
けれど、ノートに書き込まれるのは数式ではなく、絶望だった。
スマホが震えたような気がして、ポケットに手を伸ばすが、そこには何もない。
恭汰。
『玲音大丈夫か?』
俺、もうお前のメッセージを見ることすらできない。
窓の向こう、恭汰の部屋の明かりが見える。
あいつはきっと、俺が今こんな風に檻に閉じ込められているなんて知らずに、また笑って話しかけてくるんだろう。
その屈託のない声に応える資格が、今の俺にあるのだろうか。
制限されたスマホ、外されたドア、監視される時間。
俺を構成するパーツが、一つ、また一つと「櫻井玲音」という個性を剥ぎ取られ、ただの勉強する機械」へと作り替えられていく。
「…恭汰助けて」
声に出したつもりが、吐息しか出なかった。
監視されている。
父の足音が廊下を通るたび、心臓が握り潰されるように痛む。
俺は、震える手で参考書を開いた。
涙で文字が滲んでも、ペンを止めることは許されない。
窓の外では、月が冷たく俺を見下ろしていた。
恭汰。
頼むから、俺を見ないでくれ。
こんな、惨めで、自由も、声も、心も失っていく俺のことなんて。
____2026年3月30日
21:00
俺は監禁されているこの部屋で姿勢を変えずにデスクに向かう。
鍵の空いた窓が勝手に動いたと思ったら、
恭汰が俺の部屋に入ってきた。
「……なにしてんの?」
俺はいまこんな惨めな姿を見られたくなくて、
目線を合わせても恭汰の目は見れなかった。
「いや、返信無いし、大丈夫かと思って……」
「大丈夫だって!余計なことすんなよ、親来たらどうすんだよ」
荒らげたい声を我慢し、声を押し潰しながら言いたくないことばかり、口からこぼれる。
本当は助けてって言いたい。
抱きしめたい。
恭汰に触っていたい。
でも俺はいま自分で光る事が出来ないただの石。
支配されているだけ。
暗い顔した恭汰を無理矢理家に戻すことしか出来ない。
____ごめんね。
静かに窓の鍵を閉め、部屋の明かりを消し、デスクライトの細い光の下で、俺はペンを握っていた。
目の前には、真っ白なちぎった1枚のノート。
白すぎる紙が、何も描けない俺の未来をあざ笑っているようで、吐き気がした。
親から提示された「春休みの学習計画表」は、もはや24時間をすべて管理下に置く拷問器具のようだった。
逃げたい。けれど、逃げる場所なんてこの世界のどこにもない。
『恭汰へ』
この一文を書いただけで、視界が滲んだ。
ペンを持つ指先が震え、インクが一点、涙のように紙に滲む。
読まれるか分からない手紙を俺は何も隠さず思ったことを書き、想いを閉じ込めた。
明日、これを読み返せば、また「櫻井玲音」という仮面を被れるはずだ。
恭汰への「好き」という気持ちが、俺を人間に留めてくれる唯一の錨だった。
恭汰との思い出を残した日記の1番後ろに隠す。
ここに想いがあれば、きっと俺は頑張れる。
そう自分に言い聞かせて目を閉じた。それが、俺の人生で最後に見た、穏やかな夢だった。
____2026年3月31日
春休みの自習室。
窓の外では満開の桜が風に舞っているというのに、この部屋には春の気配など微塵もない。
俺の視界にあるのは、白黒の数字と、自分の指先からこぼれ落ちるシャーペンの芯の欠片だけだ。
ふと顔を上げると、少し離れた席に座る中村と目が合った気がした。
彼が何か言いたそうに口を動かしたのが分かったけれど、俺はすぐに視線を落とした。
今の俺には、誰かの「善意」や「心配」を受け止めるだけの器が、もう残っていない。
イヤホンの音量を一段階上げる。
激しい音楽が鼓膜を叩き、外部の音を完全に塗りつぶしていく。
これでいい。
俺は櫻井家の「最高傑作」という名の、ただの精密機械だ。
感情なんて、正確な計算の邪魔にしかならない。
鏡を見るまでもなく分かる。今の俺の顔は、闇堕ちした物語の主人公みたいに酷い有様だろう。
目の下のクマは、寝不足の証拠じゃない。俺の魂が、内側から少しずつ腐敗して、滲み出てきた色だ。
中村。ごめんな。
君が差し伸べようとしてくれたその手を、俺は自分から振り払った。
あの日、もし君が俺のイヤホンを無理やり外して、「帰ろうぜ」と笑ってくれていたら。
……いや、そんなもしもを考えることさえ、今の俺には許されない。
あんなに誓ったはずの頑張るという言葉は、夕暮れと共に灰になって消えた。
やたら月明かりが眩しく感じる夜。21:00。
本来なら木曜日ではないこの日に、俺が動くはずはなかった。
けれど、もう限界だった。
部屋に充満する期待という名の窒素に窒息しそうで、俺は初めて、スケジュールを無視して窓を跨いだ。
「……恭汰。助けて、恭汰……」
震える足で、窓の縁に立つ。
いつもなら、そこには恭汰の部屋へと続く、二人だけの透明な橋がかかっているはずだった。
どんなに暗い夜でも、恭汰の部屋の明かりが道標になって、俺を導いてくれた。
けれど、今夜の俺の目には、月明かりが邪魔してその橋が見えなかった。
「……あ、そうか。もう、ないんだ」
物理的に壊れたわけじゃない。
俺を現世に繋ぎ止めていた細い糸が、親の重圧と、自分への絶望という重みに耐えきれず、ぷつりと切れた。
心が折れた音が、世界が静止した音に聞こえた。
橋がないなら、歩くことはできない。
けれど、俺の身体は吸い寄せられるように、一歩前へ踏み出した。
そこには固い地面も、冷たいコンクリートもなかった。
ただ、深い、深い、月明かりも消えた夜の闇。
落下する瞬間、不思議と恐怖はなかった。
肺の中に、久しぶりに新鮮な空気が入り込んでくる感覚。
視界の端に、恭汰の部屋の窓が見えた気がした。
カーテンの隙間から漏れる、あの温かい光。
あいつは今、何を読んでいるだろう。俺が昨日教えた公式を、まだ覚えているだろうか。
「……バイバイ、恭汰」
ドン、という鈍い衝撃。
それが、俺がこの銀河系で放った、最後の光だった。
時計の針が、21時を告げる。
いつもなら、二人の時間が始まるはずのその時刻に、俺の時間は永遠に固定された。
俺の「自転」は止まり、ようやく、誰の期待も届かない自由な場所へ、俺は落ちていった。
